16.死別と心残り
雨が降っていた。
数分前に降り始めたその雨は現在、勢いを増して地面や窓に打ちつけていた。まるで空がこの世界を責め立てているかのように。
俺はまだ、この喉から何一つ言葉が出てこないことを雨のせいにして無言のままだった。
「――少年、」
ロイファーさんの呼びかけでやっと、俺は俺を取り戻した。
「はい」
「すまない。これは初めに言っておくべきだった」
「なんです?」
「俺の昔話ごときで、お前が何かを変えようとする必要は何一つない」
弓から手を離した彼の手は、おもむろにカップの取っ手を掴んだ。だが彼はそれを口にはせず、止まない雨音の中で凪ぐコーヒーの水面をじっと見つめていた。
「⋯⋯少し喋りすぎてしまったな。俺の話に付き合ってくれて、ありがとう」
「⋯⋯はい。こちらこそ」
角砂糖でかさ増しされたコーヒーを飲み干して、俺は彼に借りていた部屋に戻った。
いつの間にか時計の長針が一周していた。
その日の夜。
俺は居候中の彼の家の一室で、窓際にある机に頬杖を突いて外を眺めていた。
窓枠で切り取られた黒い空。今日も今日とて死人の顔のごとく青白い月は、広い夜空に独り佇んでいた。
俺はただ、そんな景色をぼんやりと眺めていた。
頭にはまったくもって邪念がない。
「――ねぇ、弟子くんってばー!」
邪念発生。
二段ベッドの上で寝っ転がっていたハイル先輩の一声によって、俺の明鏡止水は崩壊した。いや別に特に何も考えることが無かっただけなんだけど。
「なんですか?」
「さっきからぼーっとして、どうしたの? 君にはそんな大人っぽく感傷に浸る癖とかはなかったはずでしょ?」
「ないですけど、まあ⋯⋯」
ただ何となく、彼の話が頭から離れない。
感想とやらを求められると難しいのだが、俺は多分彼の心配通りに考えすぎてしまっているのだろう。その証拠にこの心は今、大きな穴を空けられたように限りなく虚無に近い。
だからなのか、俺は彼女にこんなことを訊いた。
「先輩、『納得できる死別』ってあると思いますか?」
「⋯⋯えっ?」
彼女は目を丸くして俺を見つめる。
どんな質問だよ、と心では悔やんでみるものの俺は彼女の答えが少し気になっていた。俺は彼女の過去は一切知らないが勝手に、そんな死別が彼女にもあったのだろう、と考えていたみたいだ。
「なにそれ、真面目かよ」
「⋯⋯すみません。俺また変なこと――」
「そうだね。ちょっと考えさせてくれる?」
俺に対して何を疑うまでもなく、彼女は「んー」と逡巡しているようだった。
果たして俺の何を察したのだろうか。
「あるよ」
やがて彼女はそう言い切った。
寝転んだ体勢から、彼女はベッドの上で壁に寄りかかって座った。
「というか、私にはあった」
「そうですか」
「あ、でもあんまり面白い話じゃないから聞かないで? ただ⋯⋯」
言い淀む彼女。俺はその先の言葉が完成するのを待った。
「――その人とは、私は仲良くなかったよ」
彼女は首を傾げ、少しだけはにかんで言った。
「それって⋯⋯」
「本当に大切な人との別れはいつだって、残された側からすれば納得なんていかないんだよ。きっと」
その答えに、俺は納得したんだと思う。
一つ、心で何かがストンと腑に落ちたように感じたのだ。
「君がなんでそんなことを私に訊いたのかは、私は興味ないよ。でも、もし君がそれで私のことを思っていたのなら、大いに安心して」
「⋯⋯安心?」
「私はきっと、君より先には死なないから」
その声色に、いつもとは違ったものを覚えた。
彼女が言ったのは「死なない」じゃなくて「死ねない」なんじゃないかとも考えてしまった。
しかし。その言葉は予想外の方向から、俺の不安を晴らしたのだった。
「師匠として君が死ぬまで面倒見てあげるから、安心しなさい!」
「いや重⋯⋯」
あと俺は実際、彼女の弟子になるなんてまだ一言も言ってない。
けど、もう一度考え直してみればそれは。
俺が死んだあと、彼女はまた一人になるということだ。
それを解っていながら、別れを待っていながら、何故彼女は俺と関わろうとするのだろう。自分より早く死に至る俺を、なぜ彼女は「弟子にする」なんて言ったのだろう。
代わりに発生したそんな疑問に脳みそを占拠されたまま、俺は机に突っ伏して眠りについたのだった。




