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「ああ……華蘭。やっと完成したよ。」
男は虚ろな瞳で虚空を見つめてポツリと掠れた声を漏らした。張りつめていた糸が切れた様に、男はその場でがっくりとうなだれると、座っていた椅子から床へと転がり落ちた。パソコンの明かりに照らされて赤く光る血をまとうキーボードと共に。
ドサッという重い音がしたが、男は目を覚ますことなく深い眠りに落ちていく。安原と久保が傍にいることに男は気が付かないまま――。
「は、ははっ……。まさか、ここまでとはな……。」
安原は倒れたまま動かなくなった男を乾いた目で見つめながら、声を上ずらせる。腰が立たずにその場に座り込んで動けないまま、視線だけを久保に移した。
久保は何も言わずその光景をとろけ切った表情で食い入るように見つめながら、ただ静かに口端を上げた。
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「はっ……ここはっ……。」
男はピンっと張りつめられているシーツの上に横たわっていた。白一色の世界で意識を覚醒させた男は、勢いよく起き上がると辺りをきょろきょろと見回す。糊のきいた上掛けがガサッという音をたててズレる。
消毒の行き届いたツンとした匂いが男の鼻の奥を刺激して思わず男は眉をしかめた。
「ああ、あなた、よかった。目が覚めたんですね。」
華蘭の嬉しそうに弾んだ声が聞こえてきて、男は右に顔を傾けると、薄い水色一色の簡素な病院服を身に着けている華蘭に視線がぶつかった。華蘭はいつもどおりの柔和な笑みを浮かべてはいるが、その視線は男のほんの少しだけ右上を見ている。華蘭の頬は男の頬と同じようにコケており、白く華奢な手からは無機質な管が伸び、透明な液体が絶えず彼女の血管に送られていた。
「その……管はなんだ?」
「ああ、これですか?あなたの腕にもついていますよ?」
華蘭は一瞬だけ自分の腕から伸びる管をなぞるように見ると男の腕を冷たく射抜いた。男は華蘭に誘われるように自分の腕を確認すると、そこから伸びる透明な管を無理やり引き抜こうと腕を動かした。
「なんだこれはっ!?」
「慌てないでください、あなた。私たち一週間もほとんど何も食べていない状態でした。栄養失調で倒れて病院に運ばれただけですよ。」
華蘭は男の手をそっと掴んだ。その手は氷のように冷たく、触れられたところから全身に鳥肌が立っていく。思わず男は自分自身の肩を両腕で交差するように抱きしめた。
男は深呼吸するように深く息を吸い込むと、腹の奥底からにじみ出た冷たい息を吐きだした。
「あなたがくー坊と一緒に完成させた原稿は出版社に送付しておきました。結果がでるのが楽しみですね。」
「あ、ああ。ありがとう。」
男は【原稿】と聞いて、倒れる直前まで書いていた小説のことを思い出した。それは、男が書いた中で一番の最高傑作になったと自ら確信し、男は疲れ切った顔に恍惚とした笑みを浮かべる。目だけが希望の光を浴びてギラギラと輝きを増していく。
そんな男の姿を確認すると、華蘭は笑みを一段と深めるのだった。
――男の枕元には安原と久保から贈られた胡蝶蘭がひっそりと飾られていた。




