第十九話:百々目鬼騒動、終結
松が目覚めたのは、祇音が再び眠り始めてから二刻半ほど経った頃であった。
伊作から知らせを受けたらしい皇が祇音を起こし、それから手早く身支度を済ませて松達が待つ部屋を尋ねたときには、室内は既に夜の色濃い夕闇に染め上げられていた。
「――祇音様。」
松は布団の上に半身を起こし、現れた祇音の名を力無く呼んだ。 夜の帷が運ぶ冷気にあてられたせいか、その白い頬はより一層血の気を失い、痛々しい。
右横に並んで座る乙名と伊作を見ると、彼らは随分と固い表情をしていた。
二人は何処まで知っているのだろう――既に萌葱に戻っている瞳を見上げると、皇は祇音の視線を受けて僅かに首を横に振った。
何も言っていないという意味合いであろう。
さりとて祇音と松が揃って気を失って運ばれてくれば、ただならぬ事態が生じたことは容易に想像がつくか。
祇音はゆっくりと松の方に近づいて、出来る限り穏やかな表情を浮かべた。
「気分は、悪くありませんか?」
松の表情を覗き込むようにして尋ねると、彼女は無言で小さく首を横に振った。
良かった、と微笑んでその場に座り込む。
松は祇音の方を改めて見やって、深々と頭を下げた。
「……ご迷惑をお掛けいたしました。」
「いえ、仕事ですから。」
祇音の言葉に、頭を上げた松が淡く微笑む。
誰も何も言わぬまま、まるで黙ってお互いの動向を見守っているような、そんな重苦しい沈黙が室内に満ちた。
皇は自分に関係ないと言わんばかりに祇音の横で眠るように目を伏せているし、 乙名はずっと下を向いたまま、伊作にいたっては落ち着く無く、松と祇音の間を不安げに視線を行き来させている。
顔を俯かせている松の横顔を、祇音は何も言わずに見守った。
彼女が何を何処まで覚えているのかまでは分からぬも、その物憂げな様子から見るに百々目鬼になった最中の記憶が全く無い、というわけではないようだ。
松の乾いた唇が僅かに開かれてはまた結ばれる。 そんなことを数度繰り返している間にも、部屋には徐々に夜が満ちていくようだった。
「――つまらぬ身の上話でございますが、お聞きいただけますか?」
やがて、口火を切ったのは松は決意を固めたような表情で此方を見上げた。
その弱々しい外見とは反して、毅然とした松の瞳と視線を交わしながら、祇音は優しく頷いた。
「お話いただけるんでしたら。」
そう言って居住まいを正すと、松は微かに頷いて、静かな声でゆっくりと彼女自身を語り始めた。
「私は根っからの盗人でございます。 故郷をその罪で追われ、巡り巡ってこの村へとたどり着きました。この村に居着いたのは人の行き来の少ない此処でなら、誰にも過去を知られることなく、ひょっとして新たな人生をやり直すことが出来るかもしれないと浅ましくもそう思ったからでございます。」
松はそう言うと、乙名と伊作とを見やって、そこはかとなく泣きそうな表情を浮かべた。
彼らは何一つ言わなかった。
言えなかったのかも知れないし、何を言ったら良いのか分からなかったのかも知れない。
言葉を失い茫然とする伊作に対して、沈鬱な表情を浮かべる乙名。
乙名の拳がぎゅっと耐えるように握られたのが、祇音は視界の端に映り込んだ。
「盗癖、というのは罪を重ねるにつれて段々と身に染みこんでいくものでございます。昔から盗むことばかりを生業としていた私の身も当然、決して拭いきれぬほどに深く濃く、その癖が染みついておりました。暫くはそれでも我慢することが出来ました。 何も知らぬ彼らの優しさが私を戒めてくれました。けれど――それも、やはり一時のことでございました。」
枷が外れたのは突然だったと松は言う。
田植えに勤しんでいる誰もが注意を向けないまま放置されている、手拭いをみて猛烈に盗んでみたくなったのだと。
「この村の方々に恨みがあったわけではございません。 冷たくされるのは当然のことと思っておりました。 困らせたいと思ったのではなく、ただ本当に盗みたかった。 盗みが成功した時のあの高揚感を忘れられなかった――私は性根からどうしようもない、女なのです。」
一度盗んでしまえば、止めることなど出来なくなった。
盗んで盗んで、盗み続けて――そして、身体に一つの目ができた。
祇音は何も言わないまま黙って、彼女の話に耳を傾けた。
「この盗癖のせいだということは直ぐに分かりました。 それでも私はやはり、盗むことを止められなかった。」
一つだった目が二つになり、二つだった目の下にもう一つの目が出来そうになった頃には、松の身体はその目にすっかり体力を奪われて、立つことすらままならなくなった。
松はそう言って、自分の右腕を見下ろした。
「それから暫くして……夢の中で声がし始めました。 あまり聞き覚えのない、高い声。 その声が私に言うので御座います。欲望を我慢することなどない、盗みたいものがあるなら盗めばいいと――私は愚かにもその言葉に甘えてしまいました。 祇音様にお会いしたとき、私は落とされたと言って箱をお渡ししたのを覚えていらっしゃいますか?」
「あれも、貴方が私の懐から盗まれたんですね。」
「はい。 あの奇妙な声が、私にその箱の事を教えたのです。 そしてそのことを知ると、何故か私はどうしてもあの箱の中身が欲しくて堪らなくなってしまった。 あの時は直ぐに我に返って、祇音様にお品をお返しすることができましたが……。」
奇妙な声とやらは恐らく鵺のことに違いなかった。
申し訳ございませんでした、と頭を下げる松を、祇音は首を横に振って押しとどめる。
その件に関して言うならば、どちらかといえば松は被害者で、巻き込んだのは祇音達の方だ。
――とはいえそれを、松に打ち明けるつもりはない。
中途半端に事情を知ったせいで彼女達に万が一にでも迷惑がかかればそれこそ申し訳が立たないし、秘密の共有はなるだけ少人数で済ませておいたほうがいいという打算もあった。
微かに感じる罪悪感を誤魔化すように祇音が再度、気にしなくて良いと念を押すと、松はすまなそうな表情を浮かべながら、白い袖に隠れた右腕に視線を落とした。
「この腕にあったのは、人面瘡ではなく、百々目鬼……と言うのですね。」
その言葉に祇音は、松が何から何まで覚えていることを悟った。
松はそんな祇音の表情を見て、儚げに笑った。
「祇音様がそうおっしゃっていたのを、うっすらと覚えております。 その後は直ぐに、訳が分からなくなってしまいましたけれど。」
でも確かにあと一つだけ覚えていることがございます、と松はそう言いながら、左手で強く右腕を掴んだ。
「百々目鬼は盗癖のある人間に取り憑く妖怪――あれは、確かに私自身の罪だった。」
「……ええ、その通りです。」
「それでも貴方は私をお救いになった。 自業自得と捨て置いて、殺してくだされば良かったのに――貴方は私を断罪しては下さらなかった。」
松がそう言って目を伏せたのに、祇音は少しだけ眉を寄せて苦笑を浮かべた。
「罰せられたかったのですか?」
「そうされなければならないのです。」
「死をもって償いたかった?」
「それ以外にこの罪をどうすれば? 私は物を盗み、私を愛してくれた人々を騙した。 他に、どうすれば許されると?」
そう言って俯いている松の頬を伝って、ぽつりぽつりと静かに雫が落ちていく。 嗚咽をあげるわけでもない。 ただ涙だけが、止めどなく布団に染みこんで跡を残す。
きっと苦しくて苦しくて仕方がないのだろう、と祇音は思う。
松の盗癖が生まれ持っても悪癖なのか、或いは彼女の弱さなのか。 どちらにしても止めたいのに止められない歯痒さは、自責の念となって彼女を責め立て続けているのだ。
そのあまりの痛々しさに、祇音は、松の脆く細い身体に負わそうとしている荷の重さに逡巡して、二の句をためらった。
「……許されることなど望まず、背負ってそれでも生き続けることで。」
それでもなんとか絞り出した声は、室内の静寂に落ちては重く響いた。
一度口をついてしまえば、後の言葉は自然と淀みなく繋がっていく。
「死ぬことは簡単です。 今この場で喉を突いて、死んでしまうことだって出来る。 けれどそれで何が救われるのでしょう。 誰が報われるのでしょう?――少なくともそこのお二人は、そんなこと望んでいない。」
祇音はそう言って、乙名と伊作の方へと視線を運ぶ。
確かめるまでもなかった。 彼らがどれ程松を大事に思っていたかなど、ほんの僅か時を共にするだけで十二分に伝わってくる。
ふらりと現れた部外者ですら容易にそれを察することが出来るのに、松が気付かなかったのは、彼女の負い目のせいなのか。
ただ黙って何度も強く頷く乙名の横で、伊作はくしゃりと顔を歪めると、その場で祇音達の方に向かって両手をついて頭を下げた。
「祇音様! このようなことを申し上げるのは甚だ心得違いと知った上でのお願いで御座います! どうか――松の……母の罪を、そのお心に留めておくだけにしていただけないでしょうか!」
「い、さく……。」
土下座をして祇音達にそう頼み込む伊作に、松は狼狽したように彼の名を呼んだ。
伊作は僅かに頭を上げ、涙であふれかえった瞳を松に向けながら更に言葉を繋ぐ。
「松は母です。 血の繋がりのない継母と継子ではございます。 けれど実の親子となんら遜色ない温かな愛情を注いでくれた――大事な、母なのでございます。
犯した罪は、きちんと親子三人で償っていきます。 神仏に誓って、必ずお約束いたします! だからどうか……どうか……!」
その後は嗚咽に混じって言葉にならないようであった。
祇音はそんな伊作からゆっくりと横の乙名へ、それから松の方を見やる。
茫然と伊作の様子を見ていた松は、彼と同じように濡れた瞳を大きく開きながら、唇を震わせた。
祇音はふっと表情を緩めた。
「――私が受けたご依頼は、松さんのご病気治癒の祈祷のみで、この村の盗難事件の下手人をあげろなどという依頼を受けた覚えはありません。」
「祇音様……。」
松の顔に幾筋もの涙が流れているのをそっと、指で拭う。
それから祇音は布団に置かれた松の右腕に片手を置いて、こう言った。
「身体を巣くった邪気は完全に取り除くことは出来ましたが、松さんの右腕は邪気に晒されていた時間が長すぎたようです。 最早、この腕は指先一つ動くことはないでしょう。 そして貴方は動かぬ腕を見る度にきっと自分の犯した過ちを思い出す――どうか、そうして生き続けてください。」
ずっと黙りこくっていた皇が、そこでちらりと祇音を見やった。
祇音がその視線に横目だけで答えると、彼はやがて短い嘆息を漏らし、やれやれと言わんばかりに首を横に振った。
以上が、百々目鬼騒動の顛末である。
***
これはささやかなる蛇足。
祇音と皇は翌日、朝日が昇るのを待って早々に村を後にした。
まだ冷え冷えとした夜の空気を残し、微かな霧すら立ちこめる道を進んでいく中、皇がおもむろに口を開いた。
「盗難事件の下手人があの女ということは理解したが、 盗まれたものを返したのもあの女だったのか?」
祇音は「ああ。」と声を漏らして、あっさりと首を左右に振った。
「あれは乙名さん。 あの人は多分、松さんが村人のものを盗んでいることを知ってて、こっそりそれを持ち主に返してたのよ。」
「あの翁が?」
「そ。 だってあの人、松さんが盗難事件の下手人だって私が言ったときも驚いた様子はみせなかったでしょ。
それに松さんは悪くないって言いながら、一度も松さんが犯人じゃないって言わなかったもの。 」
盗難騒動のことで松が疑われていることを乙名が知らぬはずもなく、 それで松が村人から恨みや憎しみを向けられていることも知っていたはずだった。
しかし人面瘡の件で祇音がそのことを尋ねたとき、彼は大げさまでにそれを否定し、騒動のことを口にしようともしなかった。
仮に彼が松を犯人だと思っていなかったのならば、敢えて隠す理由もなく、寧ろそのことで不当な恨みを買っていると祇音に告げたはずだ。
乙名は言っていた。
悪いのは自分なのだと。 この村なのだと。
彼は松が村人の物を盗んでいるのを見て、彼らの仕打ちが松にそのような行動を取らせたのだと思ったのだろうか。
だから松をこの村へ縛り付けていた罪悪感のために、彼女を庇ったのだろうか。
祇音には乙名の推測が、当たっていたとも外れていたとも断言することは出来なかった。
松の言によれば、盗んだのは彼女自身の盗癖のためだったとも言う。 冷たい村人への恨みなど何一つなかったと言う。
けれど同時に松は、彼女を暖かく迎え入れた乙名達からは何一つ盗んでいなかった。
何が真実であるのか、或いはそれは本人達にすら明らかに出来ぬことなのかもしれない。
しかし祇音にとっては別段それはどうということはない。
ただ、彼らはこれからもあの小さな村で生き続けるだろう――その事実だけで、十分だ。
「あともう一つ、気になることがある。」
「ん? 何よ。」
まだ何か明らかになっていないことがあっただろうか。
一歩前を歩く祇音は皇の言葉に足を止め、不思議そうに後ろに首を捻って彼を見上げた。
「――お前、あのとき呪いをかけていなかったか?」
「…………やっぱり気がついてた?」
皇の言葉に祇音が笑みを引き攣らす。
「当然だ。」と漏らす皇の表情は、深編み笠のせいで確認は出来ぬも、大方あのときのような呆れきった顔をしているに違いなかった。
祇音は、少し気まずそうに頬を掻いた。
「しょうがないじゃない。 松さんの盗癖そのものを無くすことなんて出来ないもの。 でも利き腕が使えなくなったら盗み辛くなるでしょう? 癖なんて類のものになると中々直すのは大変だけど、多少は助けになるかなぁって。」
「だから腕が動かなくなるように呪いをかけたと?」
「まあね。」
「理解に苦しむな。 あの女に其処までしてやる義理なんてないだろう。」
そこで祇音は一瞬、言葉を詰まらせた。
「……別にあの人に対する義理じゃないわよ。」
「じゃあなんだ?」
「教えない。」
「は?」
「教えません。 黙秘します。」
祇音はそう言うと、さっと皇から顔を背け、止めていた歩を再開した。
ぐんぐんと大股で進んでいく祇音に、皇は一瞬訝しむ気配を見せたが、祇音は彼がなんと言おうと、その疑問に答えてやるつもりなどなかった。
――百々目鬼になった松と対峙していたとき、 皇は祇音の望んだ通りに松を殺さずにいてくれた。
生きていれば救えるかもしれないと言った祇音の言葉を、彼がどれほど信じていたかは分からない。
けれど、恐らくは造作もなく倒せたであろう百々目鬼を、皇は祇音を守りながら生かし続けた。
「……そんなあんたへの義理に決まってるじゃない。」
そう、祇音が小さく零した声は、駆け抜ける涼風に攫われていった。
***
これはさらなる蛇足。
「久しぶりだね。」
地平線の向こうから迫ってきた宵闇で埋め尽くされた山中では、空から差し込む月明かりすらも足下を照らすには余りにも心許なく、人の目では到底歩き回ることも出来ないはずの其処に、何故か一人の女が立っていた。
其処には女以外誰一人の物影もなく、女が粛々とした空気を震わせて言った台詞はどうやら眼前にそびえる様に枝を伸ばした神木に向けたらしかった。
「何年ぶり、否――何百年振りになるかの。」
風に吹かれて擦れる木々の音のような声が、女にそう尋ねる。
「そこまでご無沙汰した覚えはないけどね。 こんな山中にずっと引っ込んでいると時間感覚まで狂うのかい?」
「さてな――それにしても、あれで本当に良かったのじゃな?」
女がその言葉にこくりと頷くと、それに併せて微かな衣擦れの音が辺りに響いた。
「お前も中々厭な女じゃ――力を貸すな、などと。 我は別段、あの娘を助けてやっても構わぬと思っていたのに。」
「獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすって言うだろう?」
「お前は獅子ではなく、蝶のはずじゃが?」
胡蝶、とその声が女の名を呼んだ。
月影の一部を遮っていた雲が外れ、それにつれて一瞬勢いを強めた光が枝葉の隙間を縫って女の横顔を照らす。
巫女装束を身に纏い、闇の溶け込みながらも決して呑まれぬ存在感をそのままに、胡蝶は祇音と居た時よりも、ずっと胡乱な笑みを浮かべていた。
「はは、じゃあ蝶は自分の子供をどうやって育てるのだろうね。」
「あれらは放任主義じゃ。 卵を産んで、あとは自力で育てが信条じゃろう。」
「それは難しそうだ。」
胡蝶はそう言って声を上げて笑ったのに混じって、「だろうな。」と呆れを滲ませた声が響く。
「まあどちらにしても、祇音を助けることは同時に、あの哀れな百々目鬼を助けることになる――それは君だって厭がるんじゃあないかと思ったけど?」
仮にも神に捧げられたはずの穀物を横からかすめ取った女の末路を、"哀れ"と評しながらも、語る胡蝶の声色には憐憫の情一つも滲まない。
「我はそう了見の狭い質ではあらぬ。」
心外そうに、大きく枝が揺れる。
胡蝶は「そうだったかい?」と態とらしく首を傾げた。
「確か以前に、村の人間が穀物の代わりに永楽通宝を君に捧げた時なんかは、激怒していたじゃあないか。」
地を揺らし、土を流して、言葉に出来ぬ怒りを必死に訴えようとしていた神と人を、その時、繋いだのが胡蝶であった。
当時を思い出して笑みを深めた胡蝶に、 声の主は鼻を鳴らした。
「当然じゃ。 我は神ぞ。 そんな我に人間の通貨を捧げるなど、全くもって物事を理解しておらん。 我にそれを持って市に買い出しにでも行けとな?」
「行けばいいじゃあないか、良い社会勉強になるよ。」
そう言った胡蝶の言葉など取るに足らんと言わんばかりに声はもう一度ふん、と鼻を鳴らして、話題を本筋へと戻す。
「あれのしでかした事は重罪じゃ。 しかし、あれも此の地に住まう我の子。 親ならば子の過ちに命をもって贖えとは言わん。」
「しかし、罪は償わなければならない。 甘い顔をしてつけ上がらせるのは良い教育方針とは思えないけれどね?」
「是。 しかし、罰は既に与えられた。 それに――最後、我の供物を盗むよう唆したのは、お前であろう?」
咎めるように神木が言う。
胡蝶は少しだけ驚いた素振りを見せた後、ちろりと舌を出して、肩をすくめた。
「ばれてたか。 仕方ないだろう? あの松という女性の罪悪感をこれ以上なく膨れあがらせて、さっさと百々目鬼にするためには、あれくらいのものを盗ませないといけなかったんだ。」
悪びれもなくそう言った胡蝶の表情は、すっかり闇に溶けて傍目から窺い知ることは叶わない。
しかし彼女の目の前にある神木は、何かを感じ取ったかのように枝を揺らして、「厭な女じゃ。」と先の言葉を繰り返した。
「そうでもないさ。 彼女にとってもあれが一番だったと思うよ? あのままでも遅かれ速かれ、いずれは完全に百々目鬼になってしまっていただろうし。 それを私がわざわざこの神域に誘導して、その姿が村人の目に触れることがないようにしてあげたんだ。」
「それは後付けであろう。 お前は、この場所の方が自分の思惑通りに進むと思っただけじゃ。」
鋭く指摘する声に、胡蝶は否を唱えようとはしなかった。
「人目があったら、皇は祇音の血を吸おうとはしなかっただろうからね。」
「それに如何ほどの意味がある。」
「貴殿が思っている以上に。」
「全てはお前の思惑通り、というわけか。」
風が強く木々の間を吹き抜けた音は、何かを哀れむように、高く悲しげに周囲を走る。
胡蝶は其処で初めて、口元の微笑みを消し去り、何かに思いを巡らすかのように遠い目をして、空を見上げた。
「違うよ――私の思惑など容易に飛び越えて欲しいから、あの二人を選んだんだ。」
そう言い落とすと胡蝶は、踵を返して神木に背を向けた。
「それじゃあ、また何時か―― 縁が結ばれたら。」
後ろを向いたまま、ひらりと手を揺らした胡蝶の背を風が押す。
やがて宵闇の中に溶け込むようにその姿は消えていき、微かに残った沈香の香りだけが別れを惜しむように大樹の幹を撫でた。
【第一部:百々目鬼騒動 完】