第1 記憶
私達が群青を失ってから、もう十年以上経ったのだ。
決して忘れたことないその記憶を、頭の中でなぞりながら受話器を置いた。途端、解放された耳には事務所の雑音が飛び込み始めた。パーテーションの向こう側からは「和解したからって許す必要はないんですよ」と先輩の声が聞こえる。もう少し耳を澄ませると「結局民事訴訟なんてさあ、どっちもどっちなんだよ」とパートナーの説教じみた声も聞こえた。
今日も、日常は変わらず回っている。デスクトップパソコンの横に立てかけている手帳を手に取り、電話中に置かれたFAX用紙を引き寄せる。2月のページを開き、13日に「東京地裁 10:00 tel」と書き込んだ。
そのまま、手帳の最初のページに戻る。挟んである四つ折りの紙を取り出し、開くと、真ん中に穴が空いていた。折りたたまれると最も負荷をかけられる箇所だ、仕方がない。
十年も前の紙なんだから、仕方がない。そう言い聞かせながら、でもそれ以上破れないよう、慎重に紙面を撫でた。
【群青VS深緋】
【不良同士の抗争に犠牲者】
【関係者への取材に成功。不良同士の小競り合いから発展した殺人事件の舞台裏が見えてきた】
『一色市のレンタル倉庫において、新庄篤史くん(18)の死体が発見された。発見したのは、倉庫をレンタルした大門徳文さん(34)。早朝6時頃、荷物の搬入のために倉庫へ向かったところ、扉の鍵が壊されており、不審に思って扉を開け、死体を発見したという。大門さんは、死体が発見される1ヶ月前から問題となった倉庫をレンタルしており、使用しないキャンプ用品を保管していた。「寝袋とか、広げてあったんですよ。警察の人も言ってたんですけど、仲間でたまに使ってたんでしょうね。気味が悪いから、捨ててくれって言いましたよ」。
一色市には、いわゆる「不良チーム」が複数存在した。新庄くんは「深緋」という不良チームのNo.2であり、市内でも指折りのワルだったという。市内の高校生によれば、学校の問題児は大抵「深緋」や「白雪」そして「群青」のメンバーだった。奇天烈な名前が並ぶが、彼らは自らをそう名乗り、その名を背負い、互いに争い続けた。まるで反社会勢力の雛である。実際、チーム内での彼らの行いは未成年飲酒、無免許運転、暴行・傷害、強姦なんでもあり。その果てが、今回の殺人である。
「深緋」のOBであるAさんは、チーム同士の関係についてこう語った。「もともと、深緋と群青は仲が悪いんです。俺が現役のときも、しょっちゅう衝突してました。相手チームの幹部連中の彼女誘拐するなんていくらでもありましたよ。そりゃもっと仲も悪くなりますよね」
今回の事件も、その“衝突”の一環だと考えてなにも不思議なことはないという。
「ちょっとやりすぎたんでしょ。でも未成年ですからね、よかったですね」
今回の事件の犯人は「群青」のK.Sくん。K.Sくんは、事件の数日後、自ら警察に出頭した。
「中学のころからヤバいヤツでした。中学に入学したばっかりの頃に上級生をぶっ飛ばして、そこから群青に目を付けられてたみたいです。高校に入ってからは、学校で一番の優等生だった女の子のことがお気に入りで。監視するみたいにずっとその子の近くにいたし、その子が無理矢理さらわれる様子も何度も見ました。最後はその子が自分でついて行くようになってて……なにか、弱味でも握られてたんじゃないか……」と語るのは、K.Sくんと同じ灰桜高校に通っていたBさんである。Bさんも、過去にK.Sくんに脅迫されたことがあった。
「群青」のメンバーはK.Sくんが起こした事件について「普通、殺しまではしない」と口を揃えた。K.Sくんの異常さはメンバー公認だったということだろう……。』
「三国先生、なんの記事を見ていらっしゃるんですか?」
岡本さんの声に顔を上げた。丸い目は純粋な好奇心で私の手元を覗きこむ。そこにあるのは、週刊誌の見開き一ページだ。
「……あ、この事件!」
紙面を見て、事件を想起するまでほんの一拍。編集者のタイトルセンスは、十年経った今も疑う余地はない。
「ご存知なんですか?」
なるべく平静を装う。岡本さんのほうが興奮気味に激しく首を縦に振った。
「もちろん。だってこれ、結構話題になりましたよ」
そういえば、一色市は岡本さんのお母さんのご実家があるんだと聞いたことがあった。そして、岡本さんは私と2つか3つしか年が変わらない。となれば、岡本さんが祖父母から、市内で孫と年の変わらない子が事件を起こしたなんて話すのは、ごく自然なことだった。
「この事件、祖母から電話で話を聞いたんで、よく覚えてるんですよ。男の子が、同い年の男の子をバッドで殴り殺したって。危ないから気をつけなさいって、祖母に注意されちゃいました、注意しろったって何をどうしろって話なんですけど」
あまりにも想定通りの反応で、やっぱりな、なんて感想を抱く。そんな岡本さんの口ぶりは他人事じみていて、身近にそんな事件があったことに興奮を覚えているような、少しミーハーじみた様子だった。
「そういえば、先生って一色市のご出身ですよね?」
「ええ、まあ」
「この犯人とか、知り合いだったりするんですか?」
岡本さんは私と2つか3つしか年が変わらない。そして岡本さんのお祖母さんは、岡本さんの2つ下の少年が人を殺したと話した……。
「……いえ、まあ、誰が犯人か、分かりませんから」
「あー、まあ、そうですよね。だってこれ、犯人、未成年だったんですもんね。実名報道されないから……。でも市内では誰なのかってちゃんと分かってたみたいですよ、祖母から聞きました」
でもさすがに名前までは覚えてないですね……、と岡本さんは顔をしかめた。
「ただ……市内でも有名な問題児っていうか、やっぱりちょっとおかしかったっていうか。万引きとかそういうレベルじゃなくて、傷害とか、その、強姦とか。そういうのも色々やってた子だったらしいんですよ。怖いですよね」
それに返事をせず、なんとか苦笑いだけを浮かべて記事を折り畳み、手帳に挟む。
「……じゃあ、すみません。今から接見──被疑者と面会なんで、行ってきます」
岡本さんは「あ、さっきかかってきてた電話の……」と思い出す仕草をする。刑事弁護の配点の電話を取ってくれたのは岡本さんだった。
「でも先生、珍しいですね。刑事事件なんて、うちでやってる人、あんまりいませんよ」
「まあ、そうですよね。でも今日のは当番ですから……」
岡本さんがよく理解できていなさそうに首を傾げた。岡本さんは秘書歴1年だ。
「刑事弁護の当番をしなきゃいけないって決まってる日があって。ここの警察署に逮捕されてるこの被疑者の弁護をしてあげてくださいって電話があったら、行かないといけないんですよ。今日はその日なんです」
「ああ、そうなんですねえ……大変ですね……」
納得したような、そうでもないような微妙な返事だった。でもすぐに明るく微笑む。
「じゃあ、今から警察署なんですね。外、雨降ってますし、お気をつけて。いってらっしゃい、先生」
「ありがとうございます」
重たいコートを片手に、事務所を出た。
事務所の地下が地下鉄の駅と直結しているお陰で、事務所を出ても傘をさす必要はなかった。その代わり、地下鉄が地上に出れば、電車の音に負けないくらいの強い雨が窓を叩き始めた。普段ならデスクワークばかりで、事務所から出る必要なんてないのに、こんな日に限って当番だなんて、ついてない。
綾瀬駅に着いても、それは同じだった。不幸中の幸いは、綾瀬警察署が駅からほんの数分しか離れていないことだった。
署内に入りながら傘を畳んでいると、視界の隅で受付の人が立ち上がる。
「どうか、なさいましたか?」
どうやら善良な市民と勘違いされてしまったらしい。少し焦った顔に、三十路に差し掛かっても存外若く見えるのだろうか、なんて考える。
「弁護士です。被疑者との接見に来たんですが、留置場はどちらですか」
「あ、弁護士先生ですか。向こうのエレベーターで、4階です」
「ありがとうございます」
案内されるがまま接見室の手前まで来て、運が悪い、と溜息を吐く。
警察署で、被疑者――逮捕されている人と面会できる部屋は一つしかない。しかし、警察署に被疑者は大勢いる。その被疑者一人一人に面会希望があれば、必然、面会待ちの列も長くなる。もちろん、そう毎度毎度行列をなしているわけではないが……。
面会室前のソファに座るのは5人。中年男性2人、若い男性1人、中年女性1人、若い女性1人……。中年女性と若い女性はコソコソと何かを喋っているので、きっと連れだろう。男性3人はそれぞれスマホを見たりパソコンを見たりしているので、きっと弁護士だ。
弁護人以外の面会は30分と限られている。女性2人はきっと一般面会だろうけれど、おそらく男性3人は弁護人だ。となると、今日の待ち時間は長そうだ……。午後1時を回ったばかりの時計をみながら、壁に凭れ、溜息を吐いた。
『この犯人とか、知り合いだったりするんですか?』
仕事をするスペースもないせいで、岡本さんの話を思い出してしまった。床におろしたカバンの中から、そっと手帳を取り出す。その手帳の中に挟んである、四つ折りの記事を取り出した。
年が変わる度に手帳を新調するけれど、その度に、この記事を古い手帳から新しい手帳へと入れ替える。そろそろ保存に良い、プラスチックのケースか何かに挟んだほうがいいんじゃないかと毎年思っているのに……なかなか、そんなことをする気が起きない。
本当は、年が変わるたびに捨てようと思っているから。
その記事を開くと、週刊誌の記事らしい、2頁に渡ったタイトルと写真とが目につく。『不良同士の抗争に犠牲者』という煽りの横には、死亡した新庄篤史の写真がある。ぬっ、という擬態語が似合いそうな顔立ちで、薄ら笑いを浮かべている顔写真だ。
更にその隣には、一色市にある青海神社が映っている。記事中には「群青がいわば根城にしていた神社(写真左)」と書かれていた。
『「群青」のメンバーはK.Sくんが起こした事件について「普通、殺しまではしない」と口を揃えた。』
違う。誰も聞いてくれないのに、つい、そう反論してしまう。「群青」のメンバーはそんなことを言ったのではない。「群青」のメンバーは――侑生は「いくら不良同士の抗争つったって、普通、殺しまではしない。アイツが殺したっていうなら、それは事故か、そうじゃなくても何か別の理由があるに決まってる」と話したのに。今でもはっきりと、表情まで思い出せるほど、侑生はそう伝えたのに。この週刊誌の記者は、読者が求めない声は聞こえなかったかのように、こうまとめた。
手帳を閉じ、天井を仰ぐ。低く古い天井の模様は、祖母の家のキッチンと同じだった。
もう十年も前なのに、覚えているものだ。目尻に涙が滲むのを感じ、誰に見られるわけでもないのに目を閉じた。
十年――いや、もう十年以上前だ。この事件が起こったのは2009年、そして――私が群青に出会ったのは、それよりももっと前。
この事件の犯人とされている、桜井昴夜に出会ったのは、それよりももう少し、前の話だった。