表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/26

第一話:牛鬼のこと

 辺りは酷い大雨だった。

 歩く度に泥が跳ねて着物の裾を黒く汚し、足袋は水分と土にまみれてすっかり肌に張り付いている。 いっそ脱いでしまいたくなるような不快感ではあるも、そんな浅慮をすれば、山道に落ちる枝や小石で足を切ってしまう羽目になるのは自明であった。

 祇音はひっそりと嘆息を漏らした。

 笠からは止めどなく流れてはなく雨雫が落ち、視界を遮る。 加えて頼みの綱であった日も地平線の向こうに沈んでしまった今となっては、運ぶ足も慎重にならざるおえない。

 この雨は、本当に想定外であった。

 山を上り始めたときにはまだ日は高く、元々旅慣れしていて足の速い祇音と歩幅の大きな皇二人ならば、日が落ちる前に容易に山越え出来るはずだったのに。

 雲一つなかった空がみるみるうちに曇天へと様変わりし、やがてぽつりぽつりと降り始めた雨は徐々に勢いを増し、止む気配を見せなかった。

 大人しく山を迂回する道を選択するべきだったとは思うが、それも後の祭り。

 秋の気まぐれな天候に翻弄されている祇音達は、食事をとることも儘ならず取りあえず前へ前へと足を運ぶしかなかった。

 月もすっかり隠れてしまっていては方角すらあやふやで、出来ることならば何処かで体を休めたかったが、それに適した場所も見あたらない。


(まあ仮にあったとしても、これじゃあ見落としているわね。)

 

 祇音はそう思いながら、ぐぅと間抜けな音を響かせた腹を押さえた。

 こういうときばかりは人よりも燃費の悪い身体がいとわしい。


「――お前の腹は、慎みというものを知らんな。」


 一歩後ろを歩く皇が呆れたようにそう言ったのが、雨音に混じって祇音の耳に届いた。 この大雨の中で、随分と耳聡みみざとい。

 祇音は足を止めて、後ろを振り返った。

 この悪天候の中では、必要以上に視界を遮る深編み笠は被れないのだろう。脇に抱えたそれ以外に代わりの笠など持ち合わせていない皇の髪は、すっかり雨に濡れてしまっているようだった。

 薄暗い周囲で猫のように鋭く光る萌葱色の瞳を、祇音は睨み付ける。


「うるっさいわね。 慎みなんてものじゃ腹は膨れないのよ。」

「……山を登る前に、餅を食っていただろう。」

「あんなものとっくに消化されたわよ!」


 そういう祇音の声は、空腹への苛立ちでやたらと荒んでしまった。

 半ば八つ当たりであることは自覚してはいても、感情が頭に追いつかない。

 ふんっと顔を背けて再び歩き始めた祇音に、皇は軽い溜息を一つ零したきり、それ以上何かを言い募ろうとはしなかった。

 

 雨足は弱まるどころか徐々に強まっているようだ。

 激しく雨に叩かれた葉が地に落ちて泥と混ざり、足下は殊更不安定になる。

 気は進まないがこの辺りの木の陰にでも隠れて、夜明けを待った方が良いかもしれない。

 再び鳴る腹の虫を宥めながら、祇音がそう思っていたときだった。


「おい。」

「何よ? 言っておくけど、またお腹のことなら……。」

「――そうじゃない。明かりが見える。」


 皇が指差した先には、確かに彼が言うとおり窓から漏れ出ているような明かりが見えた。

 足下を見ながら歩くだけで精一杯だった祇音とは違い、周囲に目を配る余裕も皇にあったらしい。

 ――耳聡い上に、目聡ざとい。

 感心や感謝を感じないわけでもなかったが、素直にそれを表すような間柄でもない。 祇音の反応はただ目先の希望に喜色の声をあげるだけに留まった。


「助かったわ! 彼処あそこに一晩、泊めて貰うわよ。」


 少なくとも屋内に入れば、気持ち悪い足袋も脱げるし、濡れた着物も乾かせる。 何よりもご飯を食べられる。

 懐に大事に油紙に包んで仕舞ってある干飯ほしいいを確かめながら、祇音は一気に機嫌を好転させた。

 進む足取りも心なしか軽くなり、 降り注ぐ雨も気にならなくなる。

 現金な祇音に心底呆れたように首を横に振っていた皇の表情すらも、だ。

 

 明かりが漏れていたのは粗末な掘っ立て小屋からだった。

 大方狩猟のために作られた小屋なのだろう。 粗雑な作りではあるが、雨風を凌ぐには十分事足りる。

 祇音は雨音に負けぬよう少し強めに戸を叩き、声を張った。


「もし、旅の者なのですが。 一晩の宿をお願いしたく……。」

「あれー、なんで人が来ちゃってるの?」


 全てを言い終える前に、がらりと戸が開く。

 間延びした声と共に中から出てきたのは、 祇音より一回りほど年上に見える男であった。

 身の丈は比較的大柄で、祇音よりも大分高いが皇には劣る。室内の光に照らされた髪色は黒檀こくたんのようにやや茶色がかり、僅かに緩く波打ちったそれが柔和な表情を縁取った。顔立ちは全体的に端正であるが、目尻の垂れた目と口角の上がった唇が親しみやすい印象を与える。

 身につけているのは、枯茶色の括袴くくりばかま篠懸すずかけ、そこから覗く薄黄の袖から伸びる手には来訪者を怪しんでか――怪しんでいる割にはあっさりと戸を開けたが――錫杖が握られていた。首から下げた結袈裟ゆいげさ法螺貝ほらがいを見れば、一見してこの男の正体が知れる。 山伏だ。

 人の良さそうな笑みを浮かべた山伏は、祇音達の姿を認めると 「まあ、取りあえずどうぞ?」 と入室を促した。

 礼を述べながら中に入る祇音に、何時の間にか深編み笠を被った皇が続く。


「娘さんと……虚無僧、だよね? こんな雨の中、山道を歩いてきたの?」


 山伏はそう言いながら、祇音達に囲炉裏の傍に座るように促した。

 入り口で足袋を脱ぎ、笠を置いた祇音は有り難くその言葉に従って腰を下ろす。


「登り始めたときは晴れていたんですけど、途中から雨に降られちゃって。」

「あー成る程。 それは大変だったね。 まあこんなところだけどゆっくりしていってよ。 あ、そっちの虚無僧さんも笠を脱いだら? 鬱陶しくない?」


 へらり、と気の抜けた笑顔を山伏が浮かべる。

 祇音の横に腰を下ろした皇は、彼の言葉に無言で首を横に振った。


「そう? まあ、顔を見せたくないって人もいるからね。 無理強いはしないけど、脱ぎたくなったら何時でも脱いで。 あ、そうそう。もうすぐ雑炊出来るけど、食べる?」

「頂きます。」


 即答した祇音の言葉を後押しするように、腹の虫が鳴く。

 山伏はそんな祇音に呆れるでも笑うでもなく、ただ穏やかに 「こんな雨の中じゃあ、お腹空くよね。」 微笑んだ。

 同行者とはえらい違いに、祇音はちらりと皇の方を見やるが、彼は素知らぬ様子で囲炉裏の炎を見つめていた。

 ぱちり、と燃やしている木がぜる音と、鍋をかき回す玉杓子たまじゃくしの音が混じり合う。

 山伏はがい、と名乗った。

 

「しかしまあ、 ゆっくりしていってとは言ったものの、実は此処少し危ないんだよね。」


 鎧がよそってくれた雑炊をかき込んでいると、彼は暫くして祇音達にそう言った。

 室内に響く彼の声は至ってのんびりとした調子で、 危ないという割に険しさに欠ける。

 加えてその表情も終始穏やかなのだから、祇音は余り危機感を感じられないまま、雑炊を運ぶ手を休めることはしなかった。


「……というと?」


 雑炊で口をいっぱいにしていた祇音に代わって、横で差し出された器にも手をつけず、黙って鎧の様子を窺い見ていた皇が低い声で尋ねた。

 鎧は、んーと声を漏らして口に含んでいたものを嚥下すると、手に持っていた箸で戸の方を指し示す。

 祇音は目だけを動かして彼の行動を追った。


「この山に牛鬼ぎゅうきが出るって言う話、知ってる?」

「――牛鬼?」


 南蛮人の皇には聞き慣れない妖なのだろう。 訝しむような声に、祇音はそこでようやっと器を置いた。 中はもうほとんど空だ。


「牛鬼とは、頭が牛、そこから下は鬼の体を持つと言われる妖よ。 毒を吐き、人を食い殺すことを好むとされる獰猛な性格で、どちらかといえば海や河なんかの水場に現れることが多いんだけど、まあ山間部でも時々現れるという話を聞くから一概にはそうとも言い切れないわね。」


 淀みなく言葉を繋ぐ祇音に、鎧が感心したような声を上げる。


「よく知ってるね。」

「それが仕事ですから。」


 祇音が何のことはないという風に言うと、彼は殊更驚いたような表情を浮かべた。


「祇音って名乗ったときにまさかとは思ったけど、ひょっとして君が『拝み屋 祇音』かい?」

「ええ、まあ。」


 祇音の名はそれなりに知れ渡っているのだから、鎧のような反応もさほど物珍しくない。

 さしたる感慨もなく頷く祇音に、鎧は驚愕をそのままに皇の方へと視線を移した。


「へぇ! じゃあ君が最近、連れて歩き始めたという奇妙な虚無僧が……ひーくんかぁ。」

「……その珍妙な呼び方は、俺のことか?」


 ひーくん、と呼ばれた皇が不機嫌そうな低い声で尋ねると、鎧が「そうだよ。」と笑った。


飛端皇ひたんこうって言うんでしょ? だからひーくん。 あんまり呼ばれない?」

「……呼ばれん。」

「あ、そう? まあいいや。 それでその牛鬼のことなんだけど――そうだ、祇音ちゃん。此処で会ったのも何かの縁だし、もし良ければ僕の仕事を手伝ってくれないかな? ちゃんと報酬も払うからさ。」

「それは構いませんけど。」


 祇音は何とも言えない威圧感が漂わせている皇を横目でちらりと窺いながら、飄然ひょうぜんとした鎧の言葉に頷いた。

 恐らく牛鬼絡みの仕事であろうことは先の言葉から容易に想像つくも、だからといって別段恐れることはなかった。

 牛鬼ならば以前に一度、退治したことがある。

 それにそろそろ路銀の補充をしたかった頃合いだったので、 報酬も貰えるというならば断る理由など何処にもない。

 祇音の快諾に、鎧はほっとしたように溜息を漏らした。


「良かった、良かった。 実は僕、この山の牛鬼退治を麓の村から依頼されたんだけど、ちょっとやらかしちゃってさ。」

「やらかした?」


 面目ないと言わんばかりに頬を掻く鎧に、祇音は首を傾げて言葉を繰り返す。

 鎧はそこで、のべつ変わらぬ調子だった声色を少し落とした。


「いやあ実は……失敗しちゃったんだ。 牛鬼退治。 腕はもぎ取ったんだけど、手負いの儘、逃がしちゃった。」

「は!? 牛鬼退治に失敗した!?」


 あっけらかんと告げられた事実に、祇音は思わず驚愕して立ち上がった。 横で皇が何事かと此方を見上げくるが、そんなものを気にしている余裕など無い。

 牛鬼というのはそれだけでも力の強い妖であるが、こと祟りとなるとその力はより一層強くなる。あれは決して、自分に刃向かったものを許す類ではないのである。故に牛鬼を退治するときは一撃で仕留めることが原則であり、それに失敗したとあれば、話は格段難儀なものになっていくのだ。

 その事実を認識しているのかしていないのか、鎧はのんびりと雑炊をずずずっと啜るとゆっくりと立ち上がって、後ろに置いてある細長い木箱の蓋を開けた。


「そんなこんなで、牛鬼の腕は今此処にありまーす。」


 朱色の腕は祇音の足ほどはあろうかという長さ。 皮膚はなく、肉が剥き出しになっているそれは歪で不気味だ。続く手も同様に、黄色くくすんだ爪が長く鋭利に伸びて、時折ぴくりと動く。

 このような不気味な腕は見たことがある。 間違いなく牛鬼のそれだ。

 思わず一歩退いてしまった祇音の様子に、鎧は早々に木箱の蓋を閉める。

 よく見ると箱には、封印の札が貼られているようだった。


「もれなく牛鬼につけ狙われることになった僕は、まさか村人を巻き込んじゃうわけにもいかないということで、この山の小屋を拝借して、牛鬼をおびき出そうとしているんだ。」

「――成る程、それで危ないという訳か。」


 事の重大性を理解し切れていないのか、牛鬼の性質を知らぬ皇の冷静な声が室内に響く。

 祇音は怒鳴り散らしたい衝動を必死に抑えて、鎧に問うた。


「貴方、牛鬼を倒す算段はあるの?」


 最早年上に払うべき礼節など捨て置いて、祇音の口調は随分とぞんざいになる。


「まあ、それは……出たとこ勝負かなぁ。」


 はは、と軽く笑う鎧に僅かな頭痛を感じた祇音は頭を抑えて、その場に座り込んだ。

 とんでもない後出しだ。 その情報があれば、幾ら祇音とて快諾はしなかった。

 或いは鎧もそうと知って、最初に言わなかったのかも知れない――祇音は人畜無害を装っている鎧を、じと目で見上げた。


「祇音ちゃん、そんな目で見ないでよ。 僕もね、流石に責任を感じて、僕が牛鬼を倒すまでは麓の村々に山に近づかないように言っておいて貰ったんだけど……いやぁ、伝達漏れがあったみたいだね。」

「……心底、山を迂回すれば良かったと後悔してるわ。」

「あはは。 まあ今晩、牛鬼が出なかったらそのまま山を下りて帰ってくれていいからさ。」

「出るぞ。」


 楽観的に笑う鎧の言葉を、皇がゆっくりと首を横に振り否定した。


「その腕と――何よりも、俺達が此処にいる。」


 皇の言葉に、鎧がきょとんと首を傾げた。

 祇音だけはその意味を正しく理解し、重々しい溜息を吐く。


 そう、祇音達が此処に居るということ――それが何よりもの問題だった。

 祇音は首から下げて懐にしまってある箱の存在を思い返す。

 箱自体にも、そしてそれを仕舞う袋にも強い呪が施してあるにも関わらず、その中に収められている黒真珠は何故か強く魔を誘う。

 香りのようなものを放っているのだと、ある者は言っていた。 強く魔を誘うその香りは、どうやら力の強い者にほど強く匂うらしい。

 牛鬼ほどの強い妖となればその効果は言うまでもなく、そう考えればあのまま山を歩き続けても牛鬼と遭遇してしまっていたかもしれないのだから、無償で牛鬼退治をしなければならなかったことを考えれば、報酬を貰えるだけ吉と思うべきか。

 どちらにしても、気が滅入る。


(ほんと、山を迂回するべきだったわ……。)


 本日何度目かも分からぬ後悔に、祇音はしゅんと肩を落とした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ