第九話:嘘と決意
松は上半身だけを布団から起こした格好で、祇音達を迎えた。
穏やかな日差しの中で改めて見た松の顔は、祇音の記憶よりも幾分か顔色が良い。
彼女は上品でおっとりとした仕草でもって、祇音達に深々と頭を下げた。
「ほんとうになんとお礼を申し上げたら良いか……。」
懇ろに礼を述べる松。 祇音はふと、その表情に目を止めた。
ちらほらと見かけたこの村の女達が持っているのは、日に焼けた肌、豪華な気質と力強さだ。 対して松が持っているものと言えば、僅かに目を伏せている横顔から滲み出る憂いを帯びた艶やかな色気――確かにこの村の人間からすれば、このような風体の松は異質めいてみえるのかもしれない。
そんな事を思う一方で、けれど祇音がもっと気にかかったのは松から感じるある種の "違和感" であった。
余りにも漠然としていて明確な言葉では言い表せないものの、どうにも最初に出会った松と今の松とでは何かが決定的に違う気がする。
まるで面でもつけて、上辺だけを取り繕っているような――或いはただ、男の言っていた言葉に影響されてしまっているだけなのか。
男が言うような凄惨な生き方をしてきたとはとても思えぬ手弱女ぶりに、祇音は男が感じ取ったらしい何かを同様に感じることは出来なかったが、それでも拭いきれぬ違和感に呵まれながら、顔だけはにこっと愛想良く微笑んだ。
「回復されて何よりです。 もうお加減はよろしいんですか?」
「ええ、元々、あの奇妙な腫れ物以外は、悪いところなんてありませんでしたから。」
それから松は少しだけ柳眉を顰めて言った。
「夫は、あれは他人の怨念が原因だと申しておりました。 本当に――そうなのでしょうか? 私は知らぬ間にどなたかに激しく恨まれているのですか?」
松の言葉に祇音は一瞬、言葉を詰まらせた。
どのように答えたたところで、彼女の横顔を曇らせてしまう。
どうしたものかと、言い淀む祇音に、何かを勘違いをしたらしい松は 「そうなのですね。」 と顔をうつむかせた。
「祇音様。」
再び顔をあげた松は祇音の方に向き直って言った。
「これはうつる……ものなのでしょうか?」
「え?」
「病、なのでございましょう? これは。病は人に移るもの。 まして、その原因がどなた様の怨念だというなれば、これは呪い。 一族みな末代まで祟るなどという恐ろしい言葉もこの世にはあるよう。 ならば、ひょっとして夫や息子にまで、この病はうつってしまうのでしょうか?」
確かに病は、うつる。
一族に、或いは不特定多数に害をなす呪いもある。
しかし人面瘡というのは病でもなければ、呪いでもない。 人の心の膿なのである。
故にうつるはずもなければ、他者に害が及ぶこともないのだ。
「いいえ、そんなことはありません。」
取り敢えず祇音はその部分だけきっぱりと否定すると、松は少しばかり安心したように息を吐いた。
「でも、」
「でも?」
更に言葉を繋ぐ祇音を、松は不安そうな面持ちで見つめ返す。
「病は治癒したわけではございません。 一時的な処置であって、病は――人面瘡は必ず再びあらわれます。 根本的な解決をしなければ。」
「根本的な、ですか。」
松は暫く考え込むように目を伏せた。
「申し訳ないことに覚えがありませんの。」
松は言った。
「恐らく、知らぬ間にどなた様かにひどい無礼を働いてしまたのでしょう。 申し訳にないことです。 ですが、私には故意にどなたかにそのようなことをした覚えはないのです。 ですから、私を恨んでいる方がどなたなのか、それは見当もつきません。」
申し訳ございません、と松は再び深々と頭を下げた。
そんな松に慌てながら、一方で祇音はどうしたものかと頭を悩ませる。
恐らく松の言うことに、間違いはあるまい。 もし仮に彼女を恨んでいる人間が居たとしても、それは人面瘡とは全く関係がない。 あるはずがない。
人面瘡は松自身が、生み出した妖だ。
さりとて実際にどう問いただせば良いものか――改めて本人を目前にすると、考えていた以上にやりにくい。
そんな苦悩をよそに、松が更に祇音に尋ねた。
「この病、もし治らなければどうなるのでしょう?」
「それは……。」
祇音は再び返答に窮した。
まさか本人を目の前に、死にますなどと開けっぴろげに言えるはずもない。
祇音は言葉を探すように宙に視線を彷徨わせたが――
「死ぬ。」
今までずっと押し黙っていた男がなんとも簡潔で、そして何処までも無神経な一言を打ち付けに言い放った。
祇音は思わぬ事態に一瞬唖然とした後、次いで沸々とこみ上げてくる怒りのまま、男を睨み付ける。 どうしてこの男は、一々余計なことばかりを口走るのか。
祇音は隣に座っている男を咎めるように小さく険しい声を発した。
「ちょっと……!」
「なんだ。」
男はそれを意に介した様子もなく、何時も通りの抑揚のない口調で返した。
その態度が尚更に祇音を苛立たせる。
「もう少し言い方ってのがあるでしょ!」
男が鬱陶しそうに眉を顰めた――気がした。
実際は笠のせいでその表情は全く読めないのだが、恐らく間違いない。
「どういう言い方をしようが事実は変わらんだろう。 この病が治らなければ、この女は死ぬ。 そして今のままでは確実にこの女は死ぬ――違うか?」
「だからって、」
「いいえ、良いのです。 祇音様。」
松が祇音を押しとどめるようにそう言って静かに首を横に振り、そっと祇音の手に己の指先を重ねた。
「綺麗な手――祇音様はこの手で沢山の方を救っていらっしゃったんでしょうね。」
冷たい指先が祇音の手の甲を撫で、そしてそのまま手をぎゅっと握られる。
不意な行動に驚いた祇音に、松は縋るような目つきで言った。
「祇音様、どうか私のことは忘れてくださいませんか。」
「え?」
「私なぞ捨て置いて、どうか他の方をお救い頂きたいのです。」
松の言わんとしていることを理解した祇音は慌てて、首を横に振った。
「何をおっしゃってるんです。 そんなこと出来るはずがありません。」
松が悲しげに微笑む。 そうすると面に覆われているようだった彼女の顔から本来の表情が僅かに垣間見えるようで、祇音はまじまじと松の顔を見据えた。
「祇音様、これ以上あなたの手を煩わせるような価値は私には――。」
「それはあんたが言ってた 『断罪』 に関係があるのか。」
男の言葉に松は驚いたように目を見開き、そして顔を強張らせた。
また余計な口を挟んだ男に不満を感じはしたものの、祇音も長らくそれを尋ねる機を狙っていたのだ。
――今回だけは許そう。
男の振る舞いを許容した自分自身に言い訳するように心中でそう呟きながら、祇音は松の様子を窺った。
「夢を――恐ろしい夢をみたのですわ。」
「夢?」
祇音はそう言葉少なに問い返す。
松は黙って首肯しながら、恐ろしい夢の内容に思いを馳せているかのように目を伏せ、それから怯えているような震えた語調でやおら話し始めた。
「私は一人でなんだかとても暗い場所におりました。 まるで墨でも流し込んだような暗闇の中。 その奥から何かが囁くのですわ。 とても口には出来ませんような恐ろしい――そう、とても恐ろしいことを。」
「恐ろしい、こと?」
「ええ。 でもその内容はよく覚えておりません。 ただ、酷く怖くて。 だから私が祗音様方がおっしゃるような妙なことを口走っていたのなら、それはきっと夢と混乱して、寝ぼけてしまっていたからだと思いますの。」
嘘だ――と祇音は直感的に理解した。
自分を捨て置けという理由も、断罪を呟いたその理由もそれだけでは説明しきれていない。
何よりもそう語る松は、本当の松ではない。
偽物だというわけではない。
ただ彼女は本心をひた隠しにして振る舞い、松を救おうとする祇音を真実から遠ざけようとしている。
何故松がそのような嘘を吐かねばならないのか。
余程隠し通したい何かがあるのか――?
しかしそこでぴたりと祇音の思考は停滞してしまった。
まるで行き止まりに迷い込んだかのようにそれ以上前には進んでくれない。
祇音は内心、溜息を漏らした。
結局肝心な部分が分からず終いだが、さりとてこれ以上彼女を問い詰めたところで恐らくは何も得られまい。
祇音はそう判断して、一度この場を辞すことにした。
部屋を出て襖をそっと閉めようとしたとき、松がふと祇音の名を呼び止めた。
「なんでしょう?」
半分閉めた襖に手をやったまま、祇音はその隙間から顔をのぞかせた。
松はその手の中にある見覚えのある木箱を、祇音に差し出すように見せた。
「これ、落とされましたわ。」
「え?――あ、ない。」
懐の奥にしまっておいたはずの、あの黒真珠が見当たらない。
祇音は慌てて松の方に駆け寄って、その手から木箱を受け取った。
蓋をそっと開ければきちんと黒真珠がそこに鎮座している。 祇音はほっと息を吐いた。
何かの拍子の落としてしまったのだろうか? これからはもっと気をつけなければなるまいと、再び慎重な手つきで懐にそれを仕舞い込む。
それから松の方を向き直り礼を述べようと口を開くと、それを遮るように松は祇音の耳元に口をやり、小さく呟くように言った。
「どうか、どうか私は捨て置いてくださいますよう……。」
松はそう言うと、そっと祇音の顔を見て微笑んだ。
そのはっとするほど儚げな微笑みの奥底に、松の強靱な決意が見え隠れしているようで、祇音はなんの言葉を返すことも出来ないまま短い礼を述べて、部屋を出ることしか出来なかった。