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第三話:背中

 それは、祇音がまだ養父と暮らしていた頃の話。

 当時力の加減が上手く掴めていなかった祇音は、養父の後について妖や悪霊退治に赴く度、無駄な体力を消費して、帰路につく頃にはすっかり疲れ切ってしまっていることが多かった。

 目を擦りながら眠気に耐え、よたよたと頼りない足を懸命に動かす。

 そうやって暫くしていると、祇音の歩調に合わせて隣を歩いていた養父が、必ず困ったように笑って立ち止まり、地面に膝を突くのだ。


『おぶさるかい?』


 そう言って節くれ立った手を祇音に差し出す。

 伸ばされた大きな手は幼心に至極魅力的に映りはするものの、当時から人一倍負けん気が強かった祇音は、そんな誘いに頑なに首を横に振った。


『そうか。』


 今から思えばくだらない子供の意地ではあったが、養父は一笑に付すこともせず、何時も目を細めて祇音の頭を撫でると、またゆっくりと歩き始める。

 祇音も自分でそう言った手前、必死にそれを追うのだが、やはり年端もいかぬ子供が睡魔に耐えきることなど出来るはずがない。

 暫くするとまた養父が足を止めて、同じ誘いをかけ、祇音はまたそれに首を振る。

 ――そんなやり取りを何度か繰り返すうちに、ついには祇音も我慢出来なくなって、小さな両手を養父に伸ばすのだ。

 そうして養父の大きな背に身体を預け、彼が歩く微かな揺れと温かな体温を感じながら、祇音は何時も安心しきって目を閉じた。 この背中に寄りかかっている間は、決して何事も祇音を脅かすことない。 そんな安寧をなんの対価もなく与えられる関係性を人は親子と呼ぶのだと知っていた。 

 けれど祇音は彼が養父だと知っていたから、決して父とは呼ばなかった。 父と称するべき人間は別にいて、その人間が負うべき責任を彼に押し付けるのが厭だった。 もし彼を父と呼んでしまったら、名実共に彼を本当の父の代わりにしているようで厭だった。 もし本当の父が現れたら、その時に彼との関係性が壊れてしまうようで厭だった。

 ――養父が大好きだったから。 だから祇音は何時も彼を名前で呼んだ。

 そうすることでこの関係に、養父と養女以外の何かを求めていた。 目に見えない絆を感じたかった。 血は繋がっていないけれど、心は誰よりも深く繋がっていると信じていたかった。


『……境埜きょうやさん。』


 背中におぶさりながら、祇音は何時も寝入る間際に養父の名を呟く。 そうすると彼は少し首を捻り、祇音を見て優しく笑うのだ。


『お休み、祇音。』


 無条件で与えられた愛情。 ただ共にいるだけで良いと、祇音を守り続けてくれたその背中――失ってしまった遠い記憶かこは、きっともうこの先何処にも無いのだ。



***


 祇音が目を覚ました時にまず感じたのは、夢の名残のような暖かい温度だった。 身体を預けている広い背中に既視感を覚え、まだ眠っているのかとそんな錯覚に囚われる。

 葉と土の匂いが混じって、雨上がり独特の香りが祇音の鼻孔をくすぐった。

 閉じていた瞼の隙間をぬって、山間から完全に顔を出した日が祇音の瞳を貫く。 細く目を開けると、雨に濡れた草木や地面に出来た水溜まりがその光を反射して、きらきらと輝いていた。

 ん、と寝ぼけ眼で声を上げて辺りを窺うと、隣にある鎧の顔が 「起きた?」 と緩く笑ったのが見て取れた。

 ――夢じゃ、ない。

 けれど祇音よりも大分上背があったはずの彼の顔が、何故か幾らか下に見える。

 寝起きのせいか、余り働かない頭では状況が上手く掴めずに祇音は小さく首を傾げた。


「……起きたならさっさと降りろ、山猿が。」


 すぐ前方からそんな不機嫌そうな声が聞こえた瞬間、祇音は驚いて上半身を逸らした。 目に飛び込んできた黒い僧衣に更に驚愕を重ね、太い首に回されていた腕を咄嗟に離しそうになったのを慌てて押しとどめる。

 皇に、負ぶわれている――?

 一気に覚醒した頭は、それでも事態を把握し切れない。 立ち止まった皇が身を屈め、 「さっさと降りろ。」 と促したのに従いながら、祇音は困惑の儘、皇と鎧との間に視線を彷徨わせた。


「驚いたよ。 取りあえず山を降りようって決めて小屋を出た瞬間、祇音ちゃん寝ちゃうんだもん。」


 ひーくんが支えてくれなかったら頭をぶつけるところだったよ、と最初に答えたのは鎧だった。 彼はそう言いながら、身を屈めて祇音に合わせていた視線を皇へと向ける。

 それに合わせて祇音も、おそるおそる皇の方を仰ぎ見た。

 深編み笠に覆われた顔からは一切感情を読み取ることが出来なかったが、胸の前で腕を組んだ皇の様子はどうとっても機嫌良さげとは言いかねた。

 ――えらい失態をやらかしてしまった。 祇音は内心頭を抱えた。

 確かに猛烈な眠気に襲われていたのは事実であって、それについては生理現象として致し方ない部分ではあるが、よもや山を降りるのも待たずに寝てしまっていたとは。

 鎧の言う通り、小屋を出た直後から途絶えている記憶に、祇音はなんの言い訳も出来ず、皇から視線を逸らし口篭もる。

 兎にも角にも、運んでくれたことへの礼を述べるべきなのだが、相手が皇となるとどうにも喉の辺りで言葉がつっかかる。

 もごもごと何かを言いたげにする祇音を、なんだと言わんばかりに見下ろしてきた皇の目線が、さらにそれを助長した。


「えっと……有り、難う……?」


 なんとか絞り出した言葉はそのせいで不自然に語尾が上がって、疑問系になってしまった。


「――次やったら、俵担ぎにする。」


 焦る祇音とは裏腹に、皇の方は特にそれを指摘しないまま不機嫌そうにそう言って、鼻を鳴らした。

 滲み出る怒気に祇音は二の句も告げず、全面的に自分に非がある手前、悪態もつけない。


「とか言って、 『次やったら、置いていく。』 って言わない辺り、ひーくんって祇音ちゃんに優しいよね。」


 さっさと歩き出す皇の背中に、鎧がそんな言葉を投げかけた。

 けれど皇は此方を振り向くことなく、歩みを緩めることもない。 「照れ屋なんだから。」 と続けた鎧の言葉にも何の反応もしない。

 祇音も同じように言わず、その皇の後を追った。

 皇が祇音を置いていかないのは、祇音が彼の護衛対象だからだ。 それ故に祇音の傍を離れることがない。 祇音を見捨てることはない。

 そんな無機質な契約だけが二人を繋ぐ関係性――似たような温度を持っていても、あの背中は養父とは、違う。

 不意に見せる優しさも、この黒真珠がある間だけの期限付き。

 男女の旅連れに鎧が巡らす勘ぐりは察しがつくも、それは絶対的な "否" なのだ。

 しかし、祇音は改めてそれを鎧に説明する気にもならず、濡れた泥道を雨水避けながら進んでいく。

 そうやって自分を追う祇音に皇が気が付いていないはずもなかったが、彼は振り返る素振りも見せなかった。

 祇音も無理に追いつこうとはしない。 並んで歩く必要もなければ、万が一有事があればこのくらいの距離、彼はあっと言う間に駆け抜けて祇音と敵の間に立ち塞がってみせるであろうことを知っていたからだ。

 そうやって皇が祇音を守ることが出来る範囲。 それが二人の言う "傍" なのだ。

 懐かしい記憶が掘り起こされたせいだろうか。 妙に落ち着かない気分を誤魔化すように二人の関係性を改めて考察していると、ふと前を歩く皇の足が止まった。 足下に目を向けるかのように微か前に傾いた頭を不思議に思い、祇音は小走りで彼に近づく。


「ちょっと、一体どうし――子供?」


 祇音は皇に問い掛ける語尾を有耶無耶に、直ぐに目に飛び込んできた答えに、ぱちりと大きく瞬きをした。

 衣の裾を掴み、皇の足に纏わるように立っていた子供は、齢にして七、八才ぐらいだろうか。 短い髪を頭の上で束ねているために、よく見える顔には新旧問わず様々な擦り傷や汚れがついている。 余程のやんちゃ坊主のようだ。

 祇音は腰を折って、その子供の頬につく泥を指で拭ってやった。


「あんた、この村の子?」


 にこっと笑いながら問い掛けてみると、その子供は人見知るように皇の着物に顔を押し付けた。 けれどすぐにそこから少し顔を覗かせて祇音を見上げる。 丸々とした目が祇音のそれと交わると子供は慌てて、また顔を皇の足に隠してしまう。

 おい、と短く皇が子供に言葉を投げるが、子供は気にする素振りを見せない。


「あれ、総太そうた君?」


 子供に向かってそう呼びかけたのは、祇音の後ろからのんびりと歩いてきた鎧だった。

 彼は、皇とその足にしがみつく総太とを交互に見比べると、「知り合いだった?」と状況を掴めぬまま、何故か祇音にそう問い掛けた。

 祇音はゆっくり首を横に振る。


「こいつ、何故だか知らないけれど、子供と動物には無条件で好かれるのよ。」


 皇の足から離れようとしない総太を見ながら、祇音はそう言って腰を上げ、鎧の方を見る。

 意外そうに目を丸くする鎧は何か言おうとして口を開いたが、結局言葉を飲んだ風に、緩い表情を更に緩めただけだった。

 鎧が言わんとしたことは、容易に予想が付く。 何せこういう光景に遭遇する度に、祇音が常々思っていることだ。


(一体、何を気に入っているのだろう。)


 祇音からすれば、皇の全身から滲み出る威圧感も含め、知り合いでなければ出来る限り近づきたくないと思う人種なのだが――祇音が感じ取れないような何かを、子供や動物が感じ取っているのだろうか。

 とはいえ、こればかりは幾ら考えたところで答えが出るものではない。

 祇音は早々に思考を切り替え、数歩離れた所に立つ鎧の方へ寄って行く。


「知っている子?」

「うん、この村の子でさ――ほら、牛鬼に遭遇した猟師夫婦の話をしたでしょ? その一人息子。」


 祇音に答えた鎧は、総太に聞こえないように後半部分だけ声を潜めた。

 あの夫婦には子供が居たのか。 鎧の言葉に祇音は再び総太の方へと目をやる。


「母親の方が、家の奥に隠れさせていたみたいでね。 この子だけは牛鬼の姿を見ることもなく、無事だったんだ。」


 鎧は声を落としながら、更に説明を加える。

 総太は相変わらず皇の足にしがみつくように隠れたまま、此方の様子を窺っていた。


「鎧兄ちゃん。」


 知り合いの顔を認めたせいだろうか。 総太は覗かせた顔を今度は隠すことなくそのまま鎧を見やった。

 

「おれ、見てたんだ。 この兄ちゃんと鎧兄ちゃんが一緒に山から下りてきたの。 そこの姉ちゃん、おぶって。」

「総太君、また山に行ったのかい?」


 危ないから駄目だって言っただろう、と鎧はそう言って腰を落とし、皇の足に隠れている総太の頭に手を置いた。 「子供扱いすんなよ!」 と総太はその手を重そうに持ち上げながら、期待を込めた眼差しを鎧に向ける。


「兄ちゃん達、三人で牛鬼を退治したの?」

「んーっと。」


 総太の言葉に、鎧は気まずそうに頬を掻いた。 被害者の子供を目の前に、牛鬼を取り逃がしたとは言い辛い。

 眉尻を下げた情けない表情で、鎧が助けを求めるように此方を見てくる。

 祇音としては知ったことじゃないとそんな視線、やり過ごしたいところではあったが、根本的な責任は鎧にあるとしても、今回退治に失敗したのは祇音とて同じこと。

 仕方がない――祇音は再び総太に視線を合わせると、誤魔化すような笑みを浮かべた。


「御免ね。 完全に退治するにはもうちょっと時間がかかるの。 あと少しだけ待って……、」

「なんで!? なんで退治出来てないんだよ! 早くしないと父ちゃん達、死んじゃうよ!」


 祇音が言い終わるのを待たず、総太はそう言って悲痛な叫び声を上げた。

 死んじゃう、というのは随分と穏やかではない。 そんなに二人の状態は悪いのかと眉を寄せて鎧を振り返ると、彼も戸惑ったような表情を浮かべていた。


「確かに大分気力は消耗していたけど、昨日見た限りじゃ、まだ暫くは持ちそうだったはず。」

「夜に一気に悪くなったんだ! 息も苦しそうだし、熱もすごく高くて! 父ちゃん達が死んじゃったら、おれ……!」


 総太はそう言ってボロボロと涙を零し始めた。 祇音は居たたまれずに目を逸らす。

 この戦乱の世で、親のいない子供など決して珍しくはないものの、だからといってありふれたそれが不幸でないはずがない。 

 両親を失うかもしれない現状を目の前に、恥も外聞もなくわんわんと泣く総太の姿は酷く痛々しく、祇音は養父を失ったときの自分の姿をそこに重ねてしまった。

 当然のように隣にいてくれるものと思っていたのが突然消えて、まるで世の中で自分だけが一人ぼっちになってしまったかのような感覚。

 あり触れた言い回しではあれど、きっとこの喪失感は実際に直面した人間にしか分かるまい。 あの自分自身の存在すら危ぶめるほどの感覚が、この小さな身体に降りかかっているのかと思うと、心が痛んで仕方なかった。

 総太にかける言葉に迷って、伸ばす手を躊躇していると――不意に皇が身を屈めた。 何をするつもりだろうかと訝しんだ祇音は次の瞬間、大きく目を見張った。


 彼は裾を掴んだまま泣いている総太の頭を、何も言わずに無造作に自分の着物へと押し付けたのだ。

 大丈夫などという無責任な言葉をかけるわけでも、あやすわけでもない。 恐らく総太が直面している悲しみを和らげてやろうなどとも思っていまい。

 唯、皇は総太がそこで泣くことを許した――それだけのことが今の総太にとって何よりもの救いであることは、祇音自身が良く知っていた。

 

「祇音。」


 身体を起こした皇が、首を捻って視線だけを此方に向ける。

 祇音はそれだけで彼が言わんとすることを悟って、小さく頷いた。


「――出来るかどうか確信はないわよ。」

「やるつもりがあるのかないのか、それだけ聞ければいい。」

「そんなの聞かなくたって分かるでしょ。」


 やるわよ、と祇音は力強くそう言った。

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