涼介①
その頃の俺は疲れていた。
10年振りに日本に戻った俺は、環境の変化についていくのが精一杯で、色々とミスをしていた。先日も姪の誕生日パーティーに顔を出す約束をしていたのをすっぽかしてしまい、そのペナルティとしてバレエ教室の発表会を観に行く約束をさせられてしまった。
子供の発表会なんて寝るだろ…と思っていたのだが、これがなかなか凝った演出で、飽きずに観てしまった。しかもこのバレエ教室、公用語がフランス語で、周囲の親も子供同士もみんなフランス語で会話している。すごい世界だ。
「涼介叔父様、こちらよ!」
11歳の姪に手を引かれ、連れていかれた先にいたのは、可愛らしい女性だった。
「麻里子先生!麻里子先生!」
「光希さん、今日はとても素敵でしたわ」
「ありがとうございます。先生方のご指導のおかげです。先生、こちらは私の叔父の真野涼介さん。涼介叔父様、こちらは飯田麻里子先生。私の大好きな先生よ!」
「初めまして真野です。いつも姪がお世話になっています。」
握手をかわす。手も小さいな…。それにしても美しいフランス語だ。
「初めまして飯田です」
「光希が言っていた通り、本当に美しいフランス語ですね」
「ありがとうございます。真野様もお上手ですわ」
バレリーナらしい伸びた背筋に美しい立ち姿。見上げてくる笑顔も可愛い。久しぶりにギラギラしていない女性の視線に好感を覚えた。
真野自動車。学生が就職したい企業ランキングのトップ10に常に入る人気自動車メーカー。俺の祖父がエンジニアの親友と立ち上げた会社だ。今の社長は伯父、父親は副社長。伯父の娘…従姉妹が後継ぎだ。祖父とその親友の妹が結婚して伯父と父が産まれ、従姉妹が後継ぎの同族経営。俺もずっと『真野の御曹司』と言われ、玉の輿を狙う女性たちの標的の一つと見られていたが、大学から海外に出たので、それほど酷い目にあうこともなく、女の子とお付き合いしたり、友人達と馬鹿騒ぎをしたり、学生生活を楽しんでいた。アメリカで4年、イギリスで2年マーケティングや経営を学んで、その後スイスで3年働いてイギリスに戻って1年、従姉妹から帰ってくるように言われた。いつかは真野に帰らなくてはと思っていたから、予定よりも早いと思うくらいで、あまり深く考えずに帰国することを選んだのだが、今は後悔している。もう少し準備をしてから帰るべきだったと。
従姉妹に言われるがまま経営戦略室に入ったのはいいが、なかなかの…ぬるま湯体質だった。ここを叩き直すように言われたが、苦戦していた。でも、俺を一番疲れさせていたのは、俺を獲物と狙い定めた肉食系女子達だった。ギラギラした視線も、物欲しそうな眼差しも、過度のボディタッチもチラ見せも、「セクハラだろ!」と叫びたいくらい、執拗だった。仕事の上でも、社交の場でも同伴者がいた方がいいのは分かっていても、怖くて頼めない。姉や家族の紹介なんてのは、むしろ家族公認と受けとめられて、他の女性からマウントをとろうとする。もうこれ以上、女性の悪い面を見たくないと必要以上に女性と関わるのを避けていた。そんな時、麻里子と知り合った。
『とても綺麗なフランス語を話す、可愛くて、妖精みたいな麻里子先生』…光希から麻里子の名前は何度も聞いてた。紹介された時も、聞いていた通りの人だと思ったし、凛とした立ち姿と美しい発音が忘れられなくて、心に残っていた。だから『asano』のパーティーで見かけた時、すぐに名前が出たんだ。いつものように、積極的過ぎる女性達を適当に対応して早く帰ろうとしていた時、思ったんだ…彼女が隣に居てくれたらパーティーも楽しいのかな…って。
その後の俺は怪しい男だったと思う。とにかく引き受けてもらえるように必死だった。タクシーの中でお試しの一回を引き受けてもらえた時には、心の中でガッツポーズした。ご両親に挨拶をして、遅くなったお詫びと今後のお願いもして、好印象を抱いてもらえるようにしておく。土曜日のパーティーは、ホテルでの創立記念祝だったからドレスの手配が必要になるな…姉に頼もう。タクシーの中でやるべきことの段取りを立てながら、教えてもらったばかりの麻里子のアドレスに今日のお礼のメールを送る。
一つ心に余裕が出来ると、全てにゆとりが感じられるようになるものなのだと、今回の件で知った。麻里子がいると思うと、積極的過ぎる女性達のアピールにも冷静に対応することが出来たし、仕事も、一つずつ結果を出していく方向にチェンジして、焦らないように心掛けてみる。今は現状を把握、分析して、打開策を見つけることを第一として、急激な変化を求めるのをやめてみた。
土曜日。ジムで運動した後、書類のチェック。やはり身体を動かした後は考えがまとまりやすい。業務がスムーズに進むよう、来週の流れを決めておく。
約束の時間に姉から指定された店へ行く。ここは姉が出資している店の一つで、パーティー向けのレンタルショップ。居ると思っていたけど光希まで一緒だとは思わなかった。
「初めての場所に一人では不安でしょ!それに麻里子さんだけでは対応出来ないこともあるかと思って…」
なんて、麻里子のことを思っての発言をしているが、楽しくてしょうがない…という雰囲気が隠せていないし、光希もニヤニヤ笑顔だ。
「麻里子先生を紹介したのは私なんだから、感謝してよね!」
ドレス姿の麻里子は綺麗だった。悔しいが姉のセンスの良さを褒めるしかない。ああ…感謝してるよ。こんな素敵な女性に出会わせてくれて。でも、「琴子お姉様」と呼ばせるのは、ないんじゃないかな。
緊張しているのか、若干表情が固いような感じはするが、人の視線には慣れているのだろう。主催者に挨拶する俺の隣で微笑む姿は、まさしく妖精のように可憐だった。
「麻里子!」
彼女の名を呼ぶ声に周囲を見渡すと
「やっぱり麻里子だわ!どうしてこんなところに?」
「マダム・マフタン!」
美しい老婦人が麻里子を抱きしめていた。隣に立つ俺に気づいたようで、お知り合い?と。
「マダム。こちらは真野涼介さん。私のお友達です。今日は彼のご縁でこのパーティーに来ました。 涼介さん。こちらはマダム・レア=マフタン。私の外国語の先生です」
麻里子がフランス語で紹介してくれたので、俺も名刺を出して挨拶する。
「そう…麻里子のお友達?初めてお名前を聞いたわ」
「最近、親しくなりました。私の姪がエマ・ダンススクールで麻里子さんの指導を受けていまして、年末の発表会で初めてお会いしました」
「年末…ということは、まだ知り合って一ヶ月ね?」
俺のチーフやカフスが麻里子とお揃いなところをさりげなくチェックしながらも、質問の勢いは衰えない。それどころか、彼女のご主人まで登場してしまい、明日のお茶に招かれてしまった。話の進め方も立ち去り方もスマートで隙がない。何者??と思っていると、探していた友人から声をかけられた。
俺の友人…スイスで同僚だったビルとは英語で挨拶を交わしている。クィーンズイングリッシュ寄りの綺麗な発音だ。さっきマダム・マフタンのことを外国語の先生…と紹介してくれたが、この言葉は彼女から教わったのか?それよりも、ビルがマフタン夫妻を大物…と呼んだのが気になる。
その後は話しかけてくる相手を適当に対応しながら、立食を楽しんだ。綺麗に盛り付けられた食事に目を輝かせ、美味しそうに食べる姿はとても愛らしくて、一緒にいて飽きることはなかった。もう少し一緒にいたい…部屋を取って…抱きしめてキスしてその先まで…頭の中にいるもう一人の自分が暴走している。そう思ったら、美味しそうに食べる口元がセクシーに見えて…ダメだ!麻里子はせっかく出会えた大切なパートナーなんだ。姪の憧れの先生なのだから、ダメだダメだ!