1.邂逅(5)選択①
ゴールデンウィーク明けの学校は、なんとなく気が重かった。のろのろと玄関でローファーを履いていると、おばあちゃんに「英凛ちゃん、忘れ物よ」と紙袋を差し出された。中身は雲雀くんのジャケットだ。
「あー……うん」
「早く持って行かんと、雲雀くんが困ろう」
「……どうなんだろう」
ただの私服のひとつだから困りはしないだろうけど、借りたものは早く返したほうがいい。ただ、蛍さんの忠告を考えると、結局学校で雲雀くんと桜井くんとどう接すればいいのか分からない。
ぽりぽりと頬を掻いた。本当は、桜井くんが家の近くまで送ってくれたときにそのまま桜井くんに預ければよかったのだけれど、うっかりしていた。
「うちに取りに来させてもいけんし、早く持って行きなさい」
「まあ、それはうん、もちろんそうだから、うん……」
仕方なくその紙袋を受け取った。どこかの知らない和菓子屋さんの大きな紙袋で、これと雲雀くんがそこはかとなく似合わない。……なんて言い訳をしていないで、早く返そう。
そんな私の微妙な気分を天気にしたように、今日の空は曇天で、初夏の爽やかさには欠けている。うーん、とひとり首を傾けながらバスに揺られた。
「おう、三国」
そんな気分で学校へ行った私を迎えてくれたのは、よりによって蛍さんだった。
数日前と同じ安っぽい白いイヤホンを首に引っ掛け、しかも学校の顔ともいうべき正門前の大きな木の下で、カバンに肘をついて、レンガ風花壇の上に器用に寝転んでいる。正直、腰が痛そうだった。
「……先日はお世話になりました」
「お前ら結局何して遊んでたの?」
まだ怒ってるのかな……、と少し様子を伺おうとしたけれど、蛍さんは最初に会ったときと変わらなかった。表情も注意深く観察するけれど、特に「怒り」の要素は見当たらない。
「……桜井くんが言ったとおり、ビーチバレーをしていたんですが。ボールが海に入ったことをきっかけに次々と海へ落ちる遊びになりまして」
「やべーな、頭悪いな」
私もそう思う。蛍さんは起き上がってピンクブラウンの髪をくしゃくしゃと混ぜた。
「……蛍さん、何していらっしゃるんですか?」
「あ? あー、今朝、寝覚め悪かったからとりあえず来たんだけど、眠くなったし校舎開いてなかったから寝てた」
全然意味が分からないし、その意味では桜井くんと同じくらい頭が悪い。寝覚めが悪かったから学校へ来て、しかも校舎が開いてない時間帯って一体いつだ。もしかしたら電車にもバスにも乗らず来たんじゃないかと考えた後でバイクという選択肢を思い付いた。
「んで、どうするか考えた?」
……蛍さんがくれた紙切れは、部屋の引き出しの中にしまってある。電話番号の登録もまだしていない。
「……まだです」
「あそ。時間が経つと深みに嵌るぞ」
蛍さんは胡坐をかき、そのまま膝の上に肘をついた。そうやってコンパクトに収まる体を見ていると、とてもあのゴリラをぶっ飛ばした人には見えないのだけれど……。
「……こうやって蛍さんと話すことはいいんですか?」
「はっは。大丈夫、俺と話す女子、わりと多いから」
木を隠すなら森の中、か。そう言われると、雲雀くんと桜井くんは仲の良い特定の女子が私以外にはいないかもしれない。
「桜井くんと雲雀くんも、仲の良い女子を作ればいいんじゃないですかね」
「なんだ。アイツらがお前を気に入って連れまわしてんだと思ってたけど、お前がアイツらのこと好きなのか」
細い眉が吊り上がり、目が丸くなる。そんなに意外なことを口にしたつもりはなかったので、つい首を傾げた。
「……まあ、クラスの男子の中では一番好きです。一緒にいて楽しいですし」
「ほーん」
「……なんで蛍さんはあの2人と私を離したがるんですか? この間お会いしたときに言っていたとおり、あの2人と一緒にいると私が危ないとかそういうことだろうとは思うんですけど」
そう言われるのだろうと思って先手を打てば、蛍さんは一度開きかけた口を閉じた。どうやら正解らしい。
「そんなこと言ってたら、群青のメンバーってみんな彼女がいないことになりません?」
「……まあね。アイツらは特別さ」
「どこのチームもこぞって欲しがってるから、特定のチームが彼らを手に入れるまでは危ないってことですか?」
「そうだな。どこのチームも、手段は選ばんだろ」
「でも蛍さんは選んでるんですね、手段」
「当たり前だろ。ほーらお前らが入らないと三国誘拐すんぞー、なんてダセェだろ」
その言葉の選び方に、桜井くんとか荒神くんにある男っぽい粗さが欠けているような気がした。欠けているというか、抑えているというか。それが異性の視線や感性への気遣いからくる配慮だと考えると、蛍さんにお姉さんがいるという噂は本当かもしれない。
「……チームに入った後はどうなんですか? 仲の良い女子って危なくないんですか?」
「危ないは危ないな。桜井と雲雀でいえば、アイツらがチーム内で重宝されればされるほど、その女もチーム内で重要な位置に立つ」
「……まあ王の寵姫みたいなものですね」
「あ?」
「いえ、まあ、要人とその奥さんって同視されますよねって話です」
頭の中に浮かんだのは小説で読んだラブファンタジーだったけれど、要はそういう話だろう。そんなものが高校生の喧嘩でまかりとおるなんておかしな話ではあるけれど、理論上理解できない話ではなかった。
「物語だと、要人……偉くなればなるほど警護も厚くなりますけど、現実のチームでも、たとえば蛍さんの彼女は誰かが守ってるんですか?」
「俺に彼女はいないから誰も守ってないけど、ま、メンバーの女が浚われたつったら、全勢力挙げてぶっ潰しに行ってやるな。俺、外道って煙草吸うヤツよりキライなんだよ」
こんなに綺麗な顔してるのに彼女いないんだ……なんて感想はさておき、桜井くんと雲雀くんの「蛍さんはカッコイイ人」という話を思い出してしまった。歯が浮くようなセリフとまでは言わないけど、こんなに堂々とそんな宣言をできる人はいないだろう。
同時に、そんな人がトップに立つチームというものの存在に、興味に似た疑問が湧く。
「……群青って、なんなんですか?」
青の群れ。誰がそう名付けたのかは知らないけれど、小粋なネーミングだとは思った。なんならちょっぴり気に入った。その意味では、桜井くんの教えてくれた深緋も気に入ったけど、群青のほうが気に入ってしまうのは、もしかしたらこの蛍さんを知っているからなのかもしれない。
「なにって。ただ俺みたいなヤツが群れてるだけだ」
それは、何のヒントでもなかった。
「だから、俺は桜井も雲雀も群青に相応しいと思ってるし」
桜井くんと雲雀くんと、蛍さんの共通点を考える。もし、蛍さんの噂が本当なら、ある程度抽象化すれば、3人の共通点は見つけられる。何より、蛍さんが荒神くんの名前を挙げていないことがひとつのヒントだった。
「三国英凛、お前も、男だったら群青に誘いたかった」
……そういえば、この人は、噂を聞いて私の名前を知ったのだとは、一言も言わなかったな。
「……残念です、自分が男じゃなくて」
「ああ、俺も残念だよ」
奇妙な沈黙が落ちた。私にはその奇妙さを理解することができなかったし、普段なら使える方法も、蛍さんを前には使えなかった。
「……じゃあ、私はこれで」
「ああ。桜井と雲雀と縁切りたくなったらいつでも連絡しな」
「……あれは蛍さんの携帯電話番号ということでいいんですよね?」
「ああ。ちゃんと登録した?」
「いえ、今のところ必要ないので」
「あ、そう」
はっはっは、と蛍さんは高い声で笑った。踵を返した後、蛍さんのいた場所を振り返れば、蛍さんはいなくなっていた。
あの人、やっぱり私が来るのを待ってたんだろうな。
教室へ行くと、雲雀くんは席に着いていた。でも教室内の状況は、中学生のときのそれと変わらない。みんな桜井くんと雲雀くんの存在にはすっかり慣れたというか、触らぬ神に祟りなし、なんならその神は意外と周囲に無関心らしいと分かったらしい。お陰で、一時期2人のことを気にして大人しくしていた他の不良くん達は思い思いに騒ぐようになった。結局、入学式に小耳にはさんだ通り、5組はすっかり動物園と化している。
「……雲雀くん、おはよ」
「……おう」
席に着きながら声をかけると、雲雀くんは少し視線を上げた。いつもならもう少し顔を上げるので、きっと蛍さんに言われたことを気にしているのだろう。
「これ、借りてたパーカー。ありがとう」
「…………ああ」
雲雀くんの返事が一拍どころか二拍は遅れた。雲雀くんの眉間には若干の皺が寄ったし、なんなら視線は何かを探るように素早く動いた。
「英凛! おはよーっ」
それを遮るように、陽菜に横から突進された。そのまま抱きかかえられるように机を立たされ「え、なになに」と窓際まで連れていかれる。陽菜は妙に真に迫った顔で「なにじゃねーよ!」と小声で怒鳴るなんて器用なことをした。
「雲雀にパーカー借りてたってなに? なに!?」
「……ゴールデンウィークに一緒に海で遊んだんだけど、服が濡れたから雲雀くんが貸してくれてた」
「いやツッコミどころしかねーわ。まずなんで雲雀と遊んでんだよ!」
「桜井くんと荒神くんも一緒だったよ」
「荒神……荒神舜? 知ってるわソイツ、ユカと付き合ってるヤツだろ?」
「いやそれは知らないけど」
荒神くんの様子からは特定の彼女がいるようには到底見えなかったけど、要らない情報なのでその真偽に興味はない。
「で、なんで5月に海だよ!」
「それは私に聞かれても。多分桜井くんの思考だと、荒神くんがバイクの免許を取った、遠出ができる、じゃあ海に行こう、くらいだったんだと」
「全然意味分かんねーわ……」
我ながら桜井くんの思考過程を上手にトレースできた気がする。でもそれが陽菜を納得させることができるかというと、それはまた別の話になる。
「で……なんでパーカー借りたんだよ」
「桜井くんにふざけて海に落とされて服が濡れたから貸してくれた」
「エロいわ」
「むしろ逆では? 濡れた服を隠してくれるわけだし」
「つか、あたしも雲雀のパーカー着せられたい。“彼パーカー”やりたい!」
陽菜は今日も欲望に忠実だ。くぅー、と陽菜は羨ましそうにぎゅっと目を瞑る。陽菜から聞かされて「彼シャツ」という概念は知っていたので、それのパーカー版だろう。でも雲雀くんは彼氏でもなんでもないのでその表現は不適切だ。
「つか英凛、マジで完全に桜井と雲雀の仲良しだよなあ」
陽菜は窓枠に腰かけながら、興味半分、心配半分みたいな表情で呟いた。
「っていっても、最初ほど心配じゃないんだけど。桜井と雲雀、入学式のあの日以来、別に暴れてないし」
「……まあ無暗に暴れる人じゃないよ」
「でもさあ、なんか群青のメンバーだっていう人に聞かれたんだよ。5組に三国英凛っているだろ、桜井と仲良いヤツみたいな。あ、大丈夫、桜井と仲良いかどうかは答えなかったから! 知らないって言っといた!」
もうすっかり噂になっていることだろうから構わなかったのだけれど、陽菜は律儀な反応をしてくれたらしい。
「でもそうやって噂になってんのさあ、やばくない? ほら、中学のときのアイツ覚えてる? 名前忘れちゃったけど、ずっと金髪だったのに夏休み明けに急に茶髪になってたヤツ」
「ああ、うん」
「アイツ、彼女できたから不良やめるんだーって言ってたらしいんだよね。そういう感じなんじゃないの?」
「あー……うん、多分……」
そういう感じ、というのは、正確にいえば雲雀くんや蛍さんが言っていたことと同じで、彼らにとっては自分にとっての特別な女子が弱味になる、つまりその特別な女子の身に危険が及んでしまうということだろう。
こうも各方面から言われるとさすがに危機感も芽生えてこなくはない。とりあえず携帯電話は肌身離さずおくことに決めた。
「それで、その群青の人はなんて言ってたの」
「えー、なんだったかな。英凛がどんな人か聞かれて、めっちゃ真面目でめっちゃ頭が良いみたいな話はしといた」
「……それで納得されたの?」
「いや全然。なんか『桜井ってそういう女が好みだっけ?』って言いながらどっか行った。あとそうじゃない人からもなんか英凛の話聞かれて――」
話の途中で担任の先生が入って来たので、陽菜は口を閉じ、私達は座席に戻る。私達は5組で辛うじて担任の先生というものに注意を払う生徒だ。
その担任の先生は、席に着かない生徒に「ほら、座れー」と簡単に注意をした後、わいのわいのとまだ喋り続ける生徒を無視して「今週は松の木の剪定があるから正門を通るときに注意するように……」と連絡事項を口にする。
「最後、実力テストの結果が返ってきたから順番に取りにくるように」
そういえばそんなのあったな。出席番号順に返されるので、序盤に返された陽菜が「うげっ!」と顔を歪めている。でもみんなテストの結果なんてものに興味はないので、テストの結果は笑い声と一緒に早速紙飛行機になって飛んでいる。
そんな中、桜井くんはテスト結果を暫く凝視した後、目を輝かせて――こちらを向いた。
「三国! 見て! 俺、数学ビリから50番目!」
微妙……! いや悪いは悪いのだけれど、一方で桜井くんからしたらいいのかもしれないけど、ビリから50番目が一体どのくらいのレベルに位置づけられるのか分からない。少なくとも実力テストは中学数学の復習だったので、中学数学がろくに身についてないことは分かる。なんなら数学は50分間鉛筆を転がしていたと言っていたので、それはただの偶然の結果だ。
「よかっ……たね……?」
「よかったー! もー、父さんが俺の成績表見るたびにショック受けてたからさー」
桜井くんはまるで子供のように私達のもとへやってきて結果を見せてくれた。実力テストは3科目だったので、その3科目の偏差値が三角形の図になり、一見して自分の習熟度が分かるようになっている。
その三角形は、書こうとしてもそこまで不規則な形には作れないだろうと言いたくなるような妙な形で(なぜか英語の偏差値を示す点だけが突き出ているせいだ)、それでもって小さかった。
でも桜井くんは嬉しいのだからそんなことを突っ込んではいけない……と思っていると「お前の脳のサイズか、これ」と雲雀くんの毒舌が考えられる限り最大の悪口を言った。
「よく見ろ! この数学の偏差値を! 40超えてるんだぞ!」
「灰桜高校の校内偏差値で40超える程度って本当に大丈夫かよ」
「っていうか、桜井くん、英語だけなんで飛び出てるの?」
そう、英語だけ突き出ているし、なんなら順位も5番と異様に突出している。いや、それ自体は大したことではないのだけれど、数学と国語の惨憺たる有様と比べると妙なくらいだ。
「あー、まーね。英語だけ結構頑張ってんの、俺」
「ふーん……?」
つい、桜井くんが中学校の成績や入試がビリだと話していたことを思い出した。英語だけでもこれだけできればビリなんてことはないはずだけれど……。まあ、「ビリ」なんて本当に最下位だけを含む概念ではないし、そんなものか。
ついでに英語だけ頑張る理由というのも少し気になったけれど、ちょうど雲雀くんが立ちあがったし、あえて詳しい理由を説明しないことにはそれこそ理由があるのだろうと考え、深入りはしないでおいた。
その雲雀くんは、結果を受け取った途端にグシャッと紙を握りしめた。
「おい三国!」そして私を振り向き「お前だろ、1番! 2番じゃねーか、俺が!」
その怒鳴り声で、教室内が騒然とした。「え、雲雀くん2番なの……?」「絶対スゲー馬鹿だと思ってた」「雲雀はほら、西中でずっとトップ張ってたじゃん」「つか今年の普通科やばくね?」と囁き声が聞こえる。
席に戻った雲雀くんは、少し皺の寄った結果を私の目の前に突き出した。桜井くんの三角形と違い、三角形は正三角形に近く、サイズも大きい。それだけ見れば5組の中では「すげー」と言われるのに、まるで汚点のように校内順位に「2」が3つ並んでいた。でも数学は満点で「1」だ。
「多分私だと思う、ごめん」
「ごめんじゃねーだろ」
「つか多分自分だと思うってすごいな、俺も言ってみたい」
呼ばれて結果を取りに行けば、担任の先生から「素晴らしい成績です」と一言言われる。校内順位に並ぶのは「1」が4つ。どうやら数学は雲雀くんと同列1位らしい。席に戻ると、桜井くんと雲雀くんがまるで子犬のように額を寄せて私の成績表を覗き込む。
「すげー……俺の三角形何個入るんだろ」
「英語と数学満点かよ。すげーな」
「数学は雲雀くんと同じじゃん」
「数学はそりゃな」
桜井くんはそのまま私の机に両手と顎をついて居座り「いいなー、俺も頭良く生まれたかったなー」とゆらゆら揺れる。先生は残りの数人にテストの結果を返すと、そさくさと出て行った。
「つか三国、マジでお前普通科にいていいのか?」雲雀くんは1ヶ月前とそう変わらない声音で「特別科にいたほうが進学有利じゃね」
「……でも」
「三国は普通だもんな」
桜井くんのその相槌が冗談半分であることくらい分かっていたけど。
「……うん」
時間が経つと深みに嵌るぞ――あの時の蛍さんの様子を思い出す。
もう遅い。多分、蛍さんが私に忠告してくれたのは、ほんの少し手遅れだった。もう私は、2人の傍にいる心地のよさに、段々と溺れて始めている。