懐古の果てに
一日に五本しか電車の止まらない鄙びた駅を出ると、眩しい陽光が照り付けてきた。
「ようこそ矢舞村へ」と書かれた看板はボロボロで、塗装が剥がれ錆が浮き、ホラー映画のゾンビめいた姿に変貌してしまった男女の子供たちとともに、荒廃感をきわだ出せている。その周囲の植え込みすら、長年手入れするものがいないことを窺わせ、一部では枯れ、一部では本来そこに生えていないはずの植物が勢いよく伸びて、無造作に無秩序に広がって収拾のつかない混沌を演出していた。
道端の商店や向かい側に見える飲食店も、やっているのかどうかぱっと見ではわからないくらいに寂れ、それどころかほとんど廃墟と見分けがつかない。「空き地」としか表現しようのない無駄に余った土地。何かを立てかけた跡だろうか、整地され灰色の土と砂利に覆われたそこには命の面影はなく、この夏日の元で奇跡的に残った水たまりが妙に澄んでいるのが印象的だ。一方別の土地は野生のジャングルかと思わせるほどに雑多な植物が伸びて絡まり合っている。
俺はため息をついた。
跡のない田舎だとは思っていた。だがここまで荒れ果てていただろうか。
この土地を離れて12年。その間に、荒廃が進んだのだろうか。
形ばかり舗装された凸凹の道を歩き出すと、カートが凄まじい音を立てた。一瞬どきりとするが、いや、周りが静かすぎるのだと思い直し。再び雷鳴のような音を響かせながらがつがつと歩を進める。
やっぱり、帰ってくるんじゃなかったな。
俺はもう一度ため息をついた。
十八歳まで過ごしたこの村に、懐かしい思い出が一つもないわけではない。
水を跳ね散らかし、魚やサワガニなどを獲った小川。
道なき道を切り開き、廃材や木の枝で秘密基地を作った、裏の小山。
学校帰りにじゃんけんをして負けたやつに棒アイスを買わせた小さな駄菓子屋。
俺が子供の頃、すでに過疎化が進んでいたこの村の小学校には、全部で十人に満たない生徒しかいなかった。だから一年生から六年生まで、みんな揃って遊ぶことが多かった。時に小さい子供たちはじゃまっけで、山の奥や遠くに行くときなどは、四年生以上の子供だけで行動することもあったが、大体の時には面倒を見ていたし、誰にとっても逃げ場のない状況は、お互いの結束を深めるのに役立っていた。
振り返れば懐かしい日々。だが中学、そして高校に進学し、一時間以上をかけてここよりもう少しだけ開けた街に行くようになった俺は、否応なく「外の世界」を知り、この狭い村に、ほとんど恐怖にも似た閉塞感を覚えるようになっていった。
そして、半ば逃げ出すように、俺はこの村を出たのだ。
「てつやくん?」
不意に声をかけられ、俺は立ち止まった。
まばらに家が並ぶ田舎道。その先に、一人の女が立ってコチラを見ていた。
青っぽい花柄のワンピース。鍔の広いベージュの帽子。ほっそりとした立ち姿。
大きな目と、ぽってりとした唇と尖り気味の顎のバランスに、遠い記憶が呼び覚まされる。
「さっちゃん……山部幸子か?」
女はにっこり笑ってうなずいた。
「ひさしぶりね。元気だった?」
「ああ……驚いたな。まさか知り合いが残ってるとは」
「そりゃ残ってるわよ」
「ていうと、さっちゃんはずっとここに?」
幸子は頷いた。
「だいたいね。高校卒業して、三年くらい、街で一人暮らししてたんだけど。おばあちゃんが亡くなった時に戻ってきて、あとはずーっとここ。てつやくんは? どうしたの、突然」
「いや、家が……当時住んでた家がね、叔父が所有してたんだけど、その叔父が亡くなって、俺が継ぐことになって。処分しようとは思うんだけど、とりあえず一度様子を見にこようと」
「そっか。てつやくん、ご両親も村出てたんだっけ」
「ああ、五年くらい前にね。俺が呼んだんだよ。介護が必要にならないうちに、出てきておいたほうがいいって」
「へえ。親孝行なんだ」
「親はしぶってたんだけどね。でもあんまり歳とっちゃうとさ、引っ越しさせるのも、面倒だから。今のうちにと思って」
俺たちは、そのまましばらく並んで歩き続けた。
「なんか用事あったんじゃないの?」
ふと気になって聞いてみる。幸子は首を振った。
「別に。ちょっと、散歩に出ただけ。あ、もしかして、一緒に歩いてたら迷惑?」
「そんなことないよ。家まで一人で歩くのかと思ってうんざりしてたとこだ。気が紛れて助かる」
「なら、よかった……あ、ほら、ここ」
幸子は不意に立ち止まり、右手の山の方を指差す。みると、そこには長い石段があり、高い位置には赤々とした鳥居があった。
「ああ、懐かしいな」
「ね。よく遊んだよね」
あまり人のいた記憶のないその神社は、いつも不思議と綺麗に整えられていた。しんと静まり返った社殿。境内は何者かが掃き清めたように枯葉とてほとんど見当たらなかったし、周囲の山の緑も、侵入してくることはなかった。
中学生くらいの頃だったろうか。一度だけ、こっそり社殿に入り込んだことがある。田舎の一〇代なりにイキって、神聖な場所に上がり込むというタブーを侵してみたくなったのだ。
だが、静寂はそんな浅はかな衝動を一瞬で押さえ込む圧力を伴っていた。俺の虚勢を圧倒する、ただならぬ静けさ。床はたった今磨き上げられたかのようにわずかな光を反射して輝いていた。その床のひんやりした感触に、俺はいつしか、敬虔とすら言えるような心地を味わっていた。
「ちょっと、お参りして行かない?」
「え? ううん」
俺はカートに目をやる。幸子は笑った。
「大丈夫だよ、置いて行っても。盗っていくような人、通らないよ」
少し迷って、それもそうかと思い直す。せめて目立たないところにカートを移動させ、おれは幸子と共に石段を上がり始めた。
「ねえ、てつやくん、この神社の名前、知ってる?」
息を弾ませながら、幸子が言う。その声音に、かすかにぞくりとするような色気を感じたのを隠し、俺は首を傾げた。
「さあ。ただ「神社」としか言ってなかったからな」
「だよね。実はさ、あたしもいまだに知らないんだ」
「なんだよそれ」
俺は苦笑した。じゃあなんでそんな話題を出したのか。
幸子は気にする様子もなく続けた。
「ていうかね、わからなかったの。街にいる間にさ、この村のこと、知っておきたくて色々調べたんだけど、どうしてもわからなかった。名前も、御祭神も、それにいつからあるのかも」
「そんなことあるか? 確か、神社本庁とかに登録されてるんじゃ」
幸子は首を振った。
「必ずしも全部登録されてるわけじゃないみたい。それにしても、こんなに記録がないのは、ちょっと考えられないと思うんだよね。石碑ひとつないし」
「そう、なのか」
「うん。なんとなく気になって、戻ってきてからも暇を見ては通ってたんだけど、なんの手がかりもなし」
「ずいぶん暇だったんだな」
俺は笑う。
周囲の木々が風にさわさわと鳴る。その様子は、どこか俺たちに向かって何かを語りかけてくるようだった。
「まあね。仕事も辞めてきてたし、しばらくはほんとにぶらぶらしてるだけだったから。でも……」
「でも?」
「多分、それも、運命だったんだと思う」
「運命?」
聞き返したその時、俺たちはちょうど石段を登り切った。日頃の運動不足で少々息が切れる。幸子はそんな俺を尻目に、軽やかに、社殿に近づいていく。
「そう。運命っていうか、お呼び、かな」
「お呼び? なんだよ、それ」
背中のリュックを下ろし、ミネラルウォーターを取り出しながら聴く。幸子は振り返り、どこか艶かしさを感じさせる笑顔を浮かべた。
「聞こえたのよ。神様の声が」
ざっと、ひときわ強い風が吹き木々が揺れた。俺はびくっとして辺りを見回す。相変わらず、綺麗に整えられた境内。いるのは俺と幸子だけ。だが、なんだろう、この気配は。風の音の中に、何かの囁きかわす声が聞こえるような気がする。
「この場所はね、ずっと古くから、神様の住まう場所なの。この社殿や、鳥居が建てられるより前。村ができて人が通うようになるより前。いいえ、それどころか、人がこの世に生まれ出る前から」
「な、なんだよ」
俺は無理をして笑い、水を一口飲んだ。
「何を言い出すんだよ。どこぞのホラー小説でもあるまいし」
「おかしいと思わなかった? いつきても、人っ子一人いないこと。なのに常に綺麗に掃除されていること。こんな立派な神社なのに、七五三とか、初詣とか、夏祭りとかさ、一度でも、あった? 神主さんとか巫女さんとかさ、見たことある? ないよね。当たり前なの。そんな人間の作った宗教とは無関係に、ここにはずっと、神様がいらっしゃるの」
「お、おい」
止まらない言葉を遮るように口を挟む。周囲のざわめきはただならぬほどに高まっていた。取り囲まれている。俺たちを取り囲んだ何かが、俺たちの噂をしている。そんな恐怖を振り払いたくて、無理やり強い声をしぼり出す。
「いいかげんに」
「神様はね、眠っておられるのよ。人が生まれ、人が住み、神様を知って建物を建てる、そんなすべての営みが、神様にとっては、ほんのわずかな間の夢のようなもの。あたしはその間のお世話をするために呼ばれて、それからずっとこの場所を見守ってきた」
山がざわめく。何かがいる。何かが迫っている。歓喜と、期待とに満ち、大気に満ちた存在が身を震わせているのが、はっきりと感じられる。
「そして、今日。帰還者が神様を呼び覚ます、そう告げられた。なんのことかわからなかったけど……てつやくんに会って、わかった」
「何言ってるんだ。なんで俺が」
「てつやくん。ねえ、忘れちゃったの? あの日、あなたはこの神社で……」
「何の話だ」
記憶の帷が揺れる。
一度だけ、社殿に入り込んだ、あの日。
俺はなぜ、一人きりで、上がろうと思ったのだったか。いや、俺は本当に一人だったのか。
そして、奇妙に綺麗に整えられた社殿の、ただならぬ静寂の中で、俺は……
床の、冷たさを……
「あの日、あなたは、あたしと……」
「そんな……そんなこと、俺は、どうして…」
そうだ。
どうして忘れていたのだろう。あの日、社殿に上がった俺は、中に先客がいるのに気がついた。
山部幸子だ。
俺と彼女はどちらからともなく近寄り、服を脱ぎ、そして……
そうだ。冷たい床の記憶に、熱く滑らかな肌の感触が重なり、俺は身を震わせた。
「思い出した? あれはね、神様の御意志だったの。神様が、もう一度、この世に生まれ直すための、儀式」
「バカな。何年前のことだと思ってるんだ。あの時君が受胎したというなら、とっくに」
「関係ないわ。儀式って言ったでしょ。あれは、神様を身に宿すための、象徴的な行為だったの。あの時、あたしの中に生じた神様の胎芽は、今、仮初の父たるあなたの血肉を得て、ついに現世に復活するのよ。喜んでいいわ。儀式の担い手でしかなかったあなたが、本当に神様の誕生に寄与できるのだから。ある意味このことで、あなたは本当に神の父になれるのよ」
幸子が俺に向けて一歩を踏み出す。俺は思わず後退る。彼女の、狂気を孕んだ目の輝き。だがワンピースの下で、腹部が異様に突き出し始め、しかもぼこぼこと不規則に動き続けているのはなんなのか。
風がざわめく。大地が揺れる。大気の霊たちが形を成していく。俺の四肢は徐々に自由を失っていく。
「やめろ……やめてくれ……」
「何を怖がるの」
幸子は笑う。
「神様が復活し、神代が再び到来するのよ。素晴らしいことじゃない」
笑顔が恍惚と歪んだ。腹の一部分が一際大きく突出する。次の瞬間、腹部を突き破って、真っ赤な血が吹き出した。笑い続ける幸子の口からも血が溢れ出す。笑い声にゴボゴボと泡立つような音がまじり、真っ白なワンピースが、内と外から血に染まっていく。
その中から……幸子の胎内から、現れるもの。無数の小さく黒い目。虹色に輝く体表。ざわざわと蠢く短い繊毛。歯のびっしり生えた円形の口。ちい、という声が、そこから漏れる。
目が一斉に俺を見る。
ちい、再びそいつが鳴き声を上げる。
俺は絶叫した。
「やめろ! 頼む、やめてくれ! 俺は、俺はそんなつもりは……」
身体が動かない。見えない何かに拘束されているように。全て必至でもがこうとするが、四肢も、首さえも、自由に動かすことができない。俺はなすすべもなく、血まみれで笑う幸子と、その腹からこちらを伺うそいつの姿を交互に見比べる。
突然、ぴぎゃあ、と大きな声をあげ、そいつが飛びかかってくる。俺の顔に狙いを定めて。
「うわああああああ!」
絶叫する俺の口の中に、そいつは潜り込んでくる。