1.邂逅(4)前兆②
そんな中に、誰かの声が、水を差す。私達が顔を上げると同時に、荒神くんが誰より早く「ンゲ」と小さく呻いた。
海岸の上の歩道に、5、6人の男が立っていた。その口角は吊り上がっているけれど、それが愛想笑いでもなければ嬉しさゆえの自然な笑みですらないことくらい、私にも分かった。しかも、そのうちの何人かは煙草を吸っていて、煙のくゆる様子に不気味さを感じた。
あ、これ、間違いなく危ないやつだ。直感したところで、砂浜の上なんて逃げようがない。それを見越して、その5、6人は海岸へ降りてきていないのだろう。
「……なんか用?」
「別にィ、女の子と楽しく浜辺で遊んでるからさぁ、俺達も混ぜてよって言いに来ただけよ」
中心に立っていた人の視線が私に向いた。あの庄内さんとかいう3年生と似たような、まるでゴリラのように大柄な人だった。緊張で心臓が跳ねる。その視線はそのままゆっくりと、私の顔から胸、足へと動いた。途端、心臓にナイフの切っ先を突きつけられたかのような恐怖が走る。
その視線が、金髪に遮られた。心臓とナイフの切っ先の間に壁ができる。
「悪いな、この遊び4人用なんだ、ってヤツだよ。どっか行って、邪魔」
その人と私との間に立った桜井くんは、この状況にあまりにもそぐわない軽口で吐き捨てた。
桜井くんの陰に隠れてしまったから、その人の表情は分からなかった。
代わりに、ドスン、ドスンとその団体のうち2、3人が海岸に降りてきた。降りてきた中に、中心に立っていたゴリラもいた。
「相変わらず口の利き方がなってねーな、桜井」
鼻をつく煙草の臭いが、桜井くんをすり抜けて私まで漂ってくる。その人が桜井くんの目の前に立てば、その体格差のせいで、もう桜井くんという壁は意味をなさなかった。
「しつけられてからピーピー泣いたって遅いんだぜ、桜井くん」
バンッという音が、一体なにを原因にして起こったのか分からない。
ただ気付いたときには、雲雀くんに肩を抱かれて、桜井くんから引き離されていた。咄嗟に目を瞑ってしまったせいで、その後5秒くらいも何が起こっていたのか分からず、桜井くんが顔を殴られて蹈鞴をふんだという目の前の状況しか頭に入ってこなかった。
「桜井く、」
「おい昴夜」
私が悲鳴を上げるより先に、雲雀くんが桜井くんを叱咤した。
「三国がいんだろ、ちゃんとやれ」
「うへぇ、厳しい」
ぺっ、と唾を吐き、桜井くんは首を鳴らす。同じように、ゴリラみたいな人が煙草を吐き捨て、砂浜の上で揉むように火を消した。
「可愛い顔が台無しだぜ、桜井くん」
その後も、何が起こったのか分かっていない。雲雀くんの腕は器用に肩ごと私の体を抱き込み、更に桜井くんから離れた。荒神くんの「うえー」なんて声が近くで聞こえるので視線だけを動かすと、雲雀くんの隣で、何かに参ったように舌を出している。
「やべーな、アイツら誰?」
「あのゴリラに見覚えがある。黒鴉だな」
蛍永人さんが来た日、桜井くんが解説してくれたチームのひとつだ。ということはかなり厄介な相手なのでは――なんて冷や汗が背中を走るうちに「ひーばーりくん」と語尾に音符でもついていそうな陽気な声が向けられた。
「お姫様連れてなーにやってんの。先輩も混ぜてくんないかなァ?」
「舜、お前これ抱えてろ」
「俺? いや無理だよ、抱えながら喧嘩とか無理無理!」
まるでボールのように、私は今度は荒神くんにパスされた。荒神くんは女好きでうんぬんかんぬんなんて2人は話していたくせに、どう考えても肩の抱き方は雲雀くんのほうが手慣れていた。荒神くんは「いやマジ、えー、無理だって!」とずっと無理を連発していて、狼狽えているのが非常によく伝わってくる。
それはさておき、砂浜で突如始まったのは、完全に乱闘だった。桜井くんも雲雀くんも、悲鳴を上げる暇もないほど数人相手に殴り殴られ蹴り蹴られを繰り返している。それどころか、相手には鉄パイプのような道具を持っている人までいた。
「荒神くん、警察……!」
「え、いや、そういうの呼んだら余計に後が怖いって。つか相手にされないし、下手し俺らも捕まるし」
そっか、当たり前だ、桜井くん達にとってはこんなことは日常茶飯事。そんな人が「喧嘩を吹っ掛けられました」なんて言ったって信じてもらえるか分からないし、信じてもらえたからといって警察が四六時中警護をしてくれるようになるわけではないのだ。まるっきり意味がない、どころか、荒神くんのいうとおり、それは相手の神経を逆撫でするだけで逆効果だ。
「で、も、これどうするの、っていうかいつもどうしてるの」
「いやいつもこんなだよ、勝てば逃げられるし、負ければそこでおしまい。まー、侑生と昴夜が負けるってことは基本ないけど、この人数だし、三国いるしな……」
荒神くんの背中から黒鴉の人達の位置を確認する。4人は砂浜に降りてきたけど、2人は上の歩道にいるままだ。彼らが歩道に残っている以上、砂浜を海岸線沿いに逃げたってすぐに捕まる。そして私達の後ろは海。川に背を向けるより一層後退を許さない最悪の布陣だ。大体、この人数相手に緊張感がないはずがない。背水の陣なんてまったくもって不要だ。
そんなことを考えているうちに、桜井くんの飛び膝蹴りがゴリラ(雲雀くんもゴリラ呼ばわりしていたし、もうゴリラでいい)とは別の1人に炸裂した。それを見てほっと一息――つく間もなく、今度は雲雀くんがこっちに向かってすっ飛んできた。砂の上だというのに、ドンッと鈍い音と共に雲雀くんが転がり、私達からほんの1メートルかそこら先で咳き込む。私が駆け寄ってしまうと思ったのか、荒神くんには腕で背後に留められた。
「あららぁ、雲雀くん、砂も滴るいい男ってか?」
もともと海水に濡れていたせいもあって、雲雀くんは砂まみれだった。辛うじて砂がくっついていないマウンテンパーカーで顔を拭いながら「うるせー」と小さく毒づく。でもダメージが残っているのか、起き上がらずに膝をついたままだ。
おそらく雲雀くんをぶっ飛ばした黒鴉の人が「いやぁ、マジ綺麗な顔してんね、男なのがざーんねん」なんてからかいを口にし、頬を軽く手の甲で拭いながら歩み寄ってくる。
「うちの春日さんがさあ、中学ンときから雲雀くんに目つけてたんだってさ。黒鴉に来たら可愛がってやるって――」
その顔に向けて、雲雀くんが手に握りしめていた砂を放つ。
「イッテ――」
目さえ潰せば隙だらけ、そう聞こえてきそうなほど鮮やかに素早く、雲雀くんの膝は相手の鳩尾に容赦のない一発を食わせる。その人が蹲りながらなにかを呟けば(多分、やり方が汚いかとかなんとかだったと思う)、雲雀くんが更にその横面を蹴り飛ばした。
「だったら5人も6人も連れてくんじゃねーよ、クソ。おい舜!」
「なんだよ!」
振り向いた雲雀くんはこちらに向かって怒鳴るので、荒神くんの後ろで私が身を竦ませてしまった。
「んなとこで木偶やってねーで三国連れて逃げろ! バカかテメェは!」
「逃げられたら逃げてるからね? 逃げらんねーからここにいんだよ!」
「使えねーなマジで!」
そんな雲雀くんの隣に、今度は桜井くんが転がってきた。桜井くんの綺麗な金髪も砂まみれだったけれど「うぇー、ぺっぺ」なんて余裕ありげに起き上がる。
「おい、お前がこっち来てどうすんだ」
「こっち来ないとどうしようもなくて。だって見てみ、ご新規さん来たぜ」
「うげぇ」
呻いたのは荒神くんだ。でも私だって呻きたかった、だって歩道には「あれぇ、桜井くんじゃん」なんて楽しそうな声を発する2人組がいるのだから。歩道に残っていた2人と何か話しているし、十中十、黒鴉の仲間だ。
「……残り6人ってところだな。3人ずつやれるか?」
「いや無理じゃね? つか普段ならいけるけど、砂浜ってマジで足場悪いし、あっちこっち隙だらけだし、三国守んなきゃだし、冷静に考えて無理」
「はーい、俺も守ってくださーい」
「お前は盾になってろボケ」
当然のように荒神くんは参戦しないし、2人もその前提だしで、おそるおそる背中から荒神くんを見上げた。荒神くんはこんな時まで「三国、意外と可愛い角度分かってんじゃーん」なんてふざけるので雲雀くんの後ろ脚に蹴られた。
「……あの、荒神くん……その、なんの力にもなれない私が言うのもなんだけど、こう、なにか2人の助けは……」
「無理無理。いや全く無理とは言わないけど、俺はあの2人と違って1対1が限界。三国守りながらとか無理」
三本目の矢を打ち込めばどうにかなるのではと思ったら、どうやら桜井くんと雲雀くんが規格外らしい。なんなら荒神くんは「それに」と真剣な顔で続けた。
「俺は女の子と仲良くする担当だから、そもそもどっちかいうと弱め。喧嘩とか野蛮なことはアイツらにお任せ」
「そんなこと言ってる場合じゃないじゃん!」
それどころか、私と荒神くんはセットで守られる対象らしい。お陰で柄にもなく声を張り上げてしまった。
「どうすんの!? これ絶対絶命じゃん!? 埋まってる人を差し引いたって残り4人、あそこのバイクの2人も合わせて6人! 砂浜なんてただでさえ満足に走れないし、それなのに狙いすましたみたいに歩道で2人待ち受けてるし、なんならバイクがいるし! もう冗談じゃなく泳いで逃げなきゃいけなくなるじゃん!」
「三国、めっちゃ喋るじゃん」
「真面目に言ってるんだよ私は!」
桜井くんの丸い目がますます丸くなったし、雲雀くんでさえ眉を吊り上げたけど、本当に私は真面目に叫んでいるのだ。いや、泳いで逃げる手段はとりたくないけれど。
「余裕そうだねぇ、おふたりさん」
ゴリラがニタニタ笑いながら煙草に火をつける。まさしく、ゴリラこそ余裕そうだった。
「さっきも言ったけどさあ、別にお前らに喧嘩売りに来たわけじゃないんだワ。黒鴉に入らないかって誘いに来たんだけど、どう?」
蛍さんと同じ、チームへの誘い。本当にこの2人ってモテるんだな……と緊張感のないことを考えてしまっていると、それが伝わったのか、桜井くんも緊張感のないいつもの表情で「やー、無理無理」と手を振る。
「だっておたくのリーダー、春日さんだっけ? 手出すのに男も女も関係ねえっつー話じゃん? そんな春日さんの下なんかに入ったら侑生のケ──イッテェ!!」
一体なにを言いかけたのか、桜井くんは雲雀くんの回し蹴りを食らった。間違いなく、悪ふざけではなく本気の蹴りだった。現に桜井くんはべしゃっと湿った砂浜に転がり、その金髪が泥まみれになる。なんなら脇腹を押さえて悶絶していて、今までになくダメージを受けているように見えた。
「お前本気で蹴ったろ!?」
「当たり前だろ」
「俺は心配してやったのに!」
「なんの心配だつってんだよ」
「わっギャッやめろやめろ」
続けてその肩も足蹴にされる。雲雀くんの足も当然砂と泥まみれなので桜井くんがどんどん汚れていく。そんなことしてる場合じゃなくない? なんて内心ハラハラしているけれどさすがに、口には出せない。
この隙になにかされるんじゃないか……とそっとゴリラを見たけど、特に手を出す様子もなく煙草をふかしていた。その意味では安心できたけれど、砂に埋もれていた仲間達が起き上がっているのも見れば、緊張は解けない。
「桜井、雲雀ィ。イチャついてねーで、今ここで返事しな」
ふー、と煙を吐き、ゴリラの手に挟まれた煙草の先が私と荒神くんに向けられる。ジリ、と煙草の燃える音とともに、砂時計の砂のように灰が落ちる。
「そんなこと言われましても。楽しく遊んでるところにくる空気読めないヤツなんて嫌いだし」
不意に、心の臓が冷えた。
「しゃーないな、春日さんからの伝言だ。断ったら――」
歩道のほうからバイクの排気音が聞こえてきて、私達は揃って視線を向けた。荒神くんが「んげ、また新手かぁ」と参ったように呟いたとおり、ところどころ青い光を反射するバイクが2台止まっている。
ジュッと音がしたので視線を向ければ、ゴリラが落とした煙草が海水に鎮火されていた。
「たーいへんそうだなぁ、桜井、雲雀」
バイクの上で、ピンクブラウンの髪が揺れた。バイクのサイズに不釣り合いな体が海岸に飛び降りてくる。もう1台のバイクの主はバイクに乗ったままだ。
「……やばい、蛍永人だ」
ボソッとゴリラの仲間が呟いた。既に足は数歩下がり、蛍さんが近づいてくる前から及び腰だ。ゴリラだって、煙草を落としてしまうくらいには余裕がないことが伝わってくる。
対して蛍さんは、悠々と、まるで海岸を散歩にでも来たような態度だ。休日だというのに学ラン姿で、首には安っぽい白いイヤホンをひっかけている。
「だから言ったろ、中坊のときほど甘くないって」
「……なんか用かよ」
間違いなく、蛍さんが来たお陰で助かったはずなのに、雲雀くんは不遜な態度だった。でも蛍さんは気にした素振りはなく「相変わらず無愛想だねえ、可愛いのは顔だけ」と白い歯を見せて笑う。どうやら雲雀くんの女顔は、雲雀くんを知っている人からするとからかいの鉄板ネタらしい。
「ちょっとな、海岸の煙草が目についたもんで」
ちらと、ピンクブラウンの髪の隙間から、蛍さんはゴリラを睨む。ゴリラは怯んだように数歩後ずさった。
「……桜井と雲雀は、群青じゃねーだろ。なんでアンタが出て来る」
「だから言ってんだろ、ちょっと煙草が目についたんだ、ってな!」
学ランが翻るのとその足がゴリラを吹っ飛ばすのと、どちらが早かったか。少なくとも私には分からなかったし、ゴリラが倒れる横では、桜井くんと雲雀くんも我に返ったようにゴリラの仲間を吹っ飛ばしていた。
私と荒神くんの前では、ゴリラが呻いていた。蛍さんがゴリラを蹴っ飛ばした衝撃で、そのポケットからは携帯電話やら煙草のケースやらが落ちて砂浜の上に転がり、無残に波に襲われている。
波が引くのと一緒に、黒い携帯電話とエメラルドグリーンの煙草の箱が海にさらわれてしまいそうになったところを、蛍さんはなぜか煙草の箱だけを拾い上げた。更に吸殻を拾い上げると――倒れているゴリラの口に砂ごと押し込んだ。
「モガッ……」
「はーい、ちゃんと灰皿に捨てましょうねー。マジで歩く公害だからねー」
煙草の箱は親の仇かと思うほど強く握りしめ――いやもはや握り潰し、蛍さんは桜井くんと雲雀くんに視線を遣る。2人の近くにはゴリラの仲間が2、3人が転がっていたし、残りの仲間は、歩道に残っていた人も含めて逃げ出していた。
「……んで、お前らなにやってんの。特に桜井、上半身裸だし」
「ビーチバレーやってたの!」
「なんの答えにもなってねーよ」
ふと、荒神くんの背中から、蛍さんとやってきたもう1人の人物を見上げた。その人はバイクに跨ったままで、顔がよく見えない。ただ蛍さんより背が高く、髪が黒かった。
「……そういうアンタこそ、何しにきたんだ」
「本当に可愛くねーな、コイツ。休日のお出かけだよ、お出かけ」
「No.1とNo.2が揃って? デートでもしてんのか?」
雲雀くんが示したのは、歩道の上のバイクの人だった。No.2――ということは、この間荒神くんが言っていた「能勢芳喜」だろう。そうだとすれば、背が高いというのは聞いているとおりだ。
「そういうこともある。なあ、三国英凛?」
蛍さんの目が私を見た。この間、1年5組の教室で話したときの私の回答を反芻されているのは分かったけれど、それが何を意味するのかは分からなかった。なんなら名前を伝えた覚えはなかったのだけれど、それくらいは誰かに聞けば分かることだろうし、特に気にする要素ではなかった。
「……アンタへの貸しは1つだとしても、俺らは群青に入んねーぞ」
体を包んでいる泥を払い落としながら、雲雀くんは頑なに拒絶する。隣の桜井くんは、同じく頭から泥を落としながら「うん、まーねー」と曖昧な返事をした。
「そう。んじゃ黒鴉からの誘いは断ったのか?」
「んじゃ、ってわけじゃないけど、うん、まあ。だって急に来て殴るとかヤバイじゃん、暴力反対」
「お前らには言われたくねーだろうけどな」
蛍さんの目がもう一度私を見た。つい、荒神くんの背中に隠れる。悪い人ではなさそう、というのは最初の印象のとおりだけれど、それでも知らない人には変わりない。
「三国英凛、お前はここで何してんだ?」
「……なに、って」
「俺らが呼んだんだよ、あそぼーって」
「お前本気か?」
私を庇うようなセリフに、蛍さんの目が不意に鋭く細められた。私がその目を向けられたわけでもないのに、つい、体が震えてしまう。
「お前らみたいに目立つヤツが、女連れまわしてんじゃねえ。お前らがやられるのは勝手だ、けどな、お前らがやられたら女がやられるってことくらい分かっとけ。大体、三国英凛のこの恰好はなんだ?」
なぜかサッと荒神くんが動いて私を隠した。でももう遅い、蛍さんは咎めるように私のことを親指で示している。
「襲ってくれって言ってるようなもんじゃねーか。何して遊んでたか知らねーけど、お前らのせいで三国が襲われて、お前らが責任とれんのか?」
前回会ったときとは打って変わって、蛍さんの声は冷たかった。その物言いから――表情からも、妙に真に迫る厳しさが伝わってくる。桜井くんと雲雀くんも、その指摘を正しいと感じているのか、いつもの軽口を叩くことはなく、じっと黙り込んでいる。
「おい三国英凛」
「えっあ、はい」
急に矛先が私に向けられて戸惑えば「お前、俺が何でお前の名前知ってるか、分かってるか?」なんて妙な問いかけをされた。
名前を伝えた覚えはなかったのだけれど、それくらいは誰かに聞けば分かることだろうし、特に気にする要素ではない――そんな自分の考えが間違っていると指摘された気分だった。
誰かに聞けば分かる。――なにをどう聞く?
桜井くんと雲雀くんが仲良くしてる女子のことを知らないか。――誰に聞く?
2人は1年5組だから、1年5組の人に聞く。――その必要がある?
入学気の桜井くんと雲雀くんの所業は次の日には学校に知れ渡っていた。当然、そんな2人が仲良くしている特定の相手がいれば、目立つ。それは1年5組のクラス内外を問わない。つまり、あえて1年5組の人間に聞く必要はない。――そもそも、2人が女子と仲良くしている女子には、特殊な情報がなかったか?
入学式、フルネームで名前を呼ばれ、例年は特別科からしか出ない新入生代表挨拶をした。――ということは?
三国英凛が桜井昴夜と雲雀侑生と仲良くしているという情報は、いわば公知の事実であって、わざわざ探るまでもないことだ。
「なあ三国英凛、気を付けな」
蛍さんの声が、不気味に忠告する。
「俺は、今年の新入生代表の三国英凛が、桜井と雲雀と仲良くやってるって話を、まったく求めてもないのに聞かされた」
「……桜井くんと雲雀くんのことを知ってる人は、それと同じくらい私の存在を――ご丁寧にフルネームまで含めて、認識しているってことですよね」
「そういうこと。んで、どこのチームも桜井と雲雀をこぞって欲しがってる」
お前は絶好のエサだ。――そう告げられ、心臓が鷲掴みにされたような恐怖が全身に走る。
「分かったら、コイツらとは早いうちに縁を切りな。今ならまだ、脅されてましたで済む話だ」
ぽろりと、蛍さんの手から煙草の箱が落ちた。ゴリラの胸の上でころりと転がったそれを、蛍さんはもう一度踏みつける。呻くゴリラに構わず、蛍さんはポケットから1枚の紙きれを取り出した。
なんなのか分からず、ただ緊張感で首を傾げることもできずに固まっていると、受け取れとでもいうように顎を動かされた。おそるおそる受け取ったそこには、11桁の電話番号が書いてある。
「もし、縁を切るつもりなら、早めに言え。そのへんの噂は、ちゃんと流してやる」
……その気になったら、連絡しろ、ってことか。
その紙きれをじっと見つめる。まるでずっと渡すのを待っていたかのように、その紙きれにはところどころ皺が寄っていた。
「……で、俺は群青のメンバーじゃないヤツらを助けはしない。お前らがどんな目に遭おうが、知ったことじゃない」
ふい、と蛍さんは踵を返した。きゅ、きゅ、と砂浜が鳴く。
「分かったら、群青に入るかどうか、ちゃんと考えな」
桜井くんと雲雀くんは、まるで保護者に怒られてしまったかのように黙り込んでいた。蛍さんはそのまま、おそらく能勢芳喜さんの隣のバイクに乗り、揃って走り去る。能勢芳喜さんはついぞ私達に対して一言も声を掛けなかった。
「――っはー! 怖かった!」
一番最初に声を発したのは荒神くんだった。私は呆然と突っ立ってしまっていたので、荒神くんに手を引かれて我に返り「つかここ離れよ、足下にコイツいるのコワイ」なんて言われて慌てて足を動かす。桜井くんと雲雀くんは、再び泥を落とし始めながら石階段の荷物を回収しに行く。
「……蛍さん、めっちゃ怒ってたなあ」
ぼそりと呟いた桜井くんは、目に見えてしょんぼりとしていた。雲雀くんはティシャツを脱ぎ、バサッバサッと振るって砂を落とす。
「……あの人の噂、本当かもな」
「噂?」
「蛍さん、どっかの抗争に巻き込まれて姉貴が死んでんだと」
ティシャツを着直しながら、雲雀くんはなんでもなさそうに告げた。重さのわりに、その口調は重くはなかった。
「だから三国のことがだぶってんだろ」
「あーね、俺らに巻き込まれて三国が死んじゃうかもってね」
「……それにしたって、妙に肩入れされてた気がするんだけど」
「その姉貴に三国が似てるとかなんじゃねーの? 分かんねーけど」
荒神くんの想像を聞きながら、もう一度、手の中の紙切れを見つめた。やっぱり、ずっと渡すのを待っていたかのようなくたびれ方をしている。それこそ……、ちょうど、蛍さんに会ったあの日から、渡すタイミングを見計らっていたと言われてもしっくりくる。
「おい三国ィ、ぼーっとしてんなよ。帰るぞ」
「あ、うん……」
でも蛍さんに肩入れされる理由はない。そうだとしたら、荒神くんのいうとおり、蛍さんの亡くなった(という噂の)お姉さんと私が似ている……のだろうか。首を捻りながら、石階段の荷物を拾い上げる。
「つか三国、なにで来たの? チャリ?」
桜井くんはぐっしょり濡れたパーカーをかぶりながら「うへぇ、気持ち悪い」と顔をしかめた。
「うん……」
「昴夜、お前三国のこと送れ」
「えー、うーん、別にいいんだけどさ、俺と一緒に歩いてちゃまずいんじゃないの?」
「今は一人のほうがあぶねーだろ。いざとなったら三国だけチャリで逃げろ」
「俺は?」
「お前は知らねーよ」
「……雲雀くん、パーカー……」
「着とけ。帰り寒いだろ」
それは2割も乾いていないティシャツを着ている雲雀くんのほうなのでは……バイクだし……。なんて思っていたけれど、駐車場へ行くと雲雀くんはバイクの中からジャケットを取り出した。バイクに収納スペースなんてあるんだ。
「え、まって、そんなんあるなら俺にくれればよくない? なんで俺、上半身裸でいたの?」
「忘れてた」
「ぜってー嘘じゃん! 濡れるのがイヤだったとかじゃん!」
ギャンギャン喚く3人を見ながら、蛍さんの言葉を反芻する。コイツらとは早いうちに縁を切りな――その声は、表情と一緒に、音声付き写真として脳内に保存される。
ただ、何も見えなかったときのあの体温も、記憶の中に残っていた。