第六話:危険
山伏である鎧は無論のこと、 祇音や皇も山道を歩く足は早い。
とはいえそれは、 何度も山を上り下りする行為に体力を消耗しないというわけでもなく――必然と覚える空腹感に、 祇音はぐぅと鳴り響く腹に手を当てた。
三人分の足音と山風に擦れる木々の音、 鳥や虫の鳴き声だけではそれを隠しきることなど叶うはずがない。
当然他の二人の耳に届いたであろう音に、 くすりと笑う声が聞こえたのは前を歩く鎧からだった。
――別に今更は恥じらうつもりなかったが、 笑われたことは気に喰わない。
がしっと無言でその背中に拳を叩き込むと、 後ろを歩いている皇が呆れたように溜息を吐いた気配を感じてついでに其方も睨み付ける。
「まあでも、 祇音ちゃんの場合はお腹が空いても仕方ないかもしれないね。」
いてて、と背中をさすりながら鎧がそう言って、祇音の方を振り返った。
「どういう意味よ。」
不意を突かれた発言に、 祇音はきょとんと足を止めてしまった。
後ろを歩いていた皇もそれを予測していたかのように、 祇音とほぼ同じ拍子で歩みを止めた。
一人だけ一歩進んだ鎧が、 そんな二人を見てくすりと笑う。
「祇音ちゃんの根本はさ、 邪気を吸い取って身体の中で浄化すること――でしょ?」
「……そうよ。」
なんてことないという表情で頷きながら、 内心は胸を衝かれたような思いにざわついた。
鎧の前で力を使ったのは牛鬼が現れた夜と、 総太の両親から邪気を吸収したたったの二度だけ。
にも関わらず特に説明したわけでもない祇音の力について、 鎧はまるで全てを分かってしまったような素振りを見せている。
膨大な邪気を祓えるという事実だけではなく、 その裏側にある力の機序まで読み取っている。
別段隠しているわけでもないが――人畜無害そうな顔して、 存外油断ならない。
そう心中で呟いた祇音は思わず一歩、 鎧から退いた。
「僕ももうすぐ三十路だし亀の甲より年の功で、 祇音ちゃんみたいな力の人、 昔知り合いに居たんだけどさー。」
鎧は特に気にした様子もなく、 相変わらずへらりと無防備に笑って指を立てた。
「そういう人って無意識に身体が周りの邪気を吸収して浄化しちゃうんだって。 人や物のね。 だからその分体力を使うらしいんだけど――違った?」
「――その通りよ。 同じ事を昔、 養父に言われたわ。」
幼い頃はそのせいでまるで糸が切れたように突然倒れることもあったらしい。
養父の元で過ごし、 力を制御する術を覚えてからはそんなこともめっきり無くなったが、 それでもまだやはり無意識に多少なりとも邪気を吸収してしまう。
呼吸をするかのように、 邪気を吸って正気を吐き出す――そんな人間が祇音以外にも居たのか。
(そしてその人間と知り合いだったとはいえ、 的確に具合を言い当てられるなんて。)
嬉しそうに 「当たったね」 と笑う鎧の無邪気な表情を受け流しながら、 祇音は再び歩き出した彼との距離を保つように少しだけ歩調を落とす。
――不意に、 皇が祇音の腕を引いた。
思わぬ力の作用に濡れた落ち葉で足が滑り、 転けそうになるのを後ろ手で皇に支えられる。
体勢を整える前に何事かと振り返る。
皇は無言で祇音の背を押して、 踵だけで接していた地面に立たせるとそのまま祇音を背中へ追いやった。
「後ろを歩け。」
ちらりと振り返った皇はそれだけ言うと、 まるで何事もなかったかのようにさっさと前に行ってしまう。
何故言葉より先に手が出るのか――まるで皇の口は肝心なときに機能せず、 余計なことばかりを口走る。
そもそも何を思ってそんな指示を祇音に下したのか甚だ疑問ではあったが、 もしかしたら今のやり取りで祇音が鎧に持ち始めた警戒心を敏感に感じ取ったのかも知れない。
元々歩く順番に拘りはなく、 言われるがまま皇を挟んで鎧との距離がひらけば、 張り詰めていた緊張が僅かに和らいだ。
皇に不満を感じている割に、 確かに祇音は彼に信頼を寄せていた。
眼前にある広い背中は養父のそれとは違うのに、 何故か同じように皇ならば必ず祇音を守ってくれると――、
(違う、 違うわ。)
祇音は感情を振り払うように、 一人強く首を横に振る。
ただ祇音にとって、 皇は鎧よりも余程信用出来る人間だというだけだ。
絶対評価ではなく相対評価的な心情だ。
皇は祇音を害さない。 何故ならば祇音が彼の護衛対象だから。
その事実だけがもたらすものに、 意味を求めることがそもそも無意味だ。
悶々と己の思考に捕らわれていた祇音の耳を鋭く掠めたのは、 皇が無言で杖を茂みに突き入れた音だった。
「――こそこそ隠れないで、 出てきたらどうだ」
小僧、 と皇の声が辺りに響く。
驚いて茂みの方を窺うと丁度皇が突いた辺りから、 がさがさと荒い音に次いで何枚かの枯れ葉を髪に引っ付けた総太が渋々といった風に顔を覗かせた。
「あー!」 と鎧が大きく声を上げる。
「総太君、 また君は懲りずに山に登って……。」
「うっせ、 禿げ!」
総太に駆け寄ってその身体を抱き上げようとした手を、 総太は身を捩って避けて皇の後ろに隠れた。
子供らしい余りにも率直な罵倒に、 鎧がそのままの表情で固まる。
己の身を盾にされた皇は何も言わずに足下を見下ろし、 祇音は背後から総太の脇を掴んで抱き上げた。
「何すんだ! 離せよ、 姉ちゃん!」
「じたばたしないでよ、 餓鬼んちょ。」
子供とはいえ、 それなりに重さがある。
巷の女性よりも腕力はあるほうだと自負しているが、 それでも所詮女の力だ。 まるで掬い上げた魚のように跳ねられては、 抱える方も疲れてしまう。
「餓鬼じゃない、 総太だ!」
「あらそう。 私は祇音よ。」
総太の胸の前でがっちり腕を組み、 顔を覗き込んだ祇音に彼は気後れしたように一瞬口を閉ざした。
その隙に総太が祇音の懐刀をしっかり隠し持っていることを確認して、 祇音は満足げに笑う。
「予め言っておくけど、 逃げようとしても無駄だからね。 そこの強面――いや、 顔は見えないか――無駄にでかいお兄さんは山犬よりも早く走るんだから。 あんたなんてすぐ捕まるわよ。」
言いながら皇の方に身体を向けて、 祇音は総太を引き取るように彼に促した。
笠越しに皇の視線が厭そうに顰められた気がしたが、 構わずに総太を押しつける。
祇音の腕ではあれだけ暴れ回っていた総太もそうするとまるで、 借りてきた猫のように大人しくなるのだから本当に不思議だ。
――本能、 なのだろうかと祇音は思う。
この男は自分達を害さないと彼らは直感的に感じているのかも知れない。
事実、 皇は寄ってくる子供や動物を鬱陶しがる態度は見せても基本的に好きなようにさせておく。
構うことはしないが、 邪険にすることもしない。
ましてやそれらを踏みつけたり、 傷つけるようなこともしない――否、 寧ろ傷つけないように気を遣っている足運びすら見せることがある。
そういう皇の本質を彼らは無意識に見抜いているのかもしれなかった。
祇音は丸々とした総太の双眸を真っ直ぐに見つめて、 諭すような口振りで言った。
「鎧にも何度も言われているんでしょう? この山は今、 牛鬼が出るの。 あれは本当に怖い妖なんだから、 あんたなんて見つかったら直ぐに食べられちゃうわよ。」
「そんなの知ってるよ、 でも昼なら牛鬼は寝てるから大丈夫だもん!」
「へぇ、良く知ってるわね。」
噛みつかんばかりに語尾荒々しく言った総太に、 祇音が感心する素振りを見せる。
すると総太は 「父ちゃんが言ってた!」 と自慢げに胸を張った。
「そう。 じゃあその父ちゃんから聞いたこと無い? この山の何処かに水辺や椿が咲いているところがあるかどうか。」
煽てて調子づいたところをすかさず祇音が問い掛けると、 総太は皇の太い腕に紅葉のような手を乗せたまま、 不思議そうな目で祇音を見返した。
「なんでそんなこと聞くんだ?」
「牛鬼はね、 水辺を住処にすることが多いの。 それに椿の根が牛鬼になるっていう話もあるのよ。」
鎧がぎょっとしたような顔で祇音を見た。
そんなことまで話していいのか、 と皇も無言で問い掛けてくる気配を感じながら、 祇音は構わずに言葉を続けた。
「あんたが父ちゃんに聞いたってことは正しいわ。 牛鬼は日が昇っている間は、 力が極端に衰えるの。 だからこそ今の内に住処で寝ている牛鬼を退治してしまいたい。 分かるわね?」
「うん。」
「でも残念ながらこの広い山の何処にそんなものがあるのか、 私達には分からない。 知っているなら教えて欲しいのよ。」
子供相手だからと言って取り繕う必要はない。
養父が祇音にそうしてくれたように率直で明快な言葉を選びながら尋ねると、 総太が記憶を探るように子供らしい顰めっ面で、 んーと呻った。
「昔、 池? みたいなのがあったっていうのは聞いたことあるけど、 今はもう枯れちゃったって言ってた。」
「その場所は分かる?」
「知らない。 父ちゃんはそういう場所は土が脆くて崩れやすいから危ないって、 教えてくれなかった。」
総太の言葉に、 一瞬祇音は考え込むように目を伏せた。
(牛鬼が昔、 住処にしていたと知っていたのかもしれないわね。)
見るからに好奇心旺盛な子供である総太にそんなことをいえば、 彼はそれを見てみたいと言い出すかもしれない。
牛鬼の危険性は理解していても、 それが身に及ぶところまでは想定しきれないだろう子供を無闇に近づけたくない――その親心は祇音とて十分に理解出来た。
「良い父ちゃんを持ったのね。 分かった、 有り難う。 鎧!」
「はいはい、なんでしょ?」
鋭く叫んだ祇音の呼びかけに、 間髪入れず鎧が応答する。
「腕を私に渡して、 総太を連れて山を下りて。」
突然の指示であったが、 鎧は黙って肩をすくめて腕を入れた箱を地面に置き、 皇の腕から総太を受け取った。
大人しくしていたのがその瞬間じたばたと暴れる。
「! なんでだよ! おれも探す!」
「駄目よ。 幾ら力が弱っている牛鬼でもあんた如きの手におえるはずがない。 もしあんたに何かあったら、 あんたを守ろうとしたご両親に申し訳が立たないわ。」
祇音はにべもなく言い放ち、 難儀そうに総太を抱える鎧にさっさと行くように視線で促す。
鎧が「ひーくんにお願いした方が良さそうだけど。」と眉尻を下げたのを黙殺して、 祇音は腕の入った箱を手に取り、 踵を返した。
***
「――良かったのか?」
祇音しか居なくなったせいだろうか。 何時の間にか外していた深編み笠を片手に、 露わになった薄い唇を開いて皇が尋ねた。
横を歩く皇を見ようともせず、 足下に意識を集中させている振りをしながら祇音は問い返す。
「総太に牛鬼のことを話したこと? それとも鎧を一人にして、 あんたと二人で残ったこと? 後者なら万が一にでも鎧のところに牛鬼が現れないように、 腕を貰ったから問題ないわよ。」
「――前者だ。」
返す言葉に自然と険が色濃く滲んでしまったのは、 鎧という第三者が居なくなったせいだろうか。
鼻白んだ様子の皇が一瞬の間を空けて首を横に振るのを視界の端に認め、 少し胸がすくような気分になりながら祇音は 「良いのよ。」 と頷いた。
「自分や自分の両親を害した存在について、 正しい知識を持っておくべきだわ。」
「祇音、 お前は気がついていないかもしれないがあの子供は――、」
「分かってるわよ。 分かってて敢えて教えたの。」
祇音はそう言って、 皇の言葉を遮った。
鎧も言っていたでしょう、 と更に続ける。
「子供とはいえ一人の立派な人間――私もそれ自体には賛成よ。 あの子には知る権利がある。 子供の手にはおえない危険から遠ざける義務はあると思うから、 麓にそのまま住まわせているのは反対だけど――でも危険から遠ざけることと、 危険について教えないことは同義じゃない。」
「――あれは山で牛鬼を探しているんだ。 あの様子じゃ懲りずにまた探しに来るぞ。」
皇の懸念は確かに一理ある。
総太は牛鬼を探しに山に登っている。
子供らしい無謀さでひょっとしたら力の弱い昼間なら、 自分でも退治出来ると思っていたのかも知れない。
祇音はきっぱりと否定したが、 それを総太が何処まで信じているかは定かでない。
今まで闇雲に探していたのを、 祇音が教えた牛鬼の正体や住処を頼りに探し始めれば、 ひょっとしたら牛鬼と遭遇してしまうかもしれない。
そう言った意味では、 祇音は総太を危険に近づけてしまったのかも知れなかったが――祇音とてそんなこと考えいなかったわけではない。
「だから鎧をつけたんでしょう。」
総太が一人で山に入ってしまわないように、 見張り役として。
特別鎧にそのことを伝えはしなかったが、 彼はそれほど馬鹿じゃない。
言わずとも己の役割について正しく理解し、 了承しているはずだ。
祇音がそう言うと、 皇はあからさまに表情を歪めた。
「あの男が信用に足ると?」
「子供一人の面倒も見られないような大人じゃないでしょ。 それに万が一の手も打ってあるわ。」
万が一の手? と、 皇が訝しむように眉を寄せた。
祇音は得意げに笑いながら、 敢えてそれついて詳しく言及することはしなかった。
多少なりとも人が行き来するためだろうか。 自然と出来た山道から左に逸れるように、 祇音は枝を避ける。
――村人は知らずも猟師が知っている場所ならば、 もう少し山を分け入らねば見つからないかもしれない。
祇音を先頭に進む二人がこうして木々の向こうへと姿を消していった。