2.思慮(3)暗影①
最近、昴夜がキス魔と化している。
センタープレの終盤、解き終わった英語の問題冊子を前に腕組みをして考え込んでしまった。
最近の昴夜は、予備校帰りに家に送ってくれる。そして、3回に2回は不意打ちみたいなキスをして、そのくせなんでもない、ただしご機嫌な顔で「じゃあねー」と軽く手を振って帰っていく。
おかしい。さすがにおかしい。侑生の代わりを頼んではや半年以上、いくら大事な友達っていったって、そこまでする義理はない。昴夜だって好きな子の代わりにしているといったって、いくらなんでもキスし過ぎだ。これはなにか別の目的があるに違いないけれど、その目的に思い当たるものがない。
……何度も考えたけれど、やっぱり昴夜は私のことが好きなんじゃ。考えただけで緩む口元を隠すために頬杖をついた。だってもう12月だ、ただでさえ寒くて早く家に帰りたいはずなのに、わざわざ真逆の方向にあるうちまで送ってくれるなんてお人よしが過ぎる。大体、私達は受験生なのだ。既にセンター試験まで1ヶ月を切っているし、なんなら昴夜は私立だから本番が少し早いらしいし、それなのに体調でも崩したら洒落にならない。その危険を推してなお私を送るのを選択するなんて、その理由は好き以外ないはず……。いや、思い当たることはなくはないけれど……いくらなんでも……。
「はい、鉛筆置いてー」
悶々と悩んでいるうちにテストの時間が終わった。英語なんて時間が余って仕方がないのに、こんなことで悩んでいるとあっという間だ。なんならいい暇潰しができてよかった。
すぐに配られた解答冊子に、みんなは早速感想を口走っていた。センタープレは陽菜も受けると言っていたから6組に寄って一緒に帰るのもいいけど、侑生と昴夜がいるのは気まずいな――なんて考えごとをしながら片付けていると「ね、ね、三国さん」急に話しかけられて、跳び上がりそうなほど驚いてしまった。
「な……なに?」
しかも2人とも、事務連絡以外で喋ったことがない人だった。
「三国さんさ、今日ひま?」
もう今日も終わる時間ですが? 18時半に差し掛かろうとする時計と真っ暗な外を見て首を傾げながら「……なんの用事?」返事の前に訊ねてしまうと、山尾さんが「ちょっとだけでいいからさ、30分とかでいいし!」と用件も言わずに手を合わせる。この期に及んでなにか意地悪をされるわけもないのだけれど、一体何事なのか。
「……30分なら」
「よかった、ありがと! って言っても、相談したいのは私じゃなくて麗美なんだけどね!」
相談……? 大前さんを見たけれど「あ、うん……」と髪をさわりながら曖昧に頷くだけだ。
時期も時期だし、受験の相談かな。確かに私が文系の1番だけど、同級生に受験の相談なんてするかな。首を傾げ続けながらとりあえず帰ろう、と廊下に出た後で「相談っていうのが、麗美の彼氏のことなんだけどー」予想外のワードが聞こえて眉を顰めた。
「……群青の2年生で素行が気になるとか?」
「え? ううん」
私から昴夜か侑生になにか頼んでほしいことでもあるのだろうか、そんな予想は外れたらしい。それどころか、山尾さんはなんでそんなことを言われたのか分からないとばかりに眉間にしわを寄せている。
「普通に、恋愛相談」
……レンアイソウダン? 自分に縁のなさすぎる相談事だったせいで、その単語を咀嚼できず、頭の中で“レンアイソウダン”という音を漢字に変換し、そして再度それを読み直してやっと意味を理解した。
「え、無理!」
「えー、なんで? 暇なんでしょ?」
「無理! 暇でも絶対無理!」
無理だ無理、私には到底手に負えない(なんなら30分だけ時間をとると言っただけで暇とは言ってない)。ぶんぶん首を横に振るも、二言はなかろうとばかりに眉を八の字にされてしまった。
「わ、私はそういうのは無理。恋愛とか、全然分かんないし……」
恋愛なんて徹頭徹尾理屈抜きの感情、自分のことでさえ全く理解できずに散々に侑生に迷惑をかけたのだ、そんな私が他人に偉そうに言えることなんて何もない。首を横に振り続けるのに「嘘だあ」なんて山尾さんには笑い飛ばされてしまった。
「三国さん、雲雀くんと付き合ってたし、能勢先輩とか蛍先輩の愛人って噂あったくらいだしさ、恋愛上級者じゃん?」
確かにいま挙がった人達は恋愛上級者だろうけれど、私は初級者にさえ鼻で笑われるレベルの超初級者……! とんでもない誤解に「いや、私はただ漫然と彼女や後輩としての立場に甘えていただけで。なにも偉そうに言えることなんてなく、そもそも先輩達の愛人なんていうのはただの噂であって本当になんでもなかったので」と早口で断りを入れたけれど「そんなことないじゃん!」と再び一蹴されてしまった。
「麗美だってさ、相談するなら三国さんがいいよね」
「うん」
「山尾さんに押されすぎて流されてない? 私じゃないほうがいいと思うんだけど」
これまた早口で捲し立てたけれど、「ううん、三国さんがいいと思う」と逆に強く押されてしまった。
「先輩達の愛人説も、信じてはないけど、先輩達が三国さん好きだったのは本当だろうし。それにほら、あの雲雀くんを虜にしてるし」
トリコ……。私と侑生の関係性を説明するのになんて不適切な言葉だろう。同じ一文字なら“蔑”のほうが正しい。唖然とするあまり口から何の言葉も出てこなかった。
「そういうアドバイスも聞きたい」
思い出したように身を乗り出すようにして拳を握りしめる大前さんに、やっぱり呆然としてしまった。私にアドバイスできることなんてなにもない……。プレ後に降って湧いたとんでもない難題に回れ右して逃げ出したくなった。なんならこんなにもどこから手をつけていいか分からない問題なんて見たことがないかもしれない。こんな私に恋愛相談をするなんて、一緒に過ごすだけ時間を無駄にさせるだけだ。
どうしよう……狼狽するあまりうろうろと視線を彷徨わせてしまう。こういうことになると困るから用件を聞いたのに教えてくれなかったし、蓋を開ければ恋愛相談なんて意味の分からない相談だし、こんなの詐欺だ。誰かに助けを求めたいけれど特別科に友達なんていないし、大体私の友達に恋愛が得意な人なんていないし、陽菜なら頼れるかもしれないけれど、この2人と知り合いかどうかも分からない陽菜をいきなり呼びつけるのも――。
なんて困っていたときに、視界の中に救世主が見えた。
「荒神くん!」
「え?」
「へ?」
我ながらあまりにも完璧な人選につい叫んでしまったけれど、間の悪いことにその隣には昴夜と侑生もいた。なんでこんなときに限って3人揃っているんだろう、荒神くんは中津くんと一緒にいればいいのに――と思ったけれど、そういえば中津くんは就職組だから今日はいないのだろう。
「英凜じゃん、一緒かえろ」
「あ、ごめん無理。荒神くん、ちょっと」
口早に断りつつ荒神くんの腕を引けば、昴夜でなく侑生に怪訝な目を向けられてしまった。でもそれも一瞬で、侑生はすぐに下駄箱の陰に引っ込んだ。
「なに、どしたの三国」
「ちょ、ちょっと」
ただでさえ昴夜の悩みは尽きないし侑生と一緒は気まずいし、それなのに私が“侑生の元カノ”なんて理由で恋愛相談を持ち掛けられたなんて知られるわけにはいかない。昴夜を視界の外に押しやりながら、必死に荒神くんの腕を引っ張って2人から引き離した。
「荒神くん、今から暇?」
「え、うん」
用件もいわないで相手の予定を確認するなんて詐欺に等しい、そんな罵倒が自分に跳ね返ってきているのは無視した。でも荒神くんは恋愛と女子のスペシャリストという異名を持っているに等しいのだ、私と違って突然恋愛相談を持ち掛けられたって何も困ることなんてないはず。
「恋愛相談に乗ってほしいんだけど」
「え、いいよいいよ」
なんならその目が興味津々に丸く開かれたので、結構乗り気に違いない。よかった、冗談抜きで救世主を確保できた。
「というわけで、荒神くんはどうでしょう!」
「へ? 三国なにこれどういうこと?」
再び頓狂な声を上げる荒神くんを無視して大前さん達を振り向くと、2人は顔を見合わせて「まあ……」と悪くない反応を示した。
「荒神くんなら……いいかな?」
「そだね、男子もいたほうがいいのかもしれないし。荒神くんなら」
荒神くん、人望ならぬ女子望ならあるんだ……! 提案した側ながら、あまりにもあっさりと受け入れられたことにびっくりしてしまった。2年生のときは彼女役をしてくれる子がいないと泣きついてきたのに、あのときはたまたま手持ちのカードがなかっただけ……いや、彼女のふりなんて(荒神くんいわく)怪しい頼みごとでさえなければ協力してくれる子はいたのかもしれない。
「じゃ、私はそういうことで」
「え、いや三国さんも来てよ」
荒神くんがいるなら私はお役御免だと思ったけれど、なぜかそうは問屋が卸さないらしい。さも当然のように言われて、プロデュースでもするように荒神くんを示してしまった。
「でも荒神くんがいれば大丈夫だと思う、私なんかよりよっぽど恋愛に詳しいし」
「だーから、三国さんだって上級者じゃん、何言ってんの」
いやだから私は初級者ですらなくて、なんて弁解は「まあま、三国も行こうよ」なんて荒神くんの明るい声に遮られてしまった。
「三国に相談に乗ってって言ってるんだし」
「いや大前さんは的確なアドバイスをくれる相手に相談をしたくて、そして私の適性について誤解をしているから私を指名したのであって、私という個人を問題にしてるわけじゃない」
「うんごめん、そういう話は侑生だけにして? 昴夜ぁ」
荒神くんと一緒にやっと昴夜を見ると、昴夜はなぜか上靴も履き替えずに固まっていた。
「用事できた、侑生と帰っといてー」
「……俺は?」
「昴夜は部外者だからだめ」
腕で大きくバツを作ると、栗毛がしゅんと項垂れて下駄箱の裏に引っ込んだ。そんな反応をされたって部外者なのは事実だし、なんなら通り魔よろしく女の子に手を出す昴夜に女心が分かるはずがない。
「……でも荒神くんも通り魔なんだっけ?」
「ごめん何の話?」
いや、荒神くんは次から次へと彼女ができるだけで彼女でない人に次々手を出すわけじゃない……。その2点には天と地ほどの差があることに気付き「なんでもない、荒神くんは通り魔でもなんでもないね」と訂正したのだけれど、荒神くんはわざとらしく眉を八の字に、口をへの字にしただけだった。
そんな荒神くんも交えた謎の4人組での恋愛相談は、駅前のチューリーズコーヒーにて、山尾さんの「でね、相談っていうのが麗美の彼氏のことなんだけど」という第一声で始まった。肝心の大前さんはカップに口をつけて黙り込んでいたので、山尾さんが「ほら」と小突いて促し、それでようやく「……私が付き合ってる彼氏が、東高なんだけど……」と始まった。
「ちょっと……浮気的なことを、してて」
そのキーワードを聞いた瞬間に軽く心臓が跳ね上がった。あてつけみたいな文脈でもないのにこんな反応をしてしまうなんて、これがトラウマというものなのかもしれない。
「浮気って? 他に仲良さげな子がいんの?」
「仲良さげっていうか、普通に、仲良い感じになってきたんだよねー……」
荒神くんが促すままに進んだ話によると、大前さんの彼氏は推薦で八虹大学に合格していて、浮気相手と思しき相手の女の子も同じく八虹大学志望の子だそうだ。同じ八虹大学志望を理由にnixiを通じて仲良くなり、大前さんの彼氏が先に合格したことで、今は大前さんの彼氏がその浮気相手にアドバイスをしたり応援をしたりという状況らしい。なおその浮気相手は四ツ門市の高校に通っていて、当然大前さんと面識はなく、大前さんの彼氏も直接会ったことはない。
要約すると、自分以外の子と仲良くなっただけに思えた。そんなことを言っていると、まさしく長岡さんと仲良くなった侑生が浮気していたことになってしまう。はて、と首を傾げた。
「それが浮気なの? 直接会ってもないのに?」
「うー……ん、と、それはそうなんだけど……」
そういえばあのとき、胡桃も侑生が長岡さんと一緒にいるだけで浮気を疑っていた。大前さんも言葉を濁しているし、一般的な感覚としてはそれを浮気と感じるものなのだろうか。
「大前さんが考える浮気の定義って?」
「定義……、どこから浮気だと思うかってやつ? 私は……手繋いだらダメ、だけど」
「え、厳しい……」
いや、でも、付き合ってでもいないと手を繋ぐことなんてないし、むしろどんな行為よりも手を繋ぐことが相手への好意を裏付けるのだろうか……? 顎に手を当てて考え込んでしまう私の隣で、荒神くんも首を傾げていたけれど「んー、浮気かどうかはおいといてさー」とどうやらその視点は別のところにあるらしい。
「普通によくないよね、彼女いんのに別の女子と仲良くすんの」
「え、そうなの?」
友達なんていくらでもいるんだから仕方ない、私はそう思うし、大前さんも「いやー、そこまではさー」と否定的だ。でも荒神くんは「俺がその立場でも普通にイヤだと思うし、てかnixiってのがなおさらイヤじゃないかな」とそれこそイヤそうに眉尻を下げている。
「つか、自分が知ってる相手でも気になるけど、ネットで知り合った適当な子ってのがね」
「なんで?」
「自分の見えないとこで何話してんのか気になるじゃん。つか、そんな仲良くなるってことは顔も好みなんじゃないのかなとか心配になるし」
そういうものなのだろうか……? あまりピンとこなかったけれど、今度は大前さんは「あー、そうそう、そういうのはあるかも」と頷いた。
「ていうか、彼氏が友達と話してるの聞いちゃったんだけど、写真送ってもらったら可愛かったみたいなこと言ってたし」
「あー、そういうのはね、心配なるよねー。てか大前さんは八虹大学じゃないの、志望校」
「私は一色県立大」
ああ、そういえば灰桜高校からの進学先に一色県立大って結構いるな、永人さんも県立大に行きたかったって言ってたな。私が抱いた感想はそれだけで、「んじゃ余計不安だよね、こっちは大学別々になんのに、彼氏とその子は同じになるかもしれないんだし」という相槌を聞いて初めて話の方向を理解した。そうか、そういうことか。彼氏と彼女で進学先が違えば物理的距離も生じて心的距離にも不安が生じると、なるほど。
「彼氏はなんて言ってんの、その相手のこと」
「それが友達と話してるの聞いちゃっただけで、私が直接聞いたことはないんだよねー……」
「あー、そういうことか。そんなん疑ってるわけじゃなくても気になるよね」
「そうそう。雑談で出てくるだけなら気にならなかったんだけどー」
荒神くんの相槌の何がそうさせたのか私には分からなかったけれど、そこから大前さんは少し饒舌になった。でもその内容を要約すると、やっぱり“彼氏が同じ進学先の子に乗り換えようとしているのではないかという疑惑がある”だった。そう思うなら本人に訊いてみればいいのにと思ったし現に私は口に出してしまったけれど、荒神くんは(どこからどう推理したのか)「大前さんの受験終わるまでの暇潰しみたいな感じなんじゃない? そのうち自然に関係切れてそう」と暗に放置してもいいのではないかと言いたげだった。
「そうかなあ……まあそうじゃなくてもでもあと3ヶ月だし、それでいいかなあ」
「いんじゃない? ていうか、付き合うってやっぱ面倒くさいよね、色々考えちゃうし」
今度は山尾さんのセリフに首を傾げてしまう番だ。まるで付き合うという外形にこだわらないような言い方に聞こえるのだが……? そんな察しの悪い私の隣で、荒神くんはカップを傾けながら「あー、もしかしてそういう?」なんて苦笑いまで浮かべた。
「山尾さんはAOで山吹大学に決まってんだっけ? 相手も?」
「相手も山吹大なんだけど、一般。てかだからちょうど麗美の逆かも」
山尾さんは頬杖をつき、ちょっと溜息を吐く。付き合っていない相手の話らしいから、彼氏か準彼氏の話なのだろう。あまりにも自然に、今度は山尾さんの恋愛相談が始まってしまった。
「うちの高校?」
「ううん、二鷹高校」
「進学校じゃん」
「そう。小学校同じで、駅でたまたま再会してー、って感じ」
「漫画みたいだなー。てか山尾さんはともかく相手は余裕あんの、この時期?」
「あるみたい。もともと東大でも行けたけど、やりたいことあるから近場の山吹大にするって言ってて。英語得意だからセンター満点取るつもりだし、山吹大の経済なんだけどさ、英語だけだから余裕みたいな」
「えー、すげ。そりゃ余裕あるな」
「でしょ。うち親が看護師で夜勤とかあるからさー、結構うち来て、まあそんな感じ」
つまり、どんな感じなのか。全く分からずに頭上に「?」マークばかり浮かべている私とは裏腹に、事情を知っているのだろう大前さんが「それこそ受験までの暇潰しじゃん、やめときなよって言ってるのに」と顔をしかめる。
「でもさー、それこそこっちも暇潰しっていうか。相性も悪くないし、いっかなーって」
「そんなこと言ってたら絶対ずるずる続いちゃうって」
「大前さんの言うとおり。てか絶対その手のは都合いい相手扱い」
「そうかなーとも思うんだけどさ、普通にデートもするし、わざわざ関係終わらす必要あるかなって」
「んー微妙だなー。デートするってことはそんな悪くない関係なのかもしんないけど、それで繋いどこうってだけのタチ悪いヤツかもしんないし。な、三国」
「え……?」
恋愛相談なのだろうけれど、この話の着地点はどこなのか。そんな疑問だけ抱いて一向に話についていけず目を丸くしたままでいると、私を振り向いた荒神くんの顔が怪訝そうなものに変わった。
「何の話か分かって……るよな?」
「えっ……と、山尾さんが……付き合う手前みたいな話?」
既出の情報を最大限かき集めて出した結論に、山尾さんは「手前かぁーそこまでいってるかな?」とちょっとはにかみながら大前さんを見遣り、大前さんが「いやいやいかないって、よくないよ」と渋い顔をする。自分が正しい回答を口にしたのかどうかも分からなかった。
「……つまり?」
「え、セフレがいるって話だよね?」
「言ってしまえばそんな感じ」
……? 一瞬頭がついていかなかった。セフ……レ……セ、フレ……。
「……はい?」




