第27話 “お嬢さま”の愛と幸福
話がある、とみずから言ったものの、やけに入念に本棚をたしかめている“カタブツ”は、容易に話し出そうとはしなかった。
「“カタブツ”さま……お話というのは……?」
“カタブツ”のまえの本棚以外を調べつくした“お嬢さま”は、やや手もちぶさたになり、問うて先をうながす。
「ああ、そうだな、うん……」
問われた“カタブツ”は、それでも煮えきらぬ返答でことばをにごした。すでに本棚の確認は三周目に突入している。
瞑目し、やがて思いきったように背すじをのばすと、“お嬢さま”のほうを向く。
「“お嬢さま”! 先ほどは、申しわけなかった。デリカシーのないことを言って……」
“お嬢さま”は、太ももの話題であることを察してまた赤面する。
「もう、その話は、よろしくってよ。“カタブツ”さまの熱意は伝わりましたので……」
「いや、いや! そういう、あれじゃないんだ。また太ももの話をしたいわけじゃない。というかそもそも、ぼくはその、太ももが格別に好きかというとそういうことでもなくて、それは、その――」
へどもどと見ぐるしく弁解した“カタブツ”は、またもことばにつまったあと、こうつづけた。
「キミの、だからなんだ」
言わんとする意図が、その底ににじむ感情が、指の先にピクリと伝わってきて“お嬢さま”の呼吸がつまる。
「こんな状況で、こんなことを告げるのは、きっと、勝手なことなんだろうと、理解している。言うべきではないのだろうと、頭ではわかっている。これはぼくのワガママだ。それでも、ここで死ぬかもしれないことを思うと、ひとつだけ、キミに伝えさせてほしい。ぼくは、キミのことが――」
決意にみなぎったような顔ではなく、ただ、その目にかなしみらしき光をたたえて、“カタブツ”はふっと目のまえのいとしき人へ視線をむけた。
「好きなんだ」
そのまま、ポツポツと、けれど滔々とつづける。
「じつは、以前から、キミがぼくにアプローチをしてくれていると、感じることがあった……いや! これがぼくのただの思いあがりならすまない。でも、その思いあがりがもしまちがいじゃなかったとしたら、ぼくは正直にいって、こわかった。キミとぼくとの、生まれの、育ちの、身分のちがいを、おそれていたんだ。いや、現代日本で、いわゆる古色蒼然とした〈身分〉なんてものが表向き存在しないことはわかっている。でも、育ってきた環境があまりにもちがえば、たとえば夕食のお肉を買うときひとつをとってみても、ぼくがこんな高級品と思うものを、キミがこんな質のものは口にできないと、思うこともあるかもしれない。ぼくがこんな家賃をはらいつづけることはできないと思う家で、キミがこんな最低限の設備さえないところにはいられないと思うことも、あるのかもしれない。そうしたちがいは、生活のあらゆるところで顔を出すだろう。そうして、いつか、ちがいはふたりの心のトゲへと変わっていくのかもしれない……。ぼくはそれをこわがっていた。キミに、ぼくの想像もつかないようなふたりのちがいで、幻滅されたくなかったんだ。キミとの関係を、そんな、自分では意識しようもない、改善しようもないようなちがいで、こわしてしまいたくなかったんだ」
きいている“お嬢さま”のくちびるが、ふるえる。
せまい部屋をゆっくりと歩く“カタブツ”は、それには気がつかず、ことばを継ぐ。
「――だが、この状況になってわかった。ぼくたちひとりひとりに、もはや、未来があるのかはわからない。何年か先の将来というものが、おとずれるかは、もうわからない。いまぼくの胸におどろくほど強固な存在感をもってせりあがってきたのは、『いま、おまえは、彼女のことをどう想っているんだ』という問いだったんだ。そして今回の事件でわかったことがもうひとつある。キミの精神の高潔さだ。キミは危険をかえりみず、他者のために、命をかけることができる。それはある面では、上に立つ者がとるべき態度ではないかもしれない。それでも、ぼくは、キミのことばに、行動に、高潔な精神を見てとった。その立ち姿を、うつくしいと思った。ぼくは、デス畳に敢然と立ち向かうキミを見て、キミのようになりたいと――思ったんだ。キミのとなりに、いま、立っていたいと。ぼくはついカタいことばかり考えてしまううえに、冷静な判断もできない、すぐに思いあがるおろかな人間だけれど、いま現在の気もちをあらわすのであれば、ぼくは、キミのことを心から――」
“カタブツ”はふっと息を吸って、まっすぐに、からだごと“お嬢さま”とむきあった。
「愛している」
“カタブツ”から発せられたピンク色の波動が“お嬢さま”の胸をつらぬき、“お嬢さま”がふっとんで少し浮いた。
が、鍛え抜かれた体幹でもってみごとに体勢を立てなおし、くずおれることはない。
“カタブツ”はまたもや歩きはじめながらぶつぶつとつづける。
「……もしかしたら生活を比喩に出したことですでに察しておられるかもしれないが、ぼくは、キミとの結婚も視野に入れている。だれかと交際するのであれば、結婚を常に意識すべきだと考えるからだ。いや、“中型免許”にも『いちいちカタいんだよ。まだ学生なんだしとりあえずぶつかってみたら』と何度も言われたから、これがいわゆる“カタブツ”たる所以であることもわかっている。とはいえ、ぼくはキミとの関係にそれぐらい本気であることをわかってもらいたくて――」
恥ずかしさが頭を沸騰させているのか、語るのをやめて相手の反応を待つこともできないようすの“カタブツ”であったが、そのとき“お嬢さま”のからだがフッとまえに浮いた。
“カタブツ”の首もとに両腕をからませ、ほおがこらえきれないほどにゆるむ。
「わたくしも――」
そのちいさなひたいを、“カタブツ”の鎖骨へおしあてる。
「あなたのことを、お慕いしております」
そのひとみには、愛の炎があかあかとともっている。
「心から」
あげた顔には、きよらかな、かがやかしい幸福が宿っている。
「わたくしの決死のアプローチが何度も不発におわったときは、どうしたものかと頭をかかえておりましたが……“カタブツ”さまのご懸念は、ごもっともですわ。わたくしをとりまく環境が原因で、なにかを強いることがあるかもしれません。ガマンをさせることがあるかもしれません。でも――そのときは、言ってください。ちがいはあるでしょう。わたくしたちのちがいが、あるいは尋常のものよりはなはだしいことも、あるかもしれません。それでもまずは話し合うことができるのなら、わたくしたちならば、ひとつずつすり合わせて、手と手を重ねて、歩んでいくことができるものとわたくしは信じております。『自分を正しいと思わないこと』というのが、わたくしのおじいさまの教えです。事業を進めるときも、生活をいとなむときも、『もしかしたら、いま、自分がまちがっているのかもしれない』とときには立ちどまって、目のまえの相手への敬意を忘れず、話すことばに耳をかたむけること。わたくしたちなら、それができるのではないのかと、思うのです。苦労もあるでしょう。それは、たとえばほかの方だったなら味わう必要のない苦労も、あるかもしれません。それでも、わたくしは――」
“お嬢さま”の炎は、幸福は、ゆらがない。
ただまっすぐに、すぐ眼前の“カタブツ”へと照射されている。
「わたくしたちにしか到達しえないしあわせが、あるものと信じております。あなたがそばにいてくれるなら、わたくしは――全力であなたをしあわせにします。全身全霊でわたくしもしあわせになります。あなたとわたくしで――天にも地にも恥じることのないしあわせを、手にしてみせますわ」
その笑顔が視界にとびこんできた“カタブツ”は、そのあまりのかがやきに、ふるえた。
自分の弱さが、伝えずに死ぬよりは伝えて死にたいと願う弱さがこのかがやきを生み出したのだと――そして、この生み出した光をかげらせることがもしあれば、それは背負いきれない罪に変じてしまうのではないかと――そうしたおそれが胸中の蒼穹をくもらせた。
それでも……うれしかった。
自分の好きな人に、好意を伝えることができたことが。
自分の好きな人が、自分なんかに好意を伝えてくれたことが。
彼女の強さが、弱い自分に、ちからをあたえてくれた。
「だから……生きていてくださいましね。後悔もあるでしょう。でもそれもひっくるめて、かかえて……生きていてくださいましね。こんな場所で、どこまではたせるものかわかりませんが、それでも最後の瞬間まで、できるかぎり……」
自分の首にからんだ腕と、そしてすぐ目のまえでうるむいとしき人の懇願に、「ああ」と答え、“カタブツ”はひどくふるえながらも……強くその背を抱きかえした。「できるかぎり」
そして、ふたりが抱きあうその一方で、“可憐”が「ふぅん」というちいさな声をもらし、ものかげから見ていたことに、ふたりは気づかなかった――




