表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/245

1.邂逅(4)前兆①

 それは、ゴールデンウィークの3日目の出来事だった。


「英凛ちゃん、携帯電話、鳴っとったよ」

「え?」


 毛布のない掘りごたつに腰から下を入れ、まるでもぐらのように腕と頭だけを畳の上に出していた私の目の前に、そっと携帯電話が置かれた。


 中学生のときに買い与えられたそでは分厚く、機械っぽいシルバーで、例えば雲雀くんの携帯電話の隣に置くとまるでオモチャのようだ。特に、おばあちゃんに何も起こらず、特に連絡を取る相手もおらず、使う機会も少なく……なんて有様だと、本当にオモチャのように思えてしまう。現に、携帯・・電話なのに台所に置きっぱなしだった。


「鳴ってたって、電話?」

「さあ、そうじゃないかねえ。ずっとブーブー言っとったからね」


 音が短ければメール、長ければ電話。最初の頃は「音が鳴れば電話」と思っていたおばあちゃんも、今となってはそれくらいの区別がつく。


 でも、電話だとしたら一体誰だ……と考えていて、雲雀くんに電話番号を教えていたことを思い出した。実際、手に取って開けば、不在着信画面に表示されているのは雲雀くんの名前。


 かけ直そうか悩んでいると、パッと画面が切り替わり「着信中」と表示される。また雲雀くんだ。


「……もしもし」

「《あ、三国ィ?》」


 ……それなのに、聞こえたのは桜井くんの声だった。


 あの2人、休みの日まで一緒にいるのか……。本当に仲が良いなと思っていると、電話の向こうからは「三国、出た?」と荒神くんの声まで聞こえてきた。


「なにか用事……」

「《いま俺ら海来てんだけどさー、三国も来ようぜー》」

「海……?」


 いや、海って言ったって、まだ5月ですけど。頭の中には、冷たい潮風の吹く海岸の図が浮かんだ。うちからだと自転車で15分くらいだけど、きっと桜井くん達にとっては遠出だろう。彼らの住所は知らないけれど、中学の位置が真逆なのできっと家も真逆だ。


 それはさておき、今から海へ……? 一体何の遊びをするというのか。検討もつかなかったけれど、桜井くん達がいるならきっと楽しい。時刻は午後1時、あと1時間と少しは1日の中で一番暖かく、今日は気温も高めだし、足をちょっとつけるくらいならいいかもしれない。残りのゴールデンウィークに出かける予定もないし。


 ついそんな気持ちになって「んー、うん、分かった」と軽い返事をすると「《お、マジ?》」と少し上擦うわずった声が返事をしてくれた。


「《んじゃ迎え行こっか? 舜がさあ、バイクの免許取ったんだよね、アイツ、誕生日4月だから!》」

「え、いや、それは大丈夫」


 免許をとるのにどのくらいかかるのか知らないけど、少なくとも若葉マーク、下手したら新芽マークを車に貼っていてもおかしくない程度には初心者であるはずだ。そんな人の後ろに乗るなんて、おそろしくてできない。しかも、桜井くんと雲雀くんなら毎日顔を合わせているからまだしも、荒神くんとは2人だと何を話せばいいのか分からない程度の関係性だ、気まずい。


「海って、藍ヶあいがはまだよね?」

「《うん、それの南海岸。松の木の駐車場があるほう》」

「分かった、多分10分くらいしたら出る」

「《おっけー、分かんなかったら電話して》」


 急に電話で誰かと話していたかと思ったら出かける準備をし始めた、そんな私の様子をおばあちゃんはお茶を飲みながら見守っている。中学生のときから使っていたボディバッグにタオルを入れ始めたところで「海に入るにはまだ早かろう」なんて笑われた。


「んー、でも、なんか桜井くん達は入るみたい」

「そお。まあ、男の子は元気なんかもね。その桜井くん達の、写真を撮ってきてちょうだい」


 入学式に2人に絡まれて以来、おばあちゃんにはほぼ毎日桜井くん達の話をしていた。初日の所業を聞いたときは「気を付けなさいよ」なんて言われたけれど、実力テストの日あたりから「その桜井くんの写真はないんかね」「雲雀くんにようお礼を伝えてよ、お父さんにお世話になっとるから」とおばあちゃんの2人に対する印象は変わってきている。ちなみに荒神くんは覚えられていない。


「写真かあ……」

「その桜井くん、可愛い顔しとるんでしょ」

「うん、まあ……」


 桜井くんが雲雀くんと比べてどっちがイケメン論争をしていた、とりあえず2人ともイケメンだと答えたし、イケメンだとは思ってるけど、なんと答えるのが正解だったのかよく分かってない、そんな話をおばあちゃんにしてから、おばあちゃんはしきりと2人の顔を見たがっている。でも2人の写真を撮る機会などあるはずもなく、そうなれば今日は確かにいいチャンスな気はした。


「桜井くんはね、金髪がすごく似合ってるんだよね。目が茶色いからかな? なんか全体的に色素薄い感じなの。髪もふわふわで、ゴールデンレトリバーとかそんな感じ。あ、でもちっちゃいから中型犬かなあ」

「ちっちゃいんかね、その桜井くんは」

「多分……私とあんまり変わらない気がする。私よりは高いんだけど。雲雀くんはちょっと高いかも、なんか美人な狼って感じ」

「雲雀先生も、わか先生せんせいもハンサムじゃけね。息子さんも、そりゃあハンサムじゃろ」


 院長は雲雀先生、そして内科医をしているのは若先生。おばあちゃんは、雲雀くんのおじいちゃんとお父さんをそう呼んで区別していた。私は両方とも会ったことはない。


「んー、ハンサムっていうか、美人。髪型とか服装を変えたら、女の子って言われても分からないんじゃないかな」

「あら、そう」

「下手な女子より綺麗だよ、雲雀くんは」


 荷物を整えて玄関に手をかけ「じゃ、行ってくる」と振り向くと、おばあちゃんは嬉しそうに「いってらっしゃい」と笑った。


「今日は晩ご飯は?」

「……どうなんだろう。今日は帰ろうかな」

「要らんくなったら、電話をちょうだい」

「分かった、5時までには電話する」


 パーカーとティシャツとショートパンツにスニーカー。我ながら、まるで少年のような恰好をして家を飛び出る。唯一、少年らしくないところといえば、ポニーテールにしてもうなじを掠める髪と、ボディバッグのベルトが通る谷間くらいだ。


 桜井くんに言われた海岸沿いの駐車場へ行くと、2台並んだバイクの隣に桜井くんが座り込んでいた。太陽の光に金髪がきらきらと反射しているので、なによりの目印だ。何をしているのか、遠くからは分からずにおそるおそる自転車を押しながら近づくと、松の葉で文字通りひとり相撲すもうをしていた。


「……どうも」


 そっと覗き込むと、桜井くんはパッと顔を上げる。家を出る前に話したとおり、その金髪は今日もふわふわだ。


「お、三国。早かったな」

「そうだ、ごめん、何時くらいに着くか言ってればよかった」

「んーん、相撲やってたから大丈夫」


 桜井くんの足元には切れた松の葉がたくさん散らばっている。この様子だと、私が家を出たときにはもうここで待ってくれていたような気がした。


「……荒神くんは? っていうか、雲雀くんもいるんだよね?」

「あー、そうそう。アイツら、海入ったから砂浜に上がりたくないとかいって。じゃんけんで負けた俺が来させられたの」


 どおりで、桜井くんの足首には砂がついているはずだ。なんなら、折られたズボンのすそは濡れている。プルオーバーのパーカーも、お腹のあたりに濡れた形跡があるので、きっと水をかけて遊んだのだろう。


「三国、その足、寒くねーの?」

「……だって海で遊ぶんでしょ?」

「やる気満々じゃん! 来いよ、ビーチバレーやってんだけどさ、3人だとできねーなってなったから三国呼ぼうと思って」


 完全に桜井くん達の遊び相手・4人目になっている。いささか疑問はあったけれど、桜井くんが軽い足取りで海岸へ向かうのでよしとした。

 ザァッと、寄せては返す波の音が段々と大きくなる。ゴールデンウィークの潮風は少し冷たい。いそしおの香りもまだ薄く、海開きはまだまだ遠いことを五感で理解する。


「三国、ゴールデンウィーク、なにやってんの?」

「えー……と、本読んだり、ピアノ弾いたり……?」

「ピアノ弾けんの?」

「ちょっとだけ」

「すげー! じゃ、今度あれ弾いてよ、『フロッカーズ』の主題歌の」


 桜井くんが言っているのは月9ドラマのことだ。見たことはないけれど、音楽番組でその主題歌が特集されているのは見たことがある。主題歌のタイトルは『ありし日の愛し合い』。ピアノで弾けそうなバラードだった。


「楽譜があれば練習するんだけど」

「んァ」


 音楽をやっている人間からすれば、それはごく当然のことだったのだけれど、桜井くんの反応はそうではない。ということは、桜井くんは音楽にさっぱり縁がないのだろう。


「ほら、あの主題歌って、ピアノだけじゃなくて、ヴァイオリンとかビオラの音も入ってるでしょ? だからピアノ用にアレンジされた楽譜が必要で」

「あー……。うーん、俺、ピアノの音以外分かんねーから。そっか、そういうのが要るのかあ。じゃ楽譜持ってったら弾いてくれる?」


 持って行くってどこに? まさか家に? 頭にはおばあちゃんの家に桜井くんがやってくる図が浮かんだ。アップライトピアノが置いてあるのは、和室ばかりの家の隅っこにある洋室で、私の部屋だ。私の部屋に桜井くんが来る……。


 頭の中にある自分の部屋の図に桜井くんを合成してみる。違和感があるといえばあるけど、ないといえばない光景だった。


「……いいけど、練習してからね」

「あ、マジ?」


 頷けば、桜井くんの顔は目に見えて輝いた。丸い目を見開き、口角が自然に上がり、白い歯が覗く。それこそ、私にも分かるくらい嬉しそうな表情だった。


「約束な! その楽譜探すから!」

「……いい、けど」


 そんなに気に入った曲なの? と聞こうとして、浜辺にいる荒神くんから「おーっす、みくにー!」と声をかけられたので口をつぐんだ。


 荒神くんはやけに目立つ朱色の、そしてゆるっとしたティシャツを着ていて、ジーパンの裾を膝あたりまで折っている。対する雲雀くんは、黒いスキニーにネイビーのティシャツと全体的に暗い。夜の海だったらそのまま同化していそうな恰好だけど、辛うじて銀髪のお陰で目立っている。スキニーの裾は気持ち折ってある程度で、濡れるのは諦めたようだ。


 雲雀くんは、私の存在に気付くと顔を向けたけれど、荒神くんと違って手を振ったりはしない。代わりにその手には砂まみれのビーチボールが載っている。


 浜辺に降りる階段にパーカーやらスニーカーやらが置いてあったので、ボディバッグはそこに置いた。私がそんなことをしている隙に雲雀くんと荒神くんはビーチボールでドッジボールを始めている。


「え……えっと、なに? ドッジやるの?」

「いやビーチバレー。ドッジやったら三国にぶつけらんねーから三国とったほうが勝ちじゃん」


 謎のフェミニスト発言に首を傾げながらスニーカーと靴下を脱ぐ。桜井くんも同じくそれらを脱ぎ捨て「ぐっぱーで分かれよー」と無邪気に2人の間に飛び込む。桜井くんに言われたとおりに分かれれば、私と雲雀くん、桜井くんと荒神くんがペアになった。


「三国、ビーチバレーできんの」


 ボールを持った雲雀くんは、片手で器用にボールをもてあそぶ。軽く回転させながら宙に投げ、手に乗せて、また宙に投げ、をボールも見ずに繰り返しているのだ。それだけで運動神経の良さが分かる。


「……できなくはない」

「パーカー脱がなくていいのか?」

「……たぶん」


 5月初旬だ、半袖半パンはまだ寒い。荒神くんと雲雀くんは暫く遊んで体が温まっているのだろう。


 それにしたって、コートもネットもないのにビーチバレーなんてどうやってやるんだろうと思っていたら、荒神くんと桜井くんが、どこからともなく持ってきたバケツに海水を入れ、砂浜に海水でラインを引いた。


「ネットはなし。俺ら適当にやってるから」


 更に、残る疑問は雲雀くんが解消してくれた。口振りからして、いつもこんな遊びをしているのだろうか。イメージする不良像とは妙にちぐはぐに離れているけれど、それは私の勝手なイメージに過ぎなかったということだ。


「つか、急に呼び出して悪かったな」

「全然。何もしてなかったし」

「そっか」

「おっし、やろうぜ」


 桜井くんが袖を肘あたりまで引っ張り、腰を落とした。雲雀くんは変わらぬ仕草でボールを弄ぶ。


「こっち、三国いるからハンデな」

「いいよ、そんなの」

「いーぞ。三国のアタック入ったら2点な」

「おっけ」


 ポーンッと雲雀くんのサーブが、ネットも何もない、仮想相手コートへ飛ぶ。桜井くんがレシーブ、荒神くんがトス、当然アタックは桜井くんで「みくにー、いくぞー」なんて合図をする。


 その合図のとおり、桜井くんのアタックは優しかった。仮想ネットしかないとはいえ、それほど高くも飛ばず、ポンッとこちら側にボールを押すような攻撃だった。お陰で悠々とレシーブができる。


「三国、いけるか?」

「……たぶん」


 印象のとおり、運動神経がいいらしく、雲雀くんのトスは緩やかな弧を描いて落ちてくる。ボールの先にある太陽の眩しさに目をすがめながら、砂浜を蹴る。


「ゴフッ!」

「あっ」


 そして思い切り撃ち落としたビーチボールは、荒神くんの頬に直撃した。横でぶっと吹き出す声がしたし、桜井くんはギャハギャハと笑っている。


「ご、ごめん、大丈夫?」

「よくやった三国、2点だ」

「舜、さすがにそれはださくね?」

「いやいや、ちょっとタンマ!」荒神くんは頬を押さえながら「三国にハンデ要らなくない!? いまめっちゃ痛かったんだけど!」

「三国ィ、なんかやってたの」

「……なにも。球技はわりと得意」

「ほらぁー! 男の顔に弾丸アタック打つ女にハンデは要らねーよ!」

「舜、女子枠でハンデやろうか」

「要らねーよクソ!」


 荒神くんが仮想コートからはじき出されたビーチボールを持って帰ってきた。サーブは下からだった。今度は大人しく返そう……と心がけて優しいアタックをすると、再び桜井くんが拾ったので桜井くんの攻撃だ。トスを上げた後はもう手加減はしてくれないのか、砂浜とは思えない足のバネで跳ぶ。


「行っくぞー、次、侑生!」

「いちいち宣言しなくていーんだよ」


 パンッと軽快な音と共に飛んだボールを、雲雀くんは足で拾った。それなのに私の手元に返ってくるのだからすごい。そして雲雀くんのアタックもまた荒神くんめがけて放たれ、今度は顔にこそ当たらなかったものの、腕に当たって弾かれる。


「あ――」


 そのままボールは海のほうへ飛んでいった。荒神くんの「あー!」という声は段々とデクレッシェンドしていく。ポテン、と波の上に乗ったビーチボールは、私達の気持ちなど知らず、ゆらゆらと呑気に揺られ始めた。


「舜、取ってきて」

「いや見ろよ! 海の上! もう無理じゃん」

「無理じゃねーだろ」

「無理っつーんだよこれを! 5月に海なんか入ったら死ぬわ!」

「2月じゃねーんだから。ほら早く行け」

「お前のボールが悪かったのに!」


 ブツブツ言いながら、荒神くんはおそるおそる海の中へ向かい、膝までかってしまったところで必死に手を伸ばす。指先を掠めたボールは荒神くんをもてあそぶようにゆらゆらと遠く離れる。


「なぁー! 無理だって! これ以上行ったら俺死ぬって!」

「死なねーよバカ」

「つかパンイチになれば濡れなくていんじゃないの?」

「三国がいるのにそんな格好できるか!」

「私は気にしないよ」

「俺が気にする!」


 一度浜辺に戻った荒神くんはティシャツだけ砂浜に脱いだ。大きめのティシャツ姿からは分からなかったけど意外と筋肉質だ。雲雀くんと桜井くんが小柄だから余計に際立きわだつ。


 ついじっと見てしまっていると、荒神くんは笑った。


「三国に視姦されてるーう」

「えっあっ」

「くだらねーこと言ってないで取ってこいバカ」


 雲雀くんの近くにいたら蹴とばされていただろう、荒神くんは「うわーん寒いよー」なんて冗談めいた口振りで喚きながらザブザブと海の中へ入る。


「……三国、お前男兄弟いんの」

「え、あ、うん。兄が1人」

「……ふーん」

「んじゃ舜の体見ても欲情しねーな」

「そういう話か?」


 男兄弟がいないせいで見慣れないから直視できないとかならまだしも、同級生男子の体を見て欲情するのはどうなのか。ツッコミどころはあったけれど、雲雀くんが短く突っ込んでくれたので何も言わずに済んだ。


 そんな私達の間に、ポンッとビーチボールが放り込まれる。視線を向ければ、荒神くんがザブザブと海の中を掻き分けるようにして戻ってきながら「あーっ、つめてーっ!」と身震みぶるいした。


「マジ死んじゃう、無理、寒い!」

「そんな寒くねーだろ」

「じゃあ入ってみろよ! あー寒い、三国暖めて」

「舜のそれはレイプと同じだから」

「人聞き悪いこと言うなよ! 三国に誤解されたらどーすんの!」


 戻ってきた荒神くんのズボンはぐっしょり濡れていて、砂浜に上がると「うわっめっちゃ汚れた」なんて足をあげてこれ以上汚れまいとしつつ、でもそんなことは到底無理で、ただただ砂にまみれていく。桜井くんがそれを指差して「きたねー」と笑っていると、荒神くんはおもむろに桜井くんに飛び掛かった。


「ギャッ! なんだよやめろ! 侑生助けて!」


 そして私達が静観する中、じたばたともがくも甲斐なく、桜井くんは荒神くんに引きずられるようにして海へと落とされた。


 ザブンッと威勢のいい音と共に、桜井くんは背中から海の中に落ちた。荒神くんの「へっへっへ」という怪しい笑い声と「うぇっ、げほっ、鼻に水入った! え、つか寒!」と苦しそうな桜井くんの声が混ざる。


「どうだ、5月の海水浴は」

「さみーよ! 極寒! 死ぬ!」

「おーし次は侑生だ」

「は?」


 ビーチボールを拾い上げて我関せずを決め込んでいた雲雀くんが素っ頓狂な声を出した。この1ヶ月間聞いたことのない、雲雀くんらしからぬ声だ。


「何バカ言って――」

「昴夜、左」

「舜は右な」


 バッとでも聞こえてきそうな素早さで、桜井くんと荒神くんが雲雀くんに突進する。雲雀くんの顔に焦りが浮かんだことは私からもよく分かった。ビーチボールを放り出して素早く駆けだした雲雀くんを、2人が兎を追う虎のごとく追いかける。濡れていない雲雀くんのほうが身軽なのに、荒神くんが早かった。まるでラグビーのタックルのように雲雀くんを捕まえ「おいバカ離せ!」と声を荒げる雲雀くんを、桜井くんと一緒に引きずり、両腕両足を持って、海へと放り投げた。


 ドボンと間抜けな音と共に、雲雀くんが海の中へ消える。当然、すぐに銀色の頭が生えて「クッソ寒ぃ!」と悪態を吐いた。そのまま水浸しの銀髪をかき上げながら、顔にしたたる海水を手のひらで乱暴にぬぐう。ティシャツはぴたりと体に張りつき、いつも見ている学ラン姿よりひとまわり細く見えた。入学式の日にやってきた怪物の手下が「細っこい」なんて馬鹿にしていたことをつい思い出した。


「バッカじゃねぇの、このクソ寒いのに海なんかに入れやがって!」


 普段のクールな姿からは想像もつかない、甲高い怒鳴り声だった。膝下は海に浸かったまま、雲雀くんは素早くティシャツを脱いで海水を絞り出す。ビチャビチャッと海面で水が跳ねた。


「でもなあ、最初に入れたのは侑生じゃん?」

「ボールを取りに行けって言ったんだよ俺は!」

「あれは侑生のボールが悪かったよな、舜がとれなかったもんな」

「取れないテメェが悪いんだろ!」


 ギャンギャンと言い争う3人が3人、5月初旬に全員水浸しで凍えている。


 大体、波打ち際でビーチバレーをすること自体、変なのだ。普通に考えれば、弾かれたボールが海に落ちることなんて簡単に予想がつくのに、わざわざ波打ち際の真横でビーチバレーをすることが変だった。それどころか、もとをただせば、ゴールデンウィークなんかに海に行こうと言い出して、挙句真夏の風物詩みたいな遊びを始めようとするなんて、普通はない。


 それは、あまりにも私の考える“普通”から離れていて、思わず笑い出してしまった。


 その笑い声をうまく言語化することはできない。ただ、言い争う3人に聞こえるくらいには大きな声が出た。なんなら笑い過ぎて涙が出た。お陰で3人がこちらを見ていると気付くまで暫くかかった。


「あ……ごめん、つい……」

「いやー、許しがたいね」


 桜井くんの声にドキリと心臓が揺れた。ザブザブとその足が波を踏む音を聞きながら、ぎゅっと体の前で手を握りしめる。



 ぺちゃんこになってもなお陽光に反射する金髪の下で、桜井くんはにんまりと口角を吊り上げた。きっといたずらっぽい笑みというのは、こういう笑みをいうのだろう。心臓がさっきとは違う意味で揺れた。


「三国も海に突っ込もうぜ」

「えっ」

「な!」


 冷たい海水に濡れた手に腕を掴まれ、波打ち際まで連れていかれる。海水に濡れ、冷え切った砂の温度が足の裏から上ってきたかと思えば、すぐに海の中まで連れていかれた。波は既に膝下だったけれど、凍えるほど冷たくはなく、むしろちょっとひんやりとして気持ちが良い。


 ただ、あくまで膝下までならであって、全身が濡れるとなると話は別だ。きっと水温は20度すら超えていない。それなのに両腕を引っ張る桜井くんが止まってくれる様子はないので慌てて「ちょ、ちょっとタンマ!」と海底の足を踏ん張った。


「これ以上は服が濡れるから!」

「えー、いいじゃん、俺らこんなだし」

「せんせー、桜井くんが女子いじめてまーす」

「違いますー、一緒に遊んでるんですー」

「そのへんでやめとけよ、嫌われんぞ」

「待って待って! 本当にこれ以上は――」


 思えばそれはフラグだった。自分の意志とは裏腹に進まざるを得ないせいで、見事に足はもつれ「あっ」と桜井くんが目を見開いたのを視界に入れたが最後、ドボンッと私は顔から、桜井くんは背中から海に突っ込んだ。


 溺れたらひとたまりもなさそうな、冷たい海の中。咄嗟に目を瞑ってしまって何も見えなかったけれど、桜井くんの手の体温に、私が繋ぎ止められていた。


 その中からすくうように持ち上げられ「っは」と大きく息を吸いながら顔の海水を拭った。塩水で前髪がべったりと額に張りついている。パーカーのフードには少し海水が入っていた。


 そこまできてようやく、自分が雲雀くんに抱えあげられていたのだと気が付いた。あまりにも力強いせいで、きっと人間に抱えられる猫ってこんな感じなんだろうななんて思ってしまった。次いで、腰のあたりに見える白い腕と背中に触れる体を意識し、一気に緊張感が全身に走る。


 でも雲雀くんにとってはなんともないことなのか、私が立てると分かるとすぐに腕を離された。ほっとする私の前では、桜井くんがまるで水泳競技のように海面に飛び上がる。


「っあー! もう! また濡れた!」

「お前が悪いだろ」

「何で俺は助けてくれないの!?」

「お前は悪いから。三国、大丈夫か?」


 急に海に飛び込まされて、服はずぶ濡れだし、体は冷たいし、髪はべたべただし、正直にいえばコンディションは最悪だった。


 コンディションは、最悪だったけど。


「……全然、大丈夫」


 普通からかけ離れた、あまりにも馬鹿げた自由な遊びに、正体不明の充足感が胸に広がっていた。


 見上げた先の雲雀くんの頬が緩んだ、気がした。ただきっとそれは気のせいで「あそ」と短く返事をして、びしょぬれのティシャツ片手に海を出て行く。荒神くんも一足先に砂浜へ戻り「うへー、さみー」と階段のティシャツを手に取ったところだった。


「え、待って、俺着替えないんだけど」


 その様子を見ていた桜井くんがハッと気づいたように手を口に当てる。桜井くんだけプルオーバータイプのパーカーを着ているので着替えがないのだ。


「大丈夫、私もないから」

「わーい仲間だ」

「わーいじゃねーよ謝れ」


 パーカーを脱いで、雲雀くんに倣って水を絞っていると「三国、これ着てろ」と雲雀くんのマウンテンパーカーを放り投げられた。石階段の上に置かれていたうえに真っ黒なので、陽光を集めて暖まっている。ありがたくないわけがないけど、私がこれを借りると雲雀くんは上裸だ。


「え、いや別に……」

「着たほうがいいぞ、三国。マジで舜に視姦されるから」

「…………」

「あのね、マジでそういうこと言うのやめて? 俺が本当に変態みたいじゃん?」

「お前は変態だろ」

「……お借りします」

「ちょ、待って、三国、着るのはいいけど信じるのはやめて」


 もそもそと雲雀くんのマウンテンパーカーを羽織る。私より少し背が高いくらいだと思っていたのに、いざ着てみるとかなり大きい。なんならショートパンツさえ隠れてしまいそうだ。


「……ありがとうございます」

「別に」


 荒神くんの視線がこちらに向く。顎に手を当て真面目な顔で頷いているものの、その視線がパーカーの上を滑って足に動いたのを見逃すはずがなかった。


「……これはこれでありだな」

「お前、除夜の鐘と一緒に頭打たれたほうがいいんじゃねーの」


 溜息交じりの雲雀くんは、絞ってぐしゃぐしゃになったティシャツを着直している。私にパーカーを貸してくれたがばっかりに申し訳ない。ボディバッグの中にタオルを入れてきたことを思い出して慌てて引っ張り出した。


「……雲雀くん、タオル使う?」

「さんきゅ」

「え、待って、そういうのあるの? 俺もタオルほしいんだけど!」


 パーカーのせめてものお礼にと差し出すとすかさず桜井くんも出てきた。確かに桜井くんは上裸で、しかもプルオーバーのパーカーなんてティシャツと違って簡単に絞れない。でも雲雀くんは「知らねーよ、お前がその恰好で飛び込むのが悪い」と冷ややかにタオルを一人占めして、銀色の頭をぐしゃぐしゃと拭く。


「寒いんだよ俺は! 死んじゃうよ!」

「死なねーよ。つか俺とお前の条件は同じだろ」

「だったらタオルくれてもいいじゃん!」

「俺は悪くないけどお前は悪い」

「俺だって舜にやられたんじゃーん。あ、てか舜、シャツあるじゃん、貸して」

「やだよ着るから」

「お前ティシャツが無傷なんだからいいじゃん!」


 こんなに喚くことになるなら海になんか入らなければいいのに。不合理としか言いようがなかったのだけれど、そんな合理性とか論理則が、今はどうでもよかった。


「さーくらーいクン」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ