麻里子①
スポットライトを浴びて踊るプリマドンナ。
オディールと王子の「黒鳥のパ・ド・ドゥ」。
32回のグラン・フェッテ・アン・トゥールナン。
もう私には踊れない…。
「麻里子先生!麻里子先生!」
ロビーで名前を呼ばれて振り返れば、ワンピースの女の子がスーツの男性の腕をとって、こちらへ歩いてきた。
「光希さん、今日はとても素敵でしたわ」
「ありがとうございます。先生方のご指導のおかげです。先生、こちらは私の叔父の真野涼介さん。涼介叔父様、こちらは飯田麻里子先生。私の大好きな先生よ!」
「初めまして真野です。いつも姪がお世話になっています。」
爽やかな笑顔で右手を差し出されたので、自然と握手をかわす。
「初めまして飯田です」
「光希が言っていた通り、本当に美しいフランス語ですね」
ここまでの会話は全てフランス語で交わされていた。というのも今日は『エマ・ダンススクール』の発表会。主宰の藤崎恵舞先生の方針によりレッスン中はもちろん講師との会話も全てフランス語で行うルールになっている。「バレエとフランス語を同時に習える」「生きたフランス語を学べる」と意識高い系の御姉様方やセレブリティなご家庭に人気のバレエ教室なのだ。
「ありがとうございます。真野様もお上手ですわ」
見上げなくてはならないほど長身の彼の瞳を見つめて微笑み返した。
「麻里子先生!」
別の生徒が自分を呼ぶ声が聞こえる。
「私達はこれで失礼します」
「ええ、光希さん。またレッスンで」
「麻里子先生!私のお兄様です。大学生なの」
「初めまして飯田です」
何回目になるのかしら?今日は同じような挨拶ばかりしているわ。笑顔で答えながらも心の中ではため息をついていた。
『エマ・ダンススクール』の発表会は二幕制。第一幕は生徒達の発表の場。第二幕は本物を観てほしいという恵舞先生の考えからプロによる演舞。今年は『白鳥の湖』から有名な場面をいくつか抜粋して演じられたため、幼い生徒達も夢中になって観ていた。子供たちの輝く瞳も舞台のスポットライトも今の私には眩しすぎる。
1月中旬の金曜日の夜、都内のホテルの宴会場では『asano』の新年会が行われようとしていた。輸入食品会社だけあって招待客の半数以上が海外の方。交わす会話も様々な言語が聞こえてくる。
「麻里子先生!」
受付の手伝いをしていた私は、ここで呼ばれることのない名前で呼ばれたことに驚き、振り返ると、先日お会いしたスーツ姿の男性が立っていた。
「光希さんの…?」
「はい、真野です。先日はお世話になりました。麻里子先生は『asano』にお勤めだったのですか?」
「先生は止めてください…恥ずかしいです…。大学の先輩がこちらにお勤めの関係で、今日はお手伝いをしているんです」
「そうなんですね。私は仕事です」
所属するゼミ『多言語教育』の卒業生が勤務している関係で、毎年ゼミの学生にアルバイトの依頼がくるのだ。
「飯田さん。『麻里子先生』って呼ばれてたけど、何か先生をしているの?」
受付を済ませて会場に入って行く真野様の背中を見送ると、隣の社員さんから声をかけられた。
「はい。バレエ教室の講師をしています」
「バレエ!だから姿勢がいいのね!」
「ありがとうございます」
「小さい時からやってたの?」
「幼稚園から中学校まで通ってました」
「スゴい!長い間してたのね。やっぱり立ち姿が綺麗だわ~」
ずっと『麻里子ちゃんといえばバレエ』と言われていた。年中の時、お友達が習っているからと始めたバレエ。あっという間に夢中になった。もちろん将来の夢はバレリーナ。週4回のレッスンに毎日のストレッチ。家でも何処でも気づくと踊ってて、大好きだった。
小学二年生の時、初めて参加した大きなバレエ団の公開レッスン。同い年なのにとても上手に踊る女の子の姿にも、外国人の先生の話す言葉が分からないことも、ショックだった。悔しくて、親にお願いして英語とフランス語を習い始め、レッスンにも人一倍熱心に通った。練習したらしただけ上達するのが楽しくて、バレエも外国語もたくさん練習した。
「麻里子先生!お帰りですか?」
「真野様!先生は止めてくださいと言いましたのに…」
「失礼しました、麻里子さん。もし、この後お時間をいただける様でしたら、少しだけお付き合いをお願いしたいのですが、どうでしょうか…?」
ゼミの卒業生でもあり、現在『asano』の秘書課に勤める先輩と一緒にエレベーターを待っていると、真野様に声をかけられた。
「お願いしたいことがありまして…。あっ…あの、怪しい話とかではないです。もしよかったら、お隣の方に同席していただいても構いませんので…」
あまりにも一生懸命話される真野様に、先輩の方が年下なのに、落ち着いてください…なんて言って話を聞いている。お互いに名刺を交換し、一時間後、先輩から真野様に連絡を入れる約束をして、私は真野様とロビーのラウンジに座った。
コーヒーを注文すると、話を聞いてくれてありがとう!と名刺を差し出した真野様は、続けて自己紹介を始めた。
「真野涼介、30歳、結婚はしておりません。3ヶ月前に帰国して、今は真野自動車の経営戦略室に勤務しています。その前は、アメリカとイギリスでマーケティングや経営を学んで、スイスとロンドンで働いていました」
「飯田麻里子です。A学院大学の4年生、21歳です。専攻は外国語科多言語教育。卒業後は『エマ・ダンススクール』に就職する予定です」
私も自己紹介し、一時間後に先輩から連絡が入ることを考えて、単刀直入に尋ねることにした。
「それで、私にお願いしたいこと…とは?」
「はい。私のパートナーになっていただけないかと思いまして…」
「パートナーですか?」
「はい。今日の様な仕事関係の催しでしたら一人で参加しても何とか誤魔化せるのですが、私的な集まりの時などは、やはりパートナーがいた方が良いことが多くて…。誰でも良いというわけではなく、言葉の問題もありますし…。まだ日本に戻ったばかりで頼める知り合いもおりません。かと言って姉に紹介してもらった女性を伴うのは、ちょっと…」
「専門の方にお願いするのはいかがでしょうか?」
「それも考えましたが、パートナーが頻繁に変わるのは好ましくないですし、仕事の関係者も出来たら避けたいと思っていまして…」
学生が就職したい企業ランキングのトップ10に常に入る自動車メーカーの関係者で、独身。見た目も悪くないし、少し話をしただけでも真面目な人なのだと分かる。結婚を視野に入れている女性なら、誰でもお近づきになりたいところだろう。
「もちろん、無償で…とは言いません。必要な物はこちらで用意しますし、お礼もします。ご家族やダンススクールにも私から説明させていただきます」
「真野様…なぜ私なのでしょうか?まだ2回しかお会いしておりませんし、お話だって挨拶程度しかしていません…」
「直感…でしょうか。正直に申しますと、10年振りに日本に戻りまして、今、自分自身の事で手一杯なのです。仕事もそうですし、周囲の環境とか、色々とありまして…。仕事面でも将来的にも、こうした社交の場に出て、交友を広げることの必要性は理解しているのですが、少し、疲れているところもありまして…。先日の発表会で、生徒やその家族と接している姿や今日の仕事振りを拝見しまして、貴女の凛とした佇まいと流暢なフランス語がとても素敵だと思ったのです。貴女が隣に居てくれたら…と」
約束の一時間が経ち、先輩から電話が入ったのを機にラウンジを出て、タクシーで送ってもらう。まだ電車が動いていると辞退したのだが、自分が引き留めたのだからと言って、一緒にタクシーに乗ってしまった。
パートナーの件は、とりあえずはお試しで一度ご一緒する約束をし、その時にお互い嫌だと思わなかったら継続することにした。
自宅まで送ってくださった真野様は、そのまま両親に遅くなったことを謝った上で、パートナーの件を伝え、引き受けてもらえて助かったことのお礼をしている。本当に真面目な方だ。