4.歯車(3)恐怖①
電車を降りながら、思わず顔をしかめた。浴衣と下駄の組み合わせは、電車の乗降が大変で仕方がない。
夏祭りの夕方、中央駅構内はいつもよりたくさんの、そして浴衣の人で溢れていた。紅鳶神社での待ち合わせだと人が多すぎるから中央駅の南北線の改札前にしよう、なんて言い出したのは陽菜だったけれど、そもそも中央駅のほうがデフォルトで人が多すぎる。でも紅鳶神社ほどじゃないだろうし、密度という意味ではまだマシではあった。百均で買った扇子でパタパタと顔の熱を飛ばしながら改札へ向かっていると、すぐに銀色の髪が見つかった。桜井くんと雲雀くんはこういうときはすごく便利な頭をしてくれている。
「雲雀くん、お待たせ」
いつものティシャツ姿の雲雀くんは、携帯電話から顔をあげると目を丸くした。
「……浴衣めんどいって言ってなかったっけ」
「おばあちゃんが勝手に新しいの作ってくれてたみたい」
本当に、勝手に、だ。昨日「陽菜達とお祭り行ってくる」と言うと「そうそう、浴衣を作ったのよ」と問答無用で出てきた。私が夏祭りに行かないほどに陰気な孫だったらどうするつもりだったのだろう。
お陰でセンスはおばあちゃん任せ、深い青色に牡丹柄だ。今風とは正反対の位置にある、一言でいえば古風な浴衣だった。
ただ、雲雀くんは「ふーん」と少し感心したような顔で頷いた。
「三国のばあちゃん、センスいいな」
……これでいいんだ。道行く人々はピンク色だの、そうでなくてもラメ入りの紺色だの、いわゆる今風の、派手というか煌びやかというか、そんな浴衣を着ているので、雲雀くんの感想は意外だった。
「……雲雀くん、好みのタイプ古いって言われない?」
「なんでだよ。つか三国が選んだんだと思ってた、群青色だろ」
私の好みが古いと思われていたのか、とショックを受けそうになるも、雲雀くんの着眼点は別のところにあった。言われてみれば確かに、いわゆる群青色というのは私が着ている浴衣の色だ。
「蛍さんとか、先輩らが見たら喜びそうだな。三国は分かってんなあって」
「名実ともに群青に染まってるって? 染物だけに」
「……最近、先輩達の悪い影響受けてるよな」
染物のくだりは無視されてしまったので、つまりそういうことだ。咳ばらいをして誤魔化しながら(いや誤魔化せてはいないけれど)「……そうかもしれない、九十三先輩とか」責任を九十三先輩に押し付けることにした。
雲雀くんがもう一度口を開こうとすると「お待たせ―!」と陽菜が現れた。黄色の地に水色とピンク色の朝顔模様、今風の浴衣ならこうでなくてはといわんばかりの模範的な恰好だった。奇しくも私と陽菜のキャラクターが顕れている。
「英凜、浴衣可愛いな! やっぱ着て正解じゃん」
「ありがと。陽菜も可愛いし似合ってるよ」
「へっへ。雲雀も着ればよかったのに」
「動きにくいだろ」
「そうだけど、祭りの日くらいいいじゃん」
口を尖らせる陽菜の後ろで「ゆーきぃー」と桜井くんの声が聞こえた。振り向くと「え、あれ、英凜か」と驚いた顔に迎えられる。雲雀くんと違ってグレーの縞模様の、ありふれた甚平だった。
「浴衣着ないって言ってなかったっけ?」
「そのくだり、さっきやった」
「おばあちゃんが作ってくれてて、陽菜が浴衣着たがってたから、じゃあ着るかと思って」
「へー、いいじゃん、似合う似合う」
へらへらっと笑いながらなんでもないように言えるあたりに、桜井くんの白人遺伝子を感じた。そういえば最近の桜井くんはめきめきと背が伸びて、私と少し視線が離れた。雲雀くんと並んでもあまり変わらなくなってきたから、本当に突然伸びたのだと思う。夏休み前の胡桃は桜井くんのことを「ガキ」なんて笑っていたけれど、今年が終わる頃にはそうは言わなくなるかもしれない。
「んじゃ行こ行こ。花火始まる前に飯食いたい」
「花より団子だなお前」
南北線に乗り換えようとホームに降りると、ちょうど電車が入ってきた。でもその扉が開く前から「もう入りません」といわんばかりに車内はパンパンで、ホームに降りたばかりの私達が入れる状態ではない。完全にすし詰め状態だ。去年はこんなことなかったはずなのにと思ったけれど、お祭りがある3日間の中でも、花火の日は人が多いことを思い出した。
きっと桜井くんもそれを思い出したのだろう、「うげ」と顔をしかめてみせた。
「やべー、人酔いそう。つか英凜、あれ大丈夫なの」
「大丈夫って?」
聞き返した後で、九十三先輩が、私が水着を買いに行った日に「人酔い」したと聞いたと話していたことに気が付いた。もしかしたら桜井くんの中では、私は「人酔い」したことになっているのかもしれない。
「まあ、多少気分が悪くなることはあるけど、人並み」
「あ、そう?」
「英凜ってそんな人混みに弱かったっけ?」
「まあ、だから人並みに。人並みより嫌いではあるかもしれないけど」
ほんの数分後、ラシド#ーレシ……と電車の接近を知らせる音楽が鳴り始めた。ホームには人が溢れかえっているし、やってきた電車は相変わらず一杯だし、列の半ばにいる私達が乗ることができるかどうかは疑わしい。桜井くんは再度「うげ」と天井を仰いだ。
「人多いな」
「歩いて行けばよかったな」
「でも浴衣だと歩きにくくね?」
「レディーファーストだ」
陽菜が茶化すと同時に電車は停車した。扉が開いても、中の人はほんの2、3人が降りただけだ。やっぱりみんな行先は同じらしい。
諦めるより早く、背後からの圧力でゆっくりと電車内に押し込まれ始める。体の前に後ろにと感じる人の体温のせいで駅構内の涼しさは掻き消されてしまった。「んぎゃ」なんて陽菜の声が聞こえたかと思えば、電車の中で陽菜の姿が見えなくなっていた。桜井くんの金髪も人の波に呑まれ、私も同じように呑みこまれる。お陰で3人がどこにいるのか分からなくなってしまったけれど、どうせ紅鳶神社駅で降りるから再会はできるだろう。
プシューッ、と扉が閉まると同時に、圧迫が少し緩くなり、ドン、と自分の背中が扉にぶつかった。同時に、頭上にバンッと何かが叩きつけられるような音と振動が響く。驚いて顔をあげるより早く「悪い、三国」と雲雀くんの申し訳なさそうな声が降ってくる。どうやら押された雲雀くんが私の頭上に腕をついてその体を支えようとしたらしい。
「……全然、仕方ないし、気にしないで」
なんて口先ではいいつつ、本当は気にしているのは自分だった。
文字通り、目と鼻の先に雲雀くんの胸元があった。灰色のティシャツのVネック、そのVの底の部分とでもいえばいいのだろうか、とにかく灰色と肌色の臨界点ともいうべき部分が目の前にあった。
しかも私の頭上に悠々と腕をつくほどの身長差があり、揺れる電車の中でもぶれない体幹からは筋力差があることも分かる。この間の家での出来事といい、雲雀くんは近くにいると体格差のせいで男子っぽさを感じてしまう。
……という理屈よりなにより、単純にここまで他人にパーソナルスペースを許すことはないので、近づかれると理屈抜きに焦るというか、狼狽するというか……、なんとも形容しがたい動揺を感じる。それを誤魔化すために、静かにゆっくりと、深く息を吐きだした。
「池田、大丈夫かな」
「え?」
でもやっぱり雲雀くんは何も感じていないのだろう。頭上であたりを見回す雲雀くんはいつもどおりの無表情だった。
「思いっきり流されたただろ」
「あー……うん、そうだね……桜井くんが近くにいてくれればよかったんだけど、どう?」
「アイツの横にはいない」
私の目線からは桜井くんの金髪さえ見えなかった。
「……雲雀くん、背伸びた?」
「なんだ、急に」
本当に急だったせいで、頭上から笑みが降ってきた。心臓が跳ねると同時にさっと目を逸らす。
「……なんか伸びた気がした」
「まあ、成長期だから。昴夜ほどじゃねーと思うけど」
「あ、やっぱり桜井くん伸びたよね」
「すげー成長してるよな。タケノコかよ」
分かりやすいたとえだけれど、そこでタケノコが出てくるのがどこかおかしくて笑ってしまった。お陰で少し緊張もほぐれた。
そう感じたせいで、自分が緊張していたことに気が付いた。そうか、この間のことといい、雲雀くんの近くにいるとき、私は緊張しているのか。原因はきっと雲雀くんほど身近な男子がいないからだ。それが何を意味するのかは、また別として。
「そういえば、九十三先輩からメールがきてた。補習終わったら合流しようって」
「やだよ面倒くせ」
雲雀くんならそう一蹴するとは思っていた。でもきっといざ九十三先輩が出てきてもイヤな顔をするだけで胡桃相手にするように無視したりはしないだろう。
「大体、そんな遅くまで補習やってんの?」
「補習は4時で終わるけど補習の課題が終わらないんだって」
「そういうの計画的にやんねーから補習になるんだよ、あの人」
「群青の先輩みんなそうらしいよ」
言いながら、普通科5位以内常連だという蛍さんのことが脳裏に過った。蛍さんはきっと補習ではないのだろう。つまり他の先輩達が補習に出ている間、自由な時間がある、そしてそれは能勢さんも同じく──なんて考えてしまって、かぶりを振った。あの2人の先輩のことは、現時点ではいくら疑っても答えなどでない。
雲雀くんはそんな私の様子には気づかず「……本当にどうしようもねー先輩共だな」と嘆息した。これ以上先輩達の話題が続くのは気まずい。
「……そういえば桜井くんは補習ないんだっけ?」
「三国のお陰でな。前日にヤマハリしてやんなかったら、アイツまた古典赤点だったろ」
そう、桜井くんは試験前日も家に来ていた。桜井くんの家と私の家とは全く別の方向にあって遠いので、来る暇があるなら勉強をしたほうがいいのではないかと思ったけど、桜井くんは一人だと勉強をしないらしい。うだうだと言いながら夕飯まで食べて帰った。ちなみに雲雀くんも同じく。雲雀くんは桜井くんの保護者然としている。
「そういや、三国は能勢さん達から聞いてんの」
「え、なにを?」
話題を変えた瞬間に戻って来た、挙句最も怪しい能勢さんの名前に素っ頓狂な声が出てしまった。お陰で雲雀くんの目はぱちくりと瞬きして「……深緋ががきな臭いって話。どうかしたか」終業式の日に先輩達が話していたことをそのまま繰り返す。なんだ、そんなことか……。
「ううん、何も……。結局何の話だったの?」
「大した話じゃないといえばそうなんだけどな、簡単にいうと深緋が群青を潰したいって話だった」
その話に反応するより早く、一駅分移動した電車が一度止まり、慣性の法則に従ってガクンと体が傾く。幸いにも反対側の扉が開いたので、私が電車からはじき出されることはなかった。
ただ、代わりに雲雀くんがドンッともう一方の手を扉についた。途端、ふわりとミントの香りがして、ドキリと心臓が跳ねた。人が多くて蒸し暑い電車内にそぐわない、清涼感のある香りだ。
この距離で、この香りがするということは、雲雀くんの香りに違いない。しかも今の人の波のせいで、扉を背にまるで雲雀くんに追いつめられているかのような図が完全に出来上がってしまった。
お陰で言葉に窮した。雲雀くんも同じだったのだろう。両手を私の頭上についたまま、眉間に深く皺を刻み、珍しく本当に申し訳なさそうな顔をしていた。珍しいというか、多分見たことがない。
「……本当に悪い」
「……仕方ないからいいって」
でも、雲雀くんの体温を身近に感じるのはやっぱり緊張する。密着こそしていないものの、巷でみる恋人のように体を近づけている私達は、傍からどう見えているのだろう。考えていると頭に熱が上ってきたので、もう一度深呼吸して心を落ち着かせる努力をする。
でも、どうやら無駄なようだ。浴衣とティシャツが触れ合いそうなほど近い距離は離れる気配がない。これで平然としていろというほうが無理な話だ。顔の熱も引く気配はない。きっといまの私の顔は真っ赤だろう。
「……さっきの話だけど」
さっきより一層近いところから声が降ってきたので、また心臓が跳ねた。しかも見上げた先の雲雀くんの頬までほんのり赤い。
「……まあ、もともと群青と深緋って仲悪いんだけど、深緋が蛍さんのことをかなり煙たがってて。今年の深緋は1年もまあまあ力あるヤツが揃ってるから、蛍さんが前面に出てる間にメンツ含めて潰しときたいんじゃないかって」
照れたように顔を赤くするのも、早口で捲し立てるのも、雲雀くんらしくなかった。まるで雲雀くんまで緊張しているみたいだ。
「……深緋のトップの人って、蛍さんみたいじゃないって言ってたよね」
緊張を誤魔化すために喋ったけれど、無駄だったどころか逆に墓穴を掘った。喋り出した自分の声が妙に硬い。
「山崎な。深緋のトップっぽい外道だよ。引くほどガタイが良いから、蛍さんが普通にやったら負けんじゃね」
「それって……」
「群青はタイマン吹っ掛けまくるチームじゃないのは、まあ蛍さんの体格もあんのかな。タイマン吹っ掛けられたら蛍さんだと勝てなさそうだな……」
「タイマンってなに?」
「一対一」
それはマンツーマンなんじゃないかと思ったけど、マン対マンから派生したと言われたら納得するような気もした。
「……わざわざ準備して一対一で喧嘩するってこと?」
「部活の団体戦とかあるだろ、ああいうイメージ」
頭の中にはテニスとかの個人競技がチームの勝利に結び付けられる形で行われる試合形式が思い浮かんだ。このイメージで正しいとしたらだいぶおかしい図なのだけれど、そういうことなのだろうか……。
「それは……なんのためにやるの」
「トラブったときに手打ちにする落とし所みたいなもんが見つからなくて、タイマン勝負で負けたほうが解散するとか。滅多にないけどな」
「……なんか最後の手段って感じあるね」
「本当に滅多にないからな。基本衝突するまで喧嘩なんかやんねーよ」
そうこうしているうちに電車が停車した。が、ただ停車しただけならなんともなかったはずだけれど、乗っている人の量が量だ、隣の人に押されて法則以上に傾けば、ドン、と雲雀くんに体を預ける形になり、胸に飛び込んでしまった。
……これは、非常にまずい。浴衣とティシャツ越しに伝わる体温と感触に体がびっくりしているのを感じる。しかもそんな状態は簡単に俯瞰できてしまい、頭の中に浮かんだ光景で、ボッと火でもつけられたように顔が発熱した。今の私は、まさしくゆでだこのように真っ赤な顔をしているのだろう。
「《紅鳶神社、紅鳶神社です。お降りの方は──》」
そんな私の気など知るわけもなく、電車は淡々とアナウンスしながら扉を開く。今度は外に出ようとする人の波に押し出される羽目になり、雲雀くんに抱きかかえられるようにして電車から降りた。というか、正直、自分がどうやって電車から降りたのか分からなかった。雲雀くんに肩を抱かれた感触しかない。
「……昴夜、はいるな。池田は見えねーけど、ケータイ持ってるからいいか」
ロボットのように自動的に歩き出してしまった私の隣では冷静な声が聞こえる。雲雀くん、女の子というものの物理的扱いに慣れてるな……。電車内で照れているように見えたのは人の熱気で頬が上気していただけだろう。私だけ緊張して、馬鹿みたいだ。
「……そうだね。はぐれたら改札って話といたし」
人混みのせいで肩と腕が触れる。熱を感じる。声が近い。そのどれもが私の体の熱を上げる。
なにか話をしないと、この奇妙な熱に浮かされてどうにかなってしまいそうだ。とりあえず口を開いて、なにも話題が見つからなくて一度閉じて、こじつけのような連想をしてやっと話題を見つける。
「……そういえば、さすがに妹さんとお祭りに来たりしないの?」
「ん? ああ……」
桜井くんがよく口にするシスコンネタで場がほぐれればいい、くらいのつもりだったのだけれど、雲雀くんは予想に反して少し口籠った。
「……三国に言ってないんだっけ」
「なにが?」
「……離婚して、母親が妹連れて出てってんだ。だから今は一緒には住んでない」
……思いもよらぬ回答に、顔に上っていた熱は急激に氷点下まで落ちたし、なんなら頭のてっぺんから爪先まで凍りついてしまった。全く知らなかった。最悪だ。ついでに雲雀くんが家で「母親似」と答えたときの微妙な表情の説明がついてしまった。離婚して出て行った母親に似てるなんてどんな気持ちなのか、私にはさっぱり分からないけど複雑には違いない。なんなら、離婚の理由は知らないけれど、もしかしたらそれが父親か雲雀家との確執の原因だったりするのでは……。
とんでもない地雷を踏んだ自分を恥じた。片足が吹っ飛んでも文句は言えない。
「……ごめん……」
「別に、3年くらい前の話だし」
言いながらも、雲雀くんは視線を虚空に彷徨わせた。口にした記憶のせいでなにかを感じたのだろう。それが何なのか、私には分からないけど。
「でも盆明けは母親の実家行くし、長期休みはたまに会ってる。妹と母親が来たら、仕事の都合も泊まるところも面倒で、俺が行くほうが楽だから」
「……そっか」
どうしよう、この話、どう収拾をつけよう。収拾というか……話題の転換……? 本当に最悪だ、こういうことにならないために人の情報を常に整理しているのに。
「つか昴夜は俺をシスコンって言うけど、離れて住んでるからメールするってだけ。別に家にいたらしない」
「妹さんケータイ持ってるの?」
そこじゃない、そこじゃないぞ私。地雷を踏んだ狼狽のあまり会話のための思考が上手く回っていない。でも雲雀くんは「母親の借りて打ってくる」と律儀に返事をくれた。本当に私は最悪だ。
結局この状況をどうすれば──なんて惑っていると「ゆーき、えりー」と背後から桜井くんが追い付いてきた。救世主だ。




