第1話 プロローグ――恐怖の館
「死にたくねぇ、おれぁ死にたくねぇよ……」
野生の動物さえも「田舎すぎてくそわろた」と嘲弄するようなある山奥に、ひとつの洋館がたたずんでいた。
二階建てであり、森の木々との調和を重んじた壮麗なるこの洋館は、さまざまな経緯を経て現在はさる資産家に別荘として所有されている。
その邸内の、広々としたリビングの片すみにひびくのは先述の「死にたくない」というすすり泣きである。
この洋館の華やかさにはあきらかにそぐわぬその慨嘆……
その声の主は、ひとりの若者であった。
それにイラ立ったように、別の若者が吐き捨てる。
「うるせぇな、そんなのみんないっしょだよ。おまえだけが、死にたくねぇんじゃ、ねぇんだ……」
「でも、でもよ……楽しい合宿になるはずだったじゃん！ なんで、どうして、こんなことに……」
そうさらなる悲泣をもらしたところで、ガタリと、隣接するあの忌まわしき和室から音がした。
若者はビクリとからだをふるわせるが、その後、なんの物音もせず、その場にいた４人の男女はひたいに汗をにじませながらただ息を殺した。
そう――楽しい合宿に、なるはずだった。
つぎの春には大学を卒業し、就職してからもこのサークルの仲間たちと集まって、「あの夏の合宿、最高だったな」と笑い合うような、青春の熱い一ページになるはずだったのだ。
それが、いまの自分たちにのしかかっているのは「もうすぐ、自分たちはあのバケモノに喰い殺されるかもしれない」という明日をも知れぬ恐怖である。
「こんなことなら、こんなことなら……」
若者はおさえた吐息で、嘆きを再開する。
みっともなく涙を川のように流し、すぐとなりに女子がいることも理解しながら、業火に焼かれるがごとき悲痛さでもってうめいた。
「あの伝説の作品『大室リリＡＶ引退！ ハァンペイジ～巨乳大乱交～』を見ておけばよかった……！」
「おい、“ＡＶソムリエ”」
ひとりが彼に呼びかける。
「最後に『童貞捨ててみたかった』とかじゃなくそれなの？」
「だって、これだけは見られなかったんだ！！ おれがこれまでに小遣いやバイト代をそそぎこんで見てきた珠玉のＡＶは実に3718本。でも、これだけは見られなかった。だって、おれが引退作を見たら、本当に彼女が引退しちゃうじゃないか。事実として引退してようと、最後の作品を見るまでは、おれのなかで彼女は引退してないんだ！ あの彼女の象徴ともいえるあえぎ声の『おぎゃーん』が、もう聞けないなんて……童貞なんてどうでもいい、ただ死にたくねぇ、おれ、こんなところで死にたくねぇんだよ……っ」
“ＡＶソムリエ”は一同がひくほど顔をゆがめて号泣している。
「こんなところで死にたくない」という気もちは全員が持っているものの、「ＡＶ （アダルトビデオ）を見損ねた」が理由である人間はほかにひとりもいなかったため、どんななぐさめのことばなら彼にとどくのか、判じかねたようで周囲はシンと静まった。
――そのときであった。
『おぎゃーん』
どこかから、女性の嬌声としか思われぬ、悦びが下腹部から解き放たれたような、ツヤをおびたおたけびがきこえてきたのである。
「この声は、大室リリさん……！？」
即座に反応する“ＡＶソムリエ”。
「しかも、このあえぎ声は『スパイにしてはでかすぎる～悪の組織にとらわれて～』とも『巨乳メンズエステ嬢のみだらな誘惑』とも似ているが、語尾のあがりかたに大室リリさん後期に見られる円熟さ、快感というコーヒーに溶かしたひと匙の砂糖のごときまろやかなひびきがこめられている……。ま、まさか、『ハァンペイジ～巨乳大乱交～』か！？」
平生であれば“ＡＶソムリエ”の幻聴であろうと一笑に付するところであるが、さにあらず、その場にいただれもが同じ嬌声を耳にしていたのであった。
――いったい、どこからながれてきたのか。
困惑する一同。
まさか、気を利かせたサークルのだれかがインターネットでくだんのＡＶを取得し、“ＡＶソムリエ”に最後の晩餐ならぬ最期のオカズを提供しようというのか。
しかし、後述するがこの地には電波が通らぬ。
周到に前もってダウンロードしてきている人間は皆無であった。
「おれは、『ハァンペイジ～巨乳大乱交～』が見られるなら、いま死んだっていい。いま死んだっていいんだ……！」
“ＡＶソムリエ”は魂の咆哮とともに、目を血走らせて音の発生源をさがした。
そうしているあいだも、強く、弱く、ときには獣の気高き遠吠えのように、ときには天使が甘くはかなくささやくように、さまざまな音色の『おぎゃーん』がうす暗いリビングにこだましている。
“ＡＶソムリエ”は、「ここかっ」とひときわ高い声でさけぶと、ガラリと和室の引き戸をひらいた。
「ばかっ、おまえ、そこには……！」
かたわらにいた男がさけんだのもムリはない。
そこにはあのバケモノが――このサークルの何人もの人間の命を喰い破ったあのモンスターがひそんでいるのだから。
「やはり、『ハァンペイジ～巨乳大乱交～』……！！」
“ＡＶソムリエ”が歓喜の絶叫をあげる。
――それは、一種異常な光景であった。
畳のすぐ真上へ、しごく立体的なホログラムが、幻想的に照射されていたのである。
そこには、あまりにも鮮明な男女のくんずほぐれつの映像が、すぐそこで現実に情事が行なわれているかのようななまめかしさでもって浮かびあがっている。
なるほど、たしかにタイトルに恥じぬ巨乳である。
「畳から、ホログラムが……！？」
「最近の畳にはそんな機能が」
「そんなわけないでしょ」
「やめろ“ＡＶソムリエ”、ワナだ……ッ！」
それを見て口々に制止する一行。
が、砂漠を何日も放浪しているがごとき乾きののち、天よりさずかりし一滴の甘露に等しい水、すなわちその映像に、“ＡＶソムリエ”はわれを忘れた。
命も危険もその存在をなくなした。
『もう、がまんできない。きて……！』
ホログラムのむこう側で、女人がなまめかしく足を大胆にひらき、いざないの吐息をもらす。
「リリさん、いま行きます……！」
“ＡＶソムリエ”は一団の欲望となり、雷鳴のとどろきを思わせる声量で宣言すると、その映像にむかってまっすぐに飛び込んだ。
すると――
バグンッ！！
と、すでにくりかえしきいたその音とともに、二枚の畳が彼を無惨に挟みこみ、サメが人を味わうがごとき幾度もの咀嚼とともに、“ＡＶソムリエ”の肉が、鮮血があたりへと飛び散った。
「え、え、“ＡＶソムリエ”ぇぇぇ！！」
「なんてこと……」
「でも、あいつ、最期にいい顔してたな……」
畳は“ＡＶソムリエ”の血で真っ赤に染まり、そんな気休めのなぐさめ合いが静まったころ、ひとりがそののどに絶望を宿してポツリとささやいた。
「何人の命をうばえば満足するというの――」
くちびるとともに呼気をふるわせたのち、こうつづける。
「デス畳」
