番外篇 黒の暗殺者の過去
なんとこの作品が一周年を迎えました。
亀より遅いペースでの更新なので書いたのはまだ三十話程度ですが、飽き性な自分が続けてこれたのも読者の皆様のおかげです。
今回は特別番外篇となります。
その文字数なんと一万三千字オーバー!
自分史上最多の文字数でございます。
長いですが、お楽しみいただければ幸いです。
時は過去に巻き戻る。
過去は過去、今にさしたる障りは無く、されど過去が無ければ今は無い。
これは黒の暗殺者の過去の物語。
◇ ◇ ◇
ルーンガリア王国の城塞都市ギルア。
そのメインストリート『商人通り』にごった返した人混みの中、彼は居た。
ルーンガリアでは珍しい黒髪と黒目は人目を引くが、彼の全身から放たれるオーラが近づくことを許さない。
それもそのはず、知る者こそほとんどいないが、彼こそが世界の頂点に立つ者なのだから。
世界最高にして最強の暗殺者、アレン・フォード。
彼はただ街中をひた歩く。
(……暑いな)
アレンは僅かに眉をひそめる。
いくら世界最強の暗殺者といっても彼は人間、何百もの人間を屠ろうとも、夏真っ只中のルーンガリアの気温には耐え難いものがあった。
おまけに彼は人嫌いである。
ギルアは比較的田舎に属する街ではあるが、それでも大通りを埋め尽くすほどの人が溢れかえる。
それらが合わさり、彼の機嫌は最悪ではないものの悪い方には傾いていた。
人間を半数ほどに減らしたい衝動に駆られるが、アレンは無差別殺人鬼ではなく暗殺者、理性を稼働させて大通りの端へ移動する。
そして、あるものを見て足を止めた。
(……大分減ったと思っていたが……)
そこに居たのは背中を路地の壁にもたれている少女。
全身が血と土埃に塗れ、身に着けている貫頭衣は無事な部分を探すのが難しいほどにボロボロだった。
身寄りも無く学も無く路上を這って生きる子供、いわゆるストリートチルドレンだ。
この街の領主は善政を敷いており、今ではほとんど見ることは無いが、決して珍しいものではない。
アレンも今まで何人も見かけ、そして何人も見過ごしてきた。
では、なぜ彼は足を止めたのか。
(……見ていて気分の良いものではない、か)
彼は━━アレンはその少女の目を見ていた。
黒く淀んだ生気の無い目。
生きることを諦めたような力の無い目に、彼はかつての自分を重ねた。
彼もまた生まれ堕ちた頃から天涯孤独の身。
泥水を啜り、鼠や虫を喰らい、時には死んだ人間の血肉を貪った。
それだけでは飽き足らず盗みも働いて食べ物を得たし、人を殺して居場所を得た。
そうして生きるために藻掻き続け……いつからか彼は最強の暗殺者と呼ばれていた。
「おい」
アレンが少女に声をかける。
アレンがその少女に意識を向けるのは憐れみか同情か、はたまたただの気まぐれか。
本人以外には知る者はいないということのみが真相であった。
「今どういう気分だ? 生きたいか、それとも……死にたいのか」
少女は答えない、いや、答える気力すら失っているというのが正しいかもしれない。
俯いて死んだ目を地に向けたままピクリとも動かない姿は、見る者によっては死んでいるように見えただろう。
しかし、アレンはそんなこともお構いなしに言葉を放つ。
「死にたいなら━━今ここで殺してやろうか」
少女の首筋にそっと人差し指を当てる。
彼にとってたった一人の少女を殺すことなど造作もない。
だが、彼は動かない。
少女の目をじっと見据え、少女の言葉を待つ。
「…………い」
「なんだ?」
「━━いきたい」
やがて少女の口から紡がれた言葉。
まるで蚊の鳴くようなか細く弱々しい声だったが、アレンはそれを━━少女の意志をしっかりと受け取った。
「わかった」
それだけを返すと、アレンは身に着けていた外套で少女を包み、優しく━━というには少々荒いが━━抱き上げた。
時折通行人に奇異の視線を向けられるが、アレンはそれを意にも介さず堂々と歩く。
彼にとってそれは当然のことであるかのように。
少し時が経ち、着いたのはアレンが拠点としている古びた宿屋。
彼はその扉をゆっくりと開け、カウンターの前で立ち止まる。
「店主、桶に溜めた湯と清潔な布を何枚かくれ。代金はこれだ、釣りはいらない」
「あ? あ、ああ、それは構わないが……って、大銀貨!? おい、いくらなんでも多過ぎるよ! おーい!」
大銀貨という贅沢しなければ大人が一ヶ月暮らせる大金を払った男を呼び止める店主。
しかし、その声は届かず、アレンはそのまま借りている部屋へと行ってしまった。
どうしたものか、と頭を抱える店主だったが、自身の役目を果たすべく迅速に湯と布を用意するのだった。
アレンは部屋に入ると抱えていた少女を備え付けのベッドへ下ろす。
安心感からかいつの間にか眠ってしまっていた少女を包んでいた外套を布団代わりにして寝かせ、自分は近くの椅子に腰をかけて少女の起床を待つ。
「ん……」
やがて小さな声と共に少女が目を覚ます。
未だ朦朧とする意識の中、なんとか起きようと目元を擦るが、まだ頭は霧がかかったように上手く働かない。
「起きたか」
唐突にかけられた言葉に少女がビクリと身体を震わせる。
アレンはそれを気にしていないのか、もしくは気づいていないのか、特段何かを言うことは無い。
「食え」
アレンがオロオロしていた少女に大きめの紙袋を差し出す。
それにはパンや干し肉、果実にチーズといった簡単に食べられる食料が詰め込まれていた。
だが、少女はそれをじっと眺めているだけで、手をつける気配が無い。
もちろん食べられないということはないだろう、現に一瞬とはいえ手を伸ばしていたのだから。
見かねたアレンが紙袋から飛び出ていたリンゴを手に取り一口齧る。
シャクシャクという小気味いい音と共にクドくない甘さが口に広がる。
ちなみにリンゴは甘いものがあまり得意ではないアレンが自分から手を伸ばす数少ない甘味である。
「遠慮するな、これはお前の物だ。奪われることもないし、食ったことを咎められることもない」
そう言ってアレンは少女にもう一つのリンゴを手渡す。
少女は何度もリンゴとアレンの顔に視線を往復させるが、やがて疑うのを止めたようにリンゴに齧りついた。
その時、少女の目から一筋の雫が頬を伝って流れ落ちた。
少女は目元を服で拭うが、次から次へと溢れ出す涙はどうやっても止められない。
リンゴを完食した頃には次の食べ物を手に取り涙や嗚咽を漏らしながら、今までの空腹を埋め合わせるかのように食べ続けた。
しばらくして少女が食事をする手を止めるのと同時に扉がノックされた。
「頼まれていたお湯と布をお持ちしました」
「ああ、とりあえず机に……」
そこまで言ってアレンは少女が小さな寝息を立てて眠ってしまったのに気がついた。
「……済まない、寝てしまったようでな、また明日頼むことにする」
「承知しました」
スヤスヤと心地よさそうな少女の寝顔を眺めながら内心で息を吐く。
(さてこれからどうなるやら……)
◇ ◇ ◇
ギルアの街外れにあるバー『ギャンビット』。
深夜と言うにも遅過ぎる明け方に近づきつつある時間でも賑わいを見せている店内、そのカウンター席にアレンは居た。
一気に酒を呷り空になったグラスと机がぶつかり合い、中の氷がカラカラという音を立てる。
「わからんなぁ……」
アレンは小さく呟き溜め息をつく。
アレンが頭を悩ませているのは他でもない、あの少女のことである。
アレンが少女を拾ってから十日が経過した。
少女はアレンに対して警戒心を見せることは少なくなり、乏しいながらも会話をするようにもなった。
しかし、未だ肝心なところで致命的な隔たりがある、とアレンは感じていた。
(衣食住は問題無く与えている、高圧的な態度は取っていない、少なくとも嫌われてはないはずだ。だが、どうにも他人行儀というか……)
「わからんなぁ……」
二度目となるその言葉を吐きながらアレンはグラスを呷るが、空になっていたことを思い出して仕方なく入っていた氷を噛み砕く。
「いつも以上に辛気臭いわねえ、モテないわよ?」
「……マリエラか」
並大抵の人物なら近寄ろうとしないオーラを放つアレンに気兼ねなく話しかける女が一人。
栗色のウェーブがかったボリュームのある髪を揺らすこの女はバー『ギャンビット』の店主マリエラ。
マリエラは手に持っていた煙管を弄びながら嘆息する。
「カウンター席でそんな顔されちゃお客さんも入ってこないわよ。その殺気は貴方の魅力であると共に一般人には兇器なの。何回か言ったわよね、アレン?」
「殺気を漏らしたつもりはないんだがな……一応悪かったと言っておく。あと同じ酒をもう一杯」
「まったく……ほどほどにしなさいよ? 最強の暗殺者がお酒で死んだなんて笑い話にもならないわよ。私は大笑いするけど」
「俺がザルなのはお前も知ってるだろう」
マリエラはアレンからグラスを受け取り、後ろのワインセラーから同じ酒を注ぐ。
本来行きつけであろうと、アレンが一介のバーの店主に素性を漏らすことは無い。
ではなぜ彼女はアレンを知っているのか。
それには彼女の裏の顔が関係していた。
バー『ギャンビット』の店主マリエラにして━━裏社会の情報屋マーリン。
それが彼女の持つ二つ目の顔であり、アレンの正体を知っている理由である。
「それでいつも以上に辛気臭い顔をしているのは一体どんな理由なのかしら?」
マリエラはスッと目を細め、アレンをじっと見据える。
何もかもを見透かすような冷静で冷徹で理知的な光の宿った目。
この目はマリエラというよりマーリンとして見せる目、隠し事は無理だと悟ったアレンは全ての事情を包み隠すことなく話した。
「なるほど、その拾った少女が今尚避け続ける理由がわからないと……なんでそんな面白……いや、大変な状況下で私を頼らないのよ」
「今うっすらと見えた本音が原因かな」
「それはそれよ」
悪びれる様子の欠片も無いマリエラを尻目に、アレンは再び思考の海に潜り込む。
(一体何が原因だ? 不安を感じているというのは有り得なくはないが何に対して? 今までの環境との差異によるものだとしても良くなった状況であんなことになるか? いやもしかしたら……)
「はい、その辺で帰ってきなさい。また殺気が漏れ出てるわよ」
アレンがハッと正気に戻る。
思考にのめり込むと何故か殺気が漏れるという悪癖を反省しながらアレンはマリエラに向き直る。
「そういうわけだが……何かわからないか?」
「んー、単純に時間が解決してくれそうな気もするけど……その女の子の名前って何だったかしら?」
アレンは沈黙した。
そして、それと同時にとある驚愕の事実に辿り着いた。
「━━知らない」
「え?」
「聞いていなかった……」
「貴方バカじゃないの?」
マリエラの辛辣な言葉がアレンにグサリと突き刺さる。
事実これは自身のミスであるとわかっているアレンは反論することなく、マリエラからの言葉を受け止めた。
「というか、名前知らないならなんて呼んでるのよ」
「……おいとか、お前とか……」
「小さい子供になんて言葉遣いしてんのよ。というか、もしかしたらそれなんじゃないの、溝がある原因」
「流石にそれは……」
「あるに決まってるでしょうが。名前も呼ばれない人間から施し受けたって、大抵は不審がるわよ。そんな境遇にあった子なら尚更ね」
詰めるように話すマリエラに少々気圧されるアレン。
自分が悪いとはわかっていながらも、どこか納得できていないようなアレンの顔を見てマリエラは何度目かもわからない溜め息をつく。
「名前は個人を創り上げる重要な要素。無くてはならないものなのよ。まずは帰ってからちゃんと話して名前を呼んであげなさい」
アレンが小さく頷くとマリエラはアレンを手早く店の外に放り出す。
それは朝が明けかけていたという理由であり、店を閉める時間だからという理由でもあり……アレンがそこまで気に掛ける少女への軽い嫉妬からでもあった。
◇ ◇ ◇
ほとんど明け方と言っても過言ではない薄ら明るい空の下、アレンは再び思案していた。
(名前か……考えてみたら気にしたこともなかった。俺が居た場所じゃそれが当たり前だったしな)
アレンが生まれ育ったのは日常的に人が生死を左右されるような劣悪な環境。
昨日初めて会った人間が次の日には死体になっていた、ということすらざらだったアレンにとって他人の一人一人を識別する意味などなく、自分以外は皆等しく敵または利用して搾取する存在だった。
今はマシになったが、人の名前なんて無意味、区別できていれば問題無し、それがアレンの価値観だった。
自分の似たような境遇に居たから、自分と同じ目をしていたから。
様々な理由で自身と少女を重ねていた故に気づかなかった、いや、気づこうとしなかった。
少し考えればわかるであろうことすら至らなかった自らを恥じるように、アレンは奥歯を噛みしめる。
思考から現実に意識を戻すと、宿屋の前まで辿り着いていた。
日は既に昇り、眩い光で街を照らしていた。
足音を殺しながらゆっくりと扉を開けると、すーすーと寝息を立てて眠る少女が目に映る。
これから寝ても一日が潰されてしまうだけだと判断し、アレンはベッドに腰掛け少女を何の気無しに観察する。
少女は最初にアレンと会った頃とは大分変わっていた。
身体を洗わせたことで血や土埃で汚れていた髪は本来の美しい金色を取り戻し、土気色だった肌は子供特有のほんのり赤い薄橙に。
極限状態に居たが故に痩せ細った手足は細いままだがそれも時間が経てば改善されるだろう。
「んー……」
ぼんやりと観察を続けていると、少女が目を覚ました。
人差し指で目元を擦りながら身体を起こす。
ベッドに腰掛けていたアレンを見て驚いたように目をパチパチさせるが、すぐさまペコリと頭を下げる。
「おはよう……ございます」
「ああ、おはよう。食え」
アレンはいつものように紙袋を渡し、食事を摂らせる。
まだ一〇回ほどしかしていないというのに、既に定着しつつあるいつも通りの朝。
しかし、これではダメなのだとアレンはわかっている。
『帰ってからちゃんと話して名前を呼んであげなさい』
つい先程マリエラから言われた言葉が脳裏によぎる。
だが、彼は会話……もっと言えば人付き合いに類するものを得意としていない。
彼の頭に入っているのは情報収集のための相手に取り入る術と女を口説き落とす術だ。
この場合は何の役にも立たないものばかりであり、アレンはこの時初めて自身のコミュニケーション能力の低さを呪った。
(一体どうすれば……何かと合わせて聞くか? いや、そもそもろくに話していないんだ、不審がられるのは変わらない。それなら……)
「おい」
「? はい」
「あー……名前はなんていうんだ?」
アレンが最終的に選択したのは単刀直入に聞く。
まるでぎこちないナンパのようなセリフだが、残念ながらアレンは大真面目である。
少女は何のことかわからないと言わんばかりに首を傾げる。
だが、しばらくしてようやく質問の意図を理解したのか、ゆっくりと口を開こうとして……口を結ぶ。
「ん? どうした」
アレンが問いかけるが、少女に口を開く気配が一向に見えない。
何故かと考えてみると……すぐに一つの可能性に行き当たった。
「……無いのか」
少女はビクリと身体を震わせ……小さく頷いた。
名前が無いことはストリートチルドレンだった過去を鑑みれば珍しいことではない。
アレンもその一人であり、アレン・フォードという名前は必要に駆られた時に適当につけた名だ。
しかし、まだ幼い少女にとって自身の名前が無いことは非常に悩ましいこと……かもしれない。
「ならそうだな……アウラ。これからはそう名乗れ」
アレンから何気なく放たれた言葉に少女は俯かせていた頭を跳ね上げる。
「な、んで?」
「名前が無いと不便だととある奴から聞いたもんでな」
「ちがう。なんで、アウラ?」
「ん? ……ああ、由来の話か。別の世界から来たと豪語する人間が居てな。その世界では『金色』を意味する言葉に『アウラム』という言葉があるらしい。そこからだ。本当なのかは疑わしいがな」
真偽を確かめることすらバカバカしいと言わんばかりに話すアレン。
だが、少女には━━アウラにはとてもキラキラした話のように聞こえた。
「おし、えて」
「あ? 何をだ?」
「なんでも。どんなはなしでも」
「……まあ、構わんが……面白いかは知らんぞ」
「だいじょうぶ。ちゃんときく」
アレンは知る限りの話を始めた。
先程の自称異世界人が話した馬も無く走る鋼鉄の箱。
アレンが生きてきた中で経験したろくでもない体験。
今まで戦ってきた寝返りを打つだけで街を壊滅させられる化け物。
その全てにアウラは大仰とも言えるほどの反応を示し、目を輝かせた。
食べることすら忘れて話し続けた結果、すっかり日は沈み、辺りは暗くなっていた。
アウラは体力が限界になったのか、アレンの身体に寄りかかって眠っている。
アレンは何気なくアウラの頭を優しく撫でつける。
すると、アウラは寝ているというのにまるでわかっているかのように顔に笑みを浮かべる。
「懐かれた……ということでいいんだろうか」
些か段階を四段飛びくらいすっ飛ばしてる気もしないでもないが……悪い気分ではない。
そんな心情を浮かべながらアレンは小さく━━よくよく見ないとわからないほど━━微笑んだ。
◇ ◇ ◇
アレンがアウラを拾ってから約一年が経過した。
アレンはアウラに様々なものを与えた。
まずは衣食住を与えた。
もっとも自分にセンスがないことは自覚済みのため、服に関しては金を払ってマリエラに任せた。
次に知識を与えた。
一般常識から読み書きに算術、果ては簡単な魔物の倒し方まで。
そして活力を与えた。
アウラに向上心に似たものがあったのは認識しており、自分でやらせることで自主性を生み出した。
一人にしてから生きるのに支障が無いくらいには育て上げるから離れるつもりだった。
だがしかし、彼の中にアウラに対する愛着のようなものが湧いているのもまた事実。
どうしたものかと考え込んでいる最中、彼はそれに気がついた。
(……煙、火事か? たいして珍しくもない……いや待て、あの方向は……!)
アレンは抱えていた紙袋を投げ捨て、衝動に身を任せて走り出す。
元々大した距離もない道、アレンが全力で走れば三分と掛からず辿り着く。
しかし、彼にはその道がやけに遠いものに感じた。
気の所為であってくれ、勘違いであってくれ。
そんなアレンの心中を嘲笑うかのごとく、目の前の建物は━━アレンとアウラの居る宿屋は焼けていた。
黒く重い煙がもうもうと立ち昇り、火の粉がパチパチと舞い上がり、炎は赤く煌々と燃え上がる。
「おい兄ちゃん危ねえぞ、早く離れろ! 今自警団呼んだからそれまでは下がって……」
親切心からだろう、近くの中年の男がアレンに下がるよう叫ぶが、アレンはそれを振り払い宿屋に突撃する。
中は正に灼熱、熱せられた空気や火の粉がジリジリと皮膚を焼き、充満する煙が呼吸の度に肺を蝕む。
しかし、アレンはそれすら構わずに半ば焼け落ちた階段を駆け登る。
風の魔法を使えば一切のダメージを無視できるというのに、その時間すら惜しいと言わんばかりに彼は廊下を走る。
「アウラ!!」
アレンが叫びながら部屋のドアを蹴破る。
だが、そこにアウラの姿は無い。
逃げ出したのかと思い一瞬安堵するが、あるものを見てそんな気分は霧散した。
『ガキは預かった。返してほしければ街外れの廃教会まで来い アンドランス』
それは壁に乱雑に刻まれていた言葉。
差出人と思われる名前に彼は覚えがあった。
「アンドランス……あのゴミか」
アンドランスとは彼が数ヶ月前に依頼で潰した組織の頭目を張っていた男だった。
ストリートチルドレンや孤児院の子供を攫い趣味の悪い悪徳貴族に売り払う極悪人。
アレンが襲撃した時にはアンドランスを含めた数人の幹部は出払っていたが、組織には再起不能なまでの損害を与えたために達成扱いにされていた。
だが、奴らは各地に散っていた残党を掻き集め、アレンへの復讐を決行した。
「クソッ!!!」
アレンは文字の刻まれていた壁を蹴り壊す。
そんな物理的にも心情的にも近寄り難いアレンに話しかける者が居た。
「はあい、ご気分いかが?」
栗色の髪を揺らす妖艶な美女、マリエラである。
「……何の用だ」
「いやねえ、そんな視線は。せっかく人が協力してあげようってのに」
「……協力だと?」
「ええ」
マリエラはアレンの声に短く返答すると、持っていた煙管を吸って大きく息を吐く。
吐き出された煙はまるで意志を持っているかのように丸い円を描き、収束する。
その後に残ったのは白い煙で縁取られた人一人分ほどの大きさの楕円。
その楕円の中心は赤々とした炎が輝く壁ではなく、灰色の瓦礫の山を写していた。
「アウラちゃんが攫われている場所までの片道切符、喉から手が出るほど欲しいんじゃないかしら?」
◇ ◇ ◇
「おら起きろクソガキ!」
頬に受けた鈍い痛みでアウラは目を覚ました。
(……あ……なぐられた?)
そのことに気づくまでずいぶんと長い時間が掛かったことをアウラは自覚していた。
「はぁ~……やっと起きやがったなぁ、ガキ」
ふと声のするほうを向くと、そこには筋骨隆々な大男がいた。
身長や体格は比べるまでもなく、腕の太さがアウラの胴と同じくらいである。
アウラは一瞬顔を恐怖で歪めるが、すぐにアレンの教えを思い出して冷静さを取り戻す。
「あん? 妙に落ち着いてんな……なんなんだテメェは」
男の言葉もどこ吹く風と無視し、辺りを見回す。
人数は正確にはわからないが五〇人は超えている、辺りは瓦礫で覆い尽くされ、ホコリやチリを伴った空気が充満していた。
腕は後ろ手で縛られてる、足も同様。
そうしている内に、少しずつ攫われた時の記憶が戻り出した。
(いきなりさわがしくなって……おとながいっぱいきて……そしたらねむくなって……それから、それから……)
「無視してんじゃねえよ!」
「あ……!」
大男がアウラの腹に蹴りを打ち込む。
圧倒的な体格差による力でアウラは吹き飛ばされ、弾むように転がった。
「悲鳴もあげねえわすぐ冷静になるわ……ホントに癪に障るガキだぜ」
男はアウラの髪を掴み起き上がらせる。
短いうめき声が漏れるが、それ以上の反応を示さないアウラに更に苛立ちを募らせる。
「俺らの目的はアレン・フォードだけ、テメエはエサだ。恨むならアイツを恨めよ? アイツが居なきゃお前は無事だったんだからよぉ」
男がそういうがアウラにアレンを責めるような気持ちは欠片もない。
アウラにとってアレンは命の恩人、感謝こそすれど責めるようなことなどするはずもない。
「だが、お前はある意味幸運かもしれねえな。アレンは血も涙もない鬼だ。どうせお前だって暇潰しのおもちゃか金を作るための非常手段としか思ってねえよ」
その後男が思い出したように付け加えた言葉。
それはアウラにとって到底看過できない言葉だった。
「ちがう!」
「あん? なんだいきなり……」
「あのひとはちがう! あのひとはそんなひとじゃない!」
あの人は私を救ってくれた。
あの人は私に食べ物をくれた。
あの人は私に居場所をくれた。
あの人は私の頭を撫でてくれた。
あの人は私に一度も手をあげなかった。
舌足らずな言葉が紡ぐ少女の本音。
心中の想いを表すには少女の言葉では足りず、行き場を無くした気持ちはやがて涙となって溢れた。
「おいおい何だこりゃ……あの男は催眠までできんのか?」
男は呆れたようにぼやく。
アレンがこの少女に真剣に向き合っていたとは夢にも思わない。
しかし、アレンは自身の領域が侵害され、所有物を奪われることを酷く嫌う。
この誘拐もそれが故の行動であった。
「あーあー、興醒めだ。もういいわ……お前死ねよ」
男が渾身の力を込めて拳を振るう。
最早男に辛うじて残っていた生かしておこうという気持ちも消えている。
ありったけの力を込めた拳は少女の頭目掛けてまっすぐに突き進み━━少女に当たることは無かった。
「……は?」
呆けた男の口から言葉が漏れる。
周りに居た男達も驚愕と動揺にざわめくだけで、何が起こったのか理解できていない。
この場においてそれを正確に理解していたのはたった二人。
一人は今しがた命を救われたアウラ、もう一人は━━今しがたアウラを救った男。
「━━おにい、さん」
「待たせたな、アウラ」
男達が一斉に声のほうを振り向く。
そこには今まで囲んでいた少女を抱く一人の男の姿があった。
その姿にある者は驚き……またある者は笑う。
「そうか……テメエがアレン・フォードか!!」
アウラを殴りつけた男が叫ぶ。
だが、突如として現れたその男━━アレンはそれに耳を貸すことなくアウラに話しかける。
「すまんなアウラ、これからお前に見せられないことをする。少し眠っててくれ」
アレンはアウラの顔に手を翳す。
アウラは少しだけ目を見開くが、すぐに頭をガクリと俯かせた。
それを確認するとアレンは男達に向き直る。
「アンドランスはどれだ」
「アンドランスは俺だよ。あのアレン・フォードに覚えてもらえてるとは光栄だねえ」
「そうか……ならお前は確実に殺す」
アンドランスの皮肉った言葉を軽く受け流しながらアレンは一歩歩み寄る。
アンドランスは未だにニヤニヤとした笑みを崩さない。
「おいおい、まさか一人でこの人数を相手取ろうってのか?」
アンドランスは傲っていた。
事実アンドランスは並の相手なら片手で捻り潰せるほどの実力があり、その仲間も武闘派揃い。
ある程度の損害は覚悟しているが、何があろうとも負けることなど有り得ない。
それは人質の少女を奪い返されても同じこと。
それがアンドランスの認識だった。
だが、奴は全てを間違った。
アレンが凡百の相手だという前提も。
数が居ればアレンを封殺できるということも。
人質の少女は単なる暇潰しで拾ったものだということも。
「ぶっ殺せ野郎ど━━」
そこでアンドランスの言葉は途切れた。
声が出せなくなって視界が反転した。
何かの魔法の作用かと警戒し、戦闘の構えを取ろうとした。
だが、できなかった。
彼にはもう━━首から下がないのだから。
(……あ? 何が起きた? 身体が動かね……いや感覚が……斬られたのか? あの距離で……首を? ……有り得ねえ、有り得ねえ! 何で俺が死ななきゃ━━)
その時消えかけた視界でアレンと目があった。
この世の闇を凝縮したように黒く光の無い目。
暗闇で沈みゆく意識の中、アンドランスはようやく理解した。
自分は決して手を出してはならないものに手を出した、眠れる獅子を起こしてしまったのだと。
それはあまりにも遅過ぎる後悔だった。
◇ ◇ ◇
「いつまで見ている気だ……マリエラ」
アレンが空中に爪を立てるように手を振るう。
その手は空間そのものに切れ目を入れ、そこに隠れていたマリエラの姿をあらわにする。
「相変わらず常軌を逸した察知能力ね。一応貴方以外に見破られたことないのよ?」
「もっと改善しろとしか言えんな」
「はいはい。それより貴方これからどうする気なの?もうなあなあじゃ済まされないわよ」
何を、とは聞かない。
自分でもはっきりとわかっている。
アレンは改めて自身の腕の中で眠る少女に目を向ける。
「貴方がその子を守ったのはやがて裏社会で広がるわ。そしてアウラちゃんは貴方の弱点だと思われる。今回は相手がアレだったから良かったけど、今後はわからないわよ」
「ああ、わかってる」
「わかってるって……どうする気? 返答次第じゃ……」
マリエラはガーターに仕込んでいたナイフを抜く。
自分ではアレンに敵わないことなど百も承知、だがアレンが━━愛する男が誰かの手で殺されるくらいなら……と悲痛な覚悟を決める。
アレンが振り返る。
アレンは━━笑っていた。
「マリエラ━━情報を買いたい」
◇ ◇ ◇
「んむぅ……」
窓から差し込んだ光が目覚めの合図だった。
寝ていた少女━━アウラは布団の中でもぞもぞと動きながら目を擦るが、今までの記憶が戻ってきたことで飛び上がるように起きる。
しかし、目に映ったのは見慣れた宿屋の壁と彼女の大好きな人……ではなく、見知らぬ小綺麗な壁と修道服を着た老齢の女性の姿だった。
「ああ、やっと起きましたか。気分はどうですか?」
「……おにいさんは? おにいさんはどこ?」
アウラが真っ先に話した言葉は質問への答えではなく、自身をニ度も救ってくれた恩人のことだった。
しかし、女性は首をひねる。
「お兄さん? 貴女を連れてきたのは女性でしたよ」
「……おんなのひと?」
「ええ、栗色の髪の綺麗な人でした」
(……マリエラおねえちゃん? なんで?)
アウラの頭の中にいくつもの疑問符が浮かぶ。
ここは何なのか、なぜ自分はここに居るのか、なんで自分を連れてきた人間はアレンではなかったのか。
……もしかして自分はアレンに捨てられたのではないか?
そんな考えが頭に浮かんだが、すぐさまそれを振り払うように頭を振るう。
(おにいさんはそんなひとじゃない、だいじょうぶ、だいじょうぶ)
アレンは都合が悪くなったからといって自分を見捨てるような人間ではない。
それはアウラ自身が一番わかっていた。
「落ち着いたようですね。私はこの孤児院の院長のテレサドーラ、貴女のお名前を教えてもらえますか?」
「……なまえはアウラ、かめいは……」
無い。そう言おうとしてとっさに口を噤む。
一度アレンに家名について聞いた時のことを思い出す。
『おにいさん、かめいってなに?』
『家名か? 家名は自分の所属……言ってしまえば親が誰かというのを伝えるものだ』
『じゃあ、わたしのは?』
『あー……もしかしたら親が居るかもしれないが……まあ、必要な時に自分が名乗りたいものをつければいいさ』
アレンはそう言った。
なら、自分が名乗りたい家名とは一体何だろうか。
そんなものは悩むまでもなく決まっていた。
「……フォード。わたしはアウラ・フォード」
少女は自らに言い聞かせるように宣言した。
もしかしたら自分は捨てられていたのかもしれない。
けど、そんなことはどうだっていい。
ただ名乗りたい名前があったから名乗った。
ただそれだけのこと。
(これくらいなら……ゆるしてくれるかな?)
最強の暗殺者に救われた少女の最初で最後のわがままは━━あまりに可愛らしいものだった。
◇ ◇ ◇
「……これで良かったのよね?」
「ああ、完璧だ」
とある孤児院近くの森に二人分の人影があった。
一つは栗色の髪の女、もう一つは黒い服を纏った男である。
黒い服を着た男が踵を返す。
「もう行くの?」
「ああ、ここで長居してもどうにもならん。似つかわしくない男は消えるとするさ」
それだけを言い残して男は姿を消した。
残された女は小さく溜め息をつくと、煙管に火を付けて吸い始める。
「……バカな男」
女は煙を吐き出しながら呟く。
ゆっくりと解けながら名残惜しそうに消えていく紫煙は、まるで自分の未練がましい感情を表しているようでむず痒く感じてしまう。
「まあ、こんなことに加担している時点で私も同類かしらね」
そう言って女は自虐的に笑う。
こんな馬鹿げたことに参加するつもりはさらさらなかったし、泣きついても助けてやるものか、と笑っていた。
だが、蓋を開けてみれば彼に頼まれたことをやってしまう自分がいる。
自分でも何を馬鹿なことを、と思わなくもないが、彼に頼まれてしまうことに喜びを感じてしまう。
そのことを後悔しながらも繰り返してしまう自分に疑問を浮かべていた。
しかし、ある日それをはっきりと言語化できた、できてしまった。
━━惚れた弱みってやつかしらね
声にならない呟きは吐き出された紫煙と共に空に揺らめいて消えた。
この話を投稿する前に友人に読んでもらったところ、
「アウラちゃんは何才くらいだ?」
と言われたので
「想定としては四、五歳くらい」
と答えたら
「金髪ロリとかマジかよエッッッッッ(自主規制)」
と言われました。
反射で手が出たけど、多分これ俺悪くないですよね?




