7.生きてていいよ
開け放たれた窓から、そよ風が吹き込んでいた。
窓の前に足音も立てずに出現したハイル先輩は、椅子に括り付けられた俺を一瞥して状況を理解したのか、浅いため息をついて苦笑いした。
「やっほー弟子くん、大変そうだね」
リーダー格の筋肉マンは、切断された手首を押さえながら彼女を睨んでいた。
その下には血溜まりができていた。
「っ、てめぇ⋯⋯どうやって入って来やがった⋯⋯!!」
「え? だってここの窓開いてたし」
「ふざけんな、表の魔力探知をどうやって――」
「え、いなかったよ? そんなの」
直後、彼女が手をかざすと蒼色の斬撃が飛んで行き、男のもう片方の手首を斬った。
彼女の素手から斬撃が確認できたのは一瞬だった。
「っ、ぁあああああああああああああああああああ!!」
「うるさいなー、もういいよ。喋んないで」
「くっそ⋯⋯お前ら、殺っちまえ!!」
両手首の無くなった彼は部下に指示を出した。
突然の襲撃に怖気付いていた部下たちは、一斉に彼女に攻撃を仕掛ける。
そして意外にも、あっさりと彼女は男の一人に胸ぐらを掴まれて持ち上げられた。
「女一人、丸腰で突っ込むなんていい度胸だな! 俺たちをナメるなよ!」
「あはは……ごめんね。でも君には特に用はないんだ」
彼女の光のない眼が男を捉えた途端、彼女の手から放たれた光の矢が男の胴体を貫いた。
「がはっ⋯⋯!?」
「さよなら」
容赦なく、彼女の手刀から飛んだ紅の斬撃が男の頸を撥ねた。
「なっ⋯⋯こ、こいつ!?」
あまりに一瞬の出来事に、その場にいた数人の男たちは武器を手にしたまま動かない。
男の血溜まりには目もくれず、彼女は冷たい目で言った。
「ねぇ、君たちが商売のためにその子を痛めつけるのは自由だけどさ。それって同時に、仲間の私がその子を助けるために君たちを切り刻むのも自由だってことなんだよ。一方的な自由なんてものは、最初から有りはしない。だからさ――」
彼女の金色の両眼が、一瞬紅と蒼にそれぞれ光った。
「――文句ないでしょ?」
そこから、彼女の一方的な『反撃』は始まった。
右手からは紅、左手からは蒼。それぞれ彼女の素手から放たれた斬撃が、ただ宣言通り男たちの身体を豆腐のように切り刻んでいく。
武器を手に立ち向かう敵を、一人一人雑草でも刈り取るかのように簡単に。
そして同時に気づいた。
初めて彼女に出会ったときのあの雰囲気こそが、エルフとして永きを生きてきた彼女の本性なのだと。俺に対する慈悲なんて本当に気まぐれで、他の生命への価値観はそんなものなのだ。
そう、気づいたのだが。
「……………………」
ひたすら手際良く敵を排除していく彼女を見て、俺は思ってしまった。
――綺麗だ。
闘う彼女は、とても綺麗だった。
月明かりの下、圧倒的な力ですべてをねじ伏せる彼女はあまりに神聖で幻想的で、儚かった。狭い部屋を飛び交う二色の斬撃も、立ち回ってなびく美しい銀髪も、彼女の放つ何もかもが。
いつの間にか、彼女の周りにはもう敵は立っていなかった。
その周りには、もう息の根の止まった死体がいくつも転がっていた。
けれど彼女の返り血のついた横顔には、残酷さは何一つ感じられなかった。
無感情。無関心。
そんな言葉が似合う横顔だった。
「あとは⋯⋯あんただけだね」
彼女の見つめる先には、俺を散々痛めつけたあの男が壁に寄りかかっていた。
彼にはもう、両手首と両脚が無かった。
ひどく掠れた声で、男は言った。
「⋯⋯ころ、せ」
動けない彼に一歩近づいて、先輩は言った。
「それ以外に、最期に何か言い残すことはある?」
「⋯⋯ねぇよ。なにも⋯⋯なにも文句はねぇ」
男はそう言い切って、潔く笑っていた。
対する先輩は、少しだけ瞳を揺らしつつ言った。
「そっか、ごめんね。でも、『生きる』って本当はこういうことなんだよ。生きるために私は、私の自由を行使するだけ。誰の文句も、最初っからいちいち気にするつもりはないよ」
男は血のついた唇をつり上げ、目を瞑ったままもう一度笑った。
そのあとすぐ、彼女の右手から放たれた光が静かに男の呼吸を止めた。
「…………」
部屋に残ったのは、無傷で返り血を浴びたハイル先輩と、傷だらけの俺の二つの呼吸だけだった。
彼女はこちらに振り返り、またあの微笑みで俺を見ていた。
「遅くなってごめんね。いま縄切ってあげるから」
妙に安心感のある笑顔だな、と思ってしまった。
俺の背後に回った彼女は、地道にナイフで手首と足のロープを切って解いた。
解放された俺は立ち上がろうとしたが、全身の痛みが舞い戻ってきたためにすぐに倒れかけた。
「ちょ、大丈夫⋯⋯じゃない、よね」
彼女に肩を抱かれ、寄りかかる形になる。
全身に力が入らない。羞恥など気にしていられる余裕はなかった。
先輩はそれから何も言わずに、俺の頭を撫で続けた。
多分これは錯覚なんだろうけど、彼女に半ば抱きしめられて俺はちょっと安堵していた。
おかしな話だ。さっきまで人を虫みたいにぷちぷち殺していた人なのに。
「⋯⋯やめてください」
「えへへ、やだよ。⋯⋯それで、どこが痛む? 場所だけ教えてくれる?」
「手足、あと顔⋯⋯?」
「うん、わかった」
そして、彼女は座り込んだ俺の右脚に触れた。
何をしているのかさっぱりだった俺を置いて、彼女はその手を勢いよく天に掲げ、言った。
「いたいのいたいの、飛んでいけー!」
しーん……
「え、ふざけてるんですか?」
「ち、違うよ!……って、あれ? 効いてないかな⋯⋯?」
効いてって⋯⋯
いや待て、いつの間にか脚の痛みが引いている?
「痛くない⋯⋯」
「よかった。もし効いてなかったら、さすがに恥ずかしかったよ」
「でもこれ、どうやって⋯⋯?」
「魔法だよ。私の手は、『魔法の手』なんだよ」
それ以上彼女がそれについて説明することはなかった。
そして先輩は同じように、俺の四肢から痛みを奪い取った。表面的には傷は消えていなかったけど、さっきまで全身を駆け巡っていた痛みは本当に『飛んでいった』みたいだった。
そうして全身の痛覚が過ぎ去った俺だったが、心の中に湧き出してきたのは、彼女に対する感謝よりもっと他のものだった。
「ハイル先輩」
「ん?」
「⋯⋯すみませんでした」
「なんで君が謝るの?」
さも不思議そうな顔で、先輩は小首を傾げた。
「俺が勝手に罠に嵌ったばかりに、先輩にまた助けてもらうことになってしまって⋯⋯捕まったのは俺のせいなのに、わざわざ先輩の手を煩わせるようなことに⋯⋯俺、迷惑かけてばっかりですよね」
「そうだね。こうなったのは確かに君のせいだよ」
そのあとすぐに、「でもね」と彼女は言葉を付け足す。
「私が君と関わろうと思ったのはただの気まぐれだけど、一度関わろうとした人を簡単に見捨てるほど、私は薄情じゃないから。だから、君を助けたのはちゃんとした私の自由意志だよ。迷惑だなんて、私は微塵も思ってない」
その言葉はたしかに、闇の底に堕ちていこうとしていた俺を救い出してくれた気がした。眩しいほどその生命を輝かせる彼女に、俺は少なからず救われたんだと思った。
俺が床についていた手の上に、先輩は自分の手を重ねた。
冷えきった俺の手より、彼女の手は温かかった。
「君、前に言ったよね?『自分を捨てたパーティメンバーを見返そうとは考えてない』って」
「⋯⋯はい」
「それで一個、気づいたんだ。君は、君の目はもう、何もかも諦めた廃人の目だよ。だから本音を言うと、私はそんな君の目が嫌い」
嫌い、か。
彼女がそんな風に俺を思ってたのは、正直意外でしかなかった。
同時にこうも思った。もしかしたら彼女は、死人の目をしていた俺を日常に引き留めるために俺と関わろうとしていたんじゃないか。
でも、それとこれとは話が違う。
「でも先輩、俺、現実見て気づいたんですよ。俺は必要とされてないんだって。誰にも必要とされないなら、あいつらを見返すことだってきっと無意味ですよ。俺が生き急ぐ必要なんて、どこにも――」
次の瞬間、右頬に痛みが走った。
先輩がもう片方の手で、俺に平手打ちしたみたいだ。
「君の目は節穴?」
「……は?」
「誰にも必要とされてないなんて、君の一存で決めることじゃないよ。現実見てないのは君の方だよ。君は私が見えてないの? 私がここまでして君に生きてほしいって言ってるのに、君は全部無視してるんだよ。――ちゃんと私を見てよ!」
「先輩……」
俺の冷えきった手を強く握って、彼女は言った。
泣いてるような、怒ってるような、そんな曖昧な表情だった。
束の間の沈黙を破るように、俺は口を開いた。
「ごめんなさい」
「だから謝らないでって――」
「今まで、見えないフリしてました。あなたがくれた光も、チャンスも、あなたと一緒にいたこんな短い日々が楽しかったってことも、全部。だから謝ります。ごめんなさい」
「ごめんなさい、か……ふふ、君らしいね」
若干涙を湛えたその目を細めて、彼女は笑った。
俺はまだ、その先の言葉を紡いだ。
「俺は、まだ生きたいです。あなたが、俺の日々を照らして導いてくれるなら。まだ強くなれる。あいつらを見返すのだって、それからでもいい」
「うん、もちろんだよ。一緒に前に進もう。もっともっと強くなろう」
俺の少し温まった手から、彼女は手を離して立ち上がった。
俺も立ち上がろうとしたが、まだ関節が無理をしているらしい。
すると先輩はさも当然のように、その手をそのまま差し出した。
「――ほら、君も立って。立ち上がるんでしょ、ここから」
「はい。ありがとうございます」
俺はもう、立ち上がれる。
誰かに生きてていいよと言われるなら、何度でも死から抗うことができる。
簡単なことだけど、生きる上では大切なことだと、俺は思う。
「そういえば君、名前なんだっけ? 訊いてなかった」
「ルフト、です」
「へぇ、ルフトくんか。珍しいけど、いい名前だね」
彼女にその名を刻むように、俺はその手を握り返した。
これが、本当の彼女と俺の第一歩だと信じて。