19.別れ、或いは旅立ち
「止まった⋯⋯?」
三日月に照らされた夜更け、俺は呟いた。
最後の矢を放とうとしていた最中だった。
先程まで、絶えず一心不乱に剣を振り回していた彼の動きが止まったのだ。まるで、そこにないはずの魂を抜き取られたかのように。
脱力した腕から、剣がこぼれ落ちた。
もちろん、今までこいつと闘ってきてこんなことはなかった。
様々な疑問を踏み倒して、一つの淡い期待が湧き上がる。
「おい⋯⋯お前、」
彼は俺の呼びかけに反応したかのように面を上げ、その口を開いた。
『⋯⋯ロイファー』
全身が震えた。
それと同時に、あらゆる感情を超越した何かが、胸の奥から溢れるのがわかった。あのときと似た、本来俺の心の根底で埋もれていたはずの何かが。
思わず手にしていた弓を手放した俺を、彼は透き通った瞳で見つめていた。
あのときから変わらない、優しい目で。
『久しぶりだね、ロイファー。奇跡が起きたよ』
右の眼から、温かいものが流れてくる。
そんな俺を見て、彼はまた笑った。
『やあ、君はあの頃からずいぶんと変わったね』
「シュプリンガー⋯⋯なのか?」
『そうだよ。訳あって、今だけ戻ってきたんだ』
膝に力が入らない。俺はそのまま地面に崩れ落ちた。
残った一本の矢が、地面に衝突して音を立てた。
涙はもう両の目から零れ落ちていた。
『⋯⋯ったく、君は歳とって涙もろくなったのかい? その様子じゃ、まだお嫁さんはもらってないみたいだね』
「馬鹿が⋯⋯余計な、お世話だ⋯⋯」
『そうだったね。⋯⋯でも、僕の最後の頼みは聞いてくれたみたいでよかったよ』
思えば、今の俺は彼の最後の頼みだけはきちんと遂行して生きてきたのだ。『物書きになる』という突拍子もない彼の頼みを。禁煙も結婚もロクに出来なかった俺だったが。
『ロイファー』
「何だ?」彼と話しているうち、馬鹿らしくて涙は引っ込んでいた。
『訳あって、と言ったね。残念ながら、今日も僕には時間がないんだ。少しだけ、僕のわがままを聞いてはくれないか?』
「⋯⋯ああ。勿論だ」
シュプリンガーの墓石の前に並んで座りこみ、俺たちは夜空に浮かぶ月を眺めながらぽつぽつと話し始めた。闘いで動き回ったからか、汗で湿った身体に夜風が当たり、肌寒く感じた。
『自分の墓石の前で話すなんて、変な気分だよ』
彼はそう言って、未だ色褪せないあの笑みを浮かべた。
風に吹かれてなびく一筋の黒髪も、嫌というほど整った鼻筋も、最期に見たときから変わっていない。あれから三年、騎士を辞めて男として落ちぶれていった俺とは真反対だ。
唯一変わったところと言えば、身体が半透明なことくらいだろう。
『まず一つ』と彼は前置きして話し始めた。
『僕の愛しの妻――シャリーについて』
まずそれかよ、と彼の愛妻家具合に呆れる。
でもそれはそれで彼らしい。
「⋯⋯彼女は、お前が死んで一番悲しんでいた」
『知ってるよ。シャリーにはほんと、悪いことしたなぁ』
ついでに言うと彼女は、シュプリンガーが死んで一週間食事すら喉を通らなかったらしい。あまりに突然過ぎたのだろう。戦死の報せを受けたときの彼女の顔は、今でも目に焼き付いている。
彼への愛を貫いたまま、彼女は今も再婚はしていない。
『⋯⋯だから、シャリーにこう言ってほしいんだ。っても、君が言って信じてくれるかは知らないけど』
「伝える。必ずな」
俺が頷くと、彼は一息ついて言った。
『「勝手に居なくなってごめん。僕を愛してくれてありがとう。君はもう充分僕のために泣いてくれたよ。だから君は僕のことはもう忘れてくれ。君の新しい幸せを、僕は心から願ってるよ。天国でも君を愛してる」⋯⋯⋯⋯シュプリンガーより』
よくそんな文がすらすらと出てくるものだ。もしかしたら、彼の方が小説家には向いていたのかもしれない。だがそれを告げる彼の目は、もう会えない人を想った慈愛を含んでいるようにも見えた。
『あ、伝えるのは手紙でいいよ』
「当たり前だ」
『あはは』
まったく、こんなときまでこいつは。
俺とお前にどれだけのブランクがあったと思っているんだ。
『次に君、ロイファーへ』
彼はそう呟くと、自分の右手を空に高く掲げてみせた。目を細めて見ているところからして、きっと自分の仮の肉体に複雑な感情を抱いているのだろう。
『僕の頼みを素直に聞いてくれて、ありがとう。「物書きになれ」なんて馬鹿らしい頼みを聞いてくれて』
「⋯⋯ああ。まだ、お前の話は書けていないが」
『やっぱりそうか。僕はね、あのときは言えなかったけど、本当は⋯⋯怖かったんだ』
うつむき加減に、彼はそこで言葉を区切った。
そしてまた夜空に浮かぶ淡い月を眺め、続けた。
『このまま何も残せずに死んでしまったらって、死に際に君が駆けつけてくれたときに思ったんだよ。こんなの理不尽だって。……これは僕の持論だけど、人の人生の価値は「どう生きたか」じゃなくて「何を残したか」だと思うんだ』
「それで、俺にお前の生きた証を刻むことを頼んだのか?」
『そういうこと。身勝手でごめん』
哀しげな笑みを貼り付けた彼の姿が、心做しかより一層透明度を増して見えた。空の黒が淡く、薄くなっていく。もうすぐ夜が明けようとしている。同時に、彼の終わりも刻一刻と迫っている。
近づく夜明けに焦り、俺は口走る。
「……お前はあのときもう、充分俺たちに多くのものを残していた。少なくともお前の人生は、あの時点で無価値などではなかったはずだ」
『はは、そうかな⋯⋯』
「もちろんだ。俺も、お前の部下だった騎士たちも、お前の愛する人も、誰もがお前を心に宿して今を生きている。たとえお前の死がそこにあったとしても、俺たちの中ではお前はまだ生き続けている。だからお前は……お前の人生は、無価値じゃない。俺が書く物語にお前が居なくても、絶対にだ」
必死で言葉を紡いだ俺を見て、彼は微笑んだ。
その頬を伝う涙の雫は、彼の身体をすり抜けて地面に滴り落ちた。そこに落ちるはずのなかった水滴が、確かに今彼の存在によって地面で弾けたのだ。
『そう、だね。ありがとう。本当ならもっと、もっと色んな人たちに感謝して行きたかったけど、もう贅沢は言ってられないみたいだ⋯⋯』
僅かに涙ぐむ彼を照らす月の光はやがて、昇りつつあった朝日にその役割を代わっていた。辺りは眩い陽の光に包まれ、草木たちがようやく目覚める。
――夜が、明ける。
『これで本当に、お別れだね』
「⋯⋯ああ。もう、言い残すことはないのか?」
『うーん、ないかな。こんな奇跡が起きたことだけで、僕は少し報われた気がするよ』
「そうだな。俺ももう一度お前と話せて、この奇跡に救われた」
『うん。あ、そういえば⋯⋯僕たちは「彼女」にも感謝しなければならないね』
「⋯⋯誰のことだ?」
『時期にわかるよ』
意味深に言葉の余韻を残した彼の身体が、朝日に照らされて霞んでいく。
やがてその肉体は少しずつ、風に吹かれる塵のように崩壊を始める。
束の間の奇跡も、これで終わりのようだ。
何もかも吹っ切れたような表情で、彼は威勢よく立ち上がった。
『よし、ロイファー、最後に一つ!』
自分の墓石の前で、彼は大きく息を吸って言った。
『ロイファー、君は生きろ! 禁煙とか家族とか、僕が散々言ったことは気にしなくていい。ただ僕の代わりに、僕をその心に宿して現在を生きてくれ。チェスのビジョップのごとく、前へ走れ。――僕が愛したこの世界を、走り続けろ!』
その言葉が心でリフレインして、出てきたのは情けない涙などではなく、ささやかな笑みだった。俺も彼に倣って立ち上がり、消えゆく彼に向けて言った。
「ああ、俺は走るさ。お前の分まで生き続けてやる。いつかお前に、空の上で逢うそのときまでな」
『はは、それでこそ僕の相棒だ』
そう言って彼は、自らの握り拳を俺に向けた。
塵のごとく崩壊し続ける彼のその拳に、俺は正面から拳を重ねた。
音も、感触すらせずとも、その拳からは何かがひしひしと伝わってくるのがわかった。
「じゃあな、相棒」
『うん。⋯⋯さよなら、相棒』
――この世界を、頼んだよ。
そんな彼の言葉は、消えかけていてもしっかりと俺の耳に届いていた。
彼の身体はいつの間にか、跡形もなく消えていた。
虚空を突いていた拳を、さらに強く握り締めた。
一人残された俺は、拳を降ろして朝日と相対する。
これは彼にとって、納得のいく最期となっただろうか。
少なくとも俺にとっては、悪くない最後だった。




