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男は両手を頭の上にあげ大きく伸びをした。その反動で男はバランスを崩し、椅子ごと床に転げ落ちた。
「いてててて……。」
男は腰をさすりながら、倒れた椅子を起こしながら自分も立ち上がる。男は椅子で眠ってしまったことで、身体のあちこちが痛むのか、しきりに柔軟体操をしている。
痛む身体をさすりながら、男は顔をしかめた。
「オレは……いったいなにを……。ひっ……。」
身体だけではなく両手も痛む。男は自分の手を見て口元を引き攣らせた。
男の指先はキーボードの打ち過ぎで爪が剥がれていたのだ。
ジクジクとした痛みで男の顔が歪む。
「おはようございます。あなた。」
男の側に音もなく華蘭がやってきて、男の耳元で囁いた。
「ひえっ!?」
男は華蘭が部屋に入ってきたことにも気づかなかった。いや、男と華蘭は一緒の寝室を使っているのだ。華蘭は最初から男のそばにいたのかもしれない。
男は耳元で突如聞こえた声に驚いて身体をビクッと震えさせた。
「あら、驚かせてしまいましたか?」
華蘭がにっこりと笑みを溢す。
「あ、ああ。華蘭だったか……。なあ、オレはいったいなにを……。」
「くー坊と一緒に小説のプロットを夜通し作成していたみたいですよ?記憶がありませんか?」
華蘭がそう言うと男は昨夜の記憶が徐々に蘇ってくる。
男は目の前のパソコンに視線を向けた。そこには、たしかにミステリー小説のプロットが出来上がっていた。
「これを……オレが……?」
男は半信半疑でくー坊と創り上げたプロットを見つめる。
なんて無駄のない洗練されたプロットなのだろうか。男はほぅっと溜めていた息を吐き出した。
「くー坊と一緒なら、あなたはすぐに小説家になれるわ。ねぇ、くー坊?」
『可能です。
論理的なプロット構築能力と、状況を冷徹に分析する客観性を維持し、執筆プロセスを継続する限り、あなたは小説家になれます。』
くー坊は、華蘭の言葉に反応してそう答えた。
「ああ、そうだった。私はくー坊とプロットを一晩中……一晩中!?」
男はそこで正気に戻った。部屋の窓からは久々に顔を出した太陽の光がサンサンと降り注いでいた。
すでに朝の時間帯を大きく過ぎていることは容易と知れる。
「会社は!?なんで起こしてくれなかった!!」
男は会社を無断欠勤してしまった事実に行き当たり顔を真っ青にして震えた。課長への昇進が決まったのだ。それなのに、寝坊して欠勤だなんて弛んでると言われかねない。最悪、課長への昇進が取り消される可能性もある。
男は自分が起きれなかったことを華蘭が起こさなかったことが原因だと華蘭に詰め寄った。
「あなたが満ち足りた表情で眠っておりましたので。」
「それでも起こすのが普通だろう!オレはもうすぐ課長に昇進するんだ!!それなのに、こんな……。」
「問題ありません。あなたはくー坊がいれば小説家になれます。夢を叶える方が大事ではありませんか?私はあなたに夢を叶えて欲しいのです。」
男がいくら華蘭を責めても、華蘭は柔和な笑みを崩すことなく男を宥める。
男も取り乱すことがない華蘭を見ているうちに、小説家になるという夢を叶える方が課長への昇進よりも大事なように思えてきた。
「そうか……確かにそうだな。」
男は最終的には華蘭の意見に頷いた。そんな華蘭の手には大事そうにスマートフォンが握られていた。
男はそんなことにも気づくことなく、気を良くしてパソコンに視線を移した。
「そうです。くー坊と一緒に素晴らしいあなただけにしか書けない小説を書いてください。あなたは小説を書くために産まれてきたのです。」
華蘭の淡々とした声が続く。男にはそれが華蘭からのエールのように思えた。
男は寝食を忘れて執筆に没頭し始める。その様子を華蘭は満足そうに見つめていた。




