第五話:原因
時刻は夕七ツ頃。 秋口とはいえ辺りは日が沈むにはまだ少し早い。
再び眠りについた松の穏やかな顔を、障子越しに差し込んだ夕日が照らした。
「本当に、本当にありがとうございます!」
その横で乙名に手を握られて、床に頭をこすりつけんとばかりに礼を言われること四半刻ばかり。
こうして喜んで貰えることは祇音としても嬉しいことではあったが、こうも重ね重ね礼を述べられると、いい加減に居心地が悪くなってくる。
祇音は助けを求めるように、少し離れたところで壁にもたれて座っている男を見やった。
笠を取った彼の髪が日の光を浴びて淡く輝いて、 整った顔立ちに愁いを帯びたような影を作りだしながら、眠るように目を伏せている男。
祇音の視線に気がついたのか、男が細い目を開けて此方を見た。
宝玉のような瞳が、祇音を射抜く――
が、それから数秒後、まるで何事もなかったかのように男は再び、視線を下げて目を閉じた。
(見なかったふり……!?)
というよりも、自分には関係がないと言わんばかりの態度か。
浮かべていた愛想笑いが、思わずぴくりと引きつる。 どちらにしても、随分と無責任な対応には違いない。
祇音の仕事において発生した問題なのだから、彼に助ける義理などないと言われてしまえばそれまでなのだが、仮にも用心棒を名乗るつもりならば手の一つぐらい差し出してくれても良いように思うのはただの甘えか――否、当然の人情だ。
やはり邪魔に感じていたのか、男が室内であっさりと深編み笠を取ってしまったせいで露わになったその異国情緒溢れる顔立ちに驚く乙名と伊作に、式――つまり人外の存在だから――と助け船を出してやったのは祇音なのに。
その恩も忘れて、と憤然としている祇音の様子に乙名は尚も気がつかず、礼を言い続ける。
祇音はついに痺れを切らして、「あの!」と声を上げて乙名の言葉を遮った。
「感謝の気持ちは良く分かりました。 けれど今の松さんの容態は、謂わば小康状態なんです。 原因を取り除かなければ、また再発します」
床に両手をつき、頭を軽くあげた状態で、はあ、と乙名はなんとも間の抜けた相づちを打った。
浮かれて事の重大性が理解出来ていないのか――祇音は内心で小さく舌打ちをしたが、傍目からはその表情を崩すことなく、出来る限り苛立ちを抑えて、更に詳細な説明を続けた。
「人面瘡は成長するに従って、喋り、食物を要求するようになってきます。その要求に応えなければ、耐えられぬような痛みに襲われ、請われるがまま食物を与えていると、段々身体は衰弱し、骨と皮ばかりに痩せこけ――、」
祇音はそこで言葉を切った。
ちらりと松の顔を一瞥し、きょとんした表情を浮かべている乙名に再び視線を合わせた後、低く押し殺した声で言う。
「死にます。」
普段ならばもう少し婉曲な物言いで事態を伝えているのだが、今の彼らにはこのくらいが丁度良いに違いない。祇音は敢えて直接的な表現を選び、彼らに危機感を抱かせるように努めた。
「し、死ぬ!?」
案の定予想だにしていなかったのだろう。 乙名が裏返ったような声で叫んだ。
少し離れたところで事の成り行きを見守っていた伊作も、驚いたように腰を浮かせていたのが目端に映り込む。
「そんな、死ぬなんて! い、一体どうすれば! 松は、松はっ!」
松の布団越しにぐっと迫ってくる顔に、祇音は思わず身を引いた。
ようやっと事態を把握してくれたことは幸いであるが、急に鬼気迫った顔を近づけられるのは地味に怖い。
祇音は今にも縋りついてきそう乙名を押しとどめながら、なんとか本題に向けて話を進めた。
「人面瘡という病は、業や怨念が原因としてあげられます。」
故に人面瘡を治すことはは下手な鬼退治やら妖怪退治やらよりも難しい。
原因は患者の中にあり、患者が自らの罪を認め、告白しなければ人面瘡が消えることはないのだ。
祇音は努めて冷静な声でゆっくりと言葉を紡いだ。
「それで――原因について何か心当たりはありませんか?」
祇音が核心に触れた途端、まるで空気が強張ったかのような一瞬の間が空いた。
その反応に何かあるのかと期待半分に乙名の様子を窺う。
しかし彼は予想に反してこれでもかと目を見開き、過剰なまでに 「そんな!」と激しく首を横に振った。
あまりの勢いに、祇音の肩が震える。
「松は決して人の恨みを買うような人間じゃない!」
予想以上の、もしくは予想外の反応。
唾を飛ばさんばかりの勢いで言い募る乙名に、祇音は再び身をぐっと後ろへと引いた。
そんな祇音の反応にもお構いなしで、乙名は勢い強く言葉を重ねる。
「確かに生まれも素性も何も分からない女で、中には口さがない連中が悪く言うこともありますけどね。 実際は至って気立ての良い女です!」
乙名のあまりの剣幕に押され、祇音は口の端を無理矢理あげたような笑みを浮かべてながら 「そう、ですか。」 と曖昧に頷いた。
憤慨したように尚も喋り続ける乙名の言葉を右から左に聞き流しながら、祇音は困ったように頬を掻いた。
(そういうことじゃ、ないんだけどなぁ――。)
聞きたかったのは 『向けられる悪意』 ではなくて、 『向ける悪意』 ――即ち、松の持つ業・恨みである。
祇音は小さく溜息を吐く。
到底そんなことを聞ける雰囲気でもあるまいし、聞いたら聞いたでこの状況では火に油を注ぐようなものだ。 とても有益な答えが返って来るとも思えない。
祇音は乙名の声量にもぴくりともせず、眠り続ける松の顔をじっと見つめた。
伏せた瞼から伸びる睫毛が血の気の失せた頬を撫で、肉厚のある唇から漏れる寝息は淑やかだ。 儚げながらも優しげな、おっとりとした雰囲気の松。彼女には業やら怨恨やらという言葉はまるで不似合いだ。
『逆恨み』 などという言葉にもあるように、松が恨まれると言うのならばまだ祇音にも納得が出来る話なのだが――その逆はどうも、しっくりこない。
彼女が何かを恨むというのも、何かしらの罪を犯しているというのも。
けれど人面瘡が彼女の腕に現れたという事実は疑うべくもなく、それが何よりも明確に彼女の中に巣くう 『負』 を示しているのだ
それに松とはたった数語、言葉を交わしただけに過ぎない。 そんな祇音が思考を巡らせて彼女のそれを推察するなど、どだい無理な話に違いなかった。
祇音はやれやれ、と疲れたように首を横に振った。 兎に角この気詰まりな空間から脱して、静かに落ち着いて考えてみよう。
そう思うやいなや、祇音は乙名に適当な言葉で取り繕い、退室しようと立ち上がった。 壁際に居た男もそれに合わせて、すっと腰を上げた。
布団の横で未だに座り込んでいる乙名を少し離れたところで見守っている伊作に、軽く会釈をしながらその場を辞する。
祇音は男がついてくるのを横目で確認しながら土間を通り、昨日と同じ祇音達にあてがわれた六畳間へと戻った。
後から入ってきた男が襖を閉めて、そこから少しばかり横にずれた壁により掛かるようにして立つ。
西日が燃えるような赤色に障子を染めていた。 段々と辺りが暗くなっていく様子を、祇音は少し開けた隙間から眺める。 入り込んできた秋風が、そうしている祇音の頬を通り過ぎるように撫でた。
「――どうするつもりだ。」
おもむろに男が口を開いた。
「は? なにがよ。」
質問の意図がつかめず、祇音は眉を顰めて男の方を振り返る。
男は細く鋭い、睨み付けるような目つきで祇音を見据えたまま、押し殺したような低い声で言った。
「あの女のことだ。」
「あの女って……ああ、松さんのこと?」
あの女扱いに顔をしかめながら、どうするもなにも、と祇音は言葉を繋いだ。
「何度も言っているけれど、取り敢えず原因を見つけないとね。」
口元に手を当てて、祇音は考え込むように視線を宙に泳がせる。
――どうしたって、気にかかるのは彼女が発したあの言葉。
(断罪、だなんて。)
断罪されるような何かを、彼女は背負っているのだろう。
乙名や伊作も知らない人には言えないような、言っていないような何かが。
そしてそれが、あの人面瘡の原因であることにほぼ間違いはないのだが――あの後すぐに乙名達が来てしまったがために、結局その意味を本人に問うことも出来ないまま、彼女は再び眠りについてしまった。
とはいえあのような言葉を口にしたのだから、促せば容易に自らの告白してくれるかもしれない。
そうなれば大した労もなく万事解決である。
原因を聞き出し、対処して――なんとか三日以内に此処を立つことが出来れば良いと、祇音は漠然と考えていた。
「つまり、お前はこのまま此処を立ち去る気はない、ということか。」
するとそんな祇音に、男が半ば呆れたような口調でそう言ってきた。
「立ち去る? なんでよ。」
そんなこと考えもしていなかった祇音は訝しげに男を見たが、彼は僅かにかぶりを振っただけで、その問い掛けに答えることせずそのまま床に座り込み、また眠るように目を伏せた。
自分で話をふっておいて、途中でその会話の続行を放棄するとはなんとも身勝手なことではあるが、それを言い始めたところで何処吹く風であることは、半日の付き合いの内で既に理解した。
癇には障るが、ある程度妥協しなければそれこそ此方の身が持たない。
祇音は改めてこの気鬱な同行者の存在を嘆くように天を仰ぎ、重々しい溜息を漏らした。
***
宵闇が迫る此方で、それは薄く微笑み、囁いた。
「さあ、我慢することなんてない。」
甘い誘惑。刹那への誘い。
抑圧された欲望の開放を囁くモノ。
――最早、償える罪などありはしなかった。