第十八話:男の正体
力を使い過ぎて倒れてしまった後、決まってみる夢がある。
それは目覚めれば内容など忘れてしまって、ただ厭な夢を見たという痕跡しか残っていない。
けれど一度その夢を見始めると、「ああ、またか」と眠っていた記憶が呼び起こされるのだ。
夢の中で、祇音は決まって年端もいかぬ子供の姿をしていた。
辺りは伸ばした手すら見えるか怪しいほどの暗闇で、幾ら経ってもその闇に目が慣れることがない。
動くこともままならず、そうして暫く其処に座っていると、不意に黒から白い何かがにゅっと飛び出してくるのだ。
それは真っ白な女性の手だった。
手の持ち主の姿も顔も見えぬのにどうしてそれが女性の手と分かるのかといえば、その指は長くてほっそりとして、まるで大事に育てられた姫君のものを思わせたからだ。
――否、それは後付けだ。 祇音はその手を見た瞬間、これが女性のものであるということを何故か知っていたのだ。
『御免ね。』
と、その手が泣き出しそうな声と共に祇音をぎゅっと抱きしめる。
それから何度も御免ね、と繰り返される謝罪は、祇音が何を言っても止むことはない。
この手の主はきっとさめざめと涙を流しているに違いない。
そう思うとたまらなく悲しくて仕方がなかった。
それからは目覚めるまで、ひたすら彼女の謝罪を聞き続ける。
彼女の手は何度も何度も頭を撫でて、時々ぎゅっと祇音を強く抱きしめる。
一体彼女は誰なのだろうか――?
何時も目覚めたら養父に尋ねたいと思っていたのに、目覚めたら忘れてしまうのだからずっと聞けず仕舞いだった。
そして、その養父さえ死んでしまった今となっては、きっと彼女の正体は永久に分からないままに違いなかった。
***
目覚めたとき、一番最初に見えたのは天井の木目だった。
それからゆっくりと左右に首を動かして、周囲の状況を確認すると何故か深編み笠を被ったままの皇が左側にある襖の前で膝を立て座っていた。
『お人好し馬鹿が』
彼を見た瞬間、気を失う寸前に聞こえたあの声が頭の中で蘇り、そしてそれを心地よいと思った自分自身に羞恥を感じて、祇音は直ぐに彼から目を離した。
「……あんた、本当に強かったんだ。」
誤魔化すように言えば、乾燥した喉のせいで少し掠れてしまった。
どのくらい寝ていたんだろう。
皇が無言で差し出す竹筒に、聞こえるか聞こえないかぎりぎりの声量で礼を述べながら、祇音はゆっくりと起き上がった。
竹筒一杯に入っていた水を口に含めば、忘れていた乾きを思い出して、ごくりごくりと結局半分くらいの水を飲んでしまう。
「言っただろう。 俺は誰が相手でも強い。」
祇音から水筒を受け取りながら、平坦な声色で皇が言う。
「そうみたいね。」
「お前が止めなければ、あんなやつ、瞬殺してやった。」
「――殺すことなんて、強くなくたって出来るわよ。」
祇音がそう言うと、皇は僅かな沈黙を挟んで「そうかもな。」と小さく笑う気配をみせた。
「あんた、術者なの?」
百々目鬼と対峙していた間中、ずっと気になっていたことを尋ねた瞬間、皇の体が急に強張ったかのように見えたのに、祇音は訝しげに首を傾げた。
「……厳密に言えば違う。 俺はお前のような術は使えない。」
「あの杖は?」
「ただの銀だ。 俺の力を伝えやすいように多少細工はしてあるが。」
「あんたの力って?」
「それを知ってどうする。」
矢継ぎ早に繰り出される問いに答える間中、男はずっと祇音と目を合わせずに開いた障子の向こうに見える外の景色を眺めていた。
その視線がようやっと祇音に戻されたとき、祇音は何とも言えない違和感を感じて、思わず肩を震わせた。
恐怖に近かったのかも知れない。
百々目鬼を相手にしたときも、鵺を相手にしたときも、使おうと思わなかった懐剣に思わず手が伸びそうになる。
今、目の前にいる男は祇音の知っているあの男ではない。
あの山中で感じた違和感が何倍にも膨れ上がって、濃縮されて、祇音にそう訴えた。
「……世の中、知らないままでいる方が上手くいくこともある。」
「無知が、恐怖を助長することもあるでしょ。」
そう言う祇音の声が微かに掠れたのは、乾燥のせいではなかった。
「俺が怖いか。」
「――――怖いわ。 今、目の前にいるあんたからは人の気配がしないから。」
馬鹿げていると思った。
南蛮人であること以外、祇音達と何も変わらない人間であるはずの彼から、何故か妖の気配を感じている己を。
けれど本能に訴えかける恐怖を無視することが出来なかった。 誤魔化すことは出来なかった。
真っ正直に肯定した祇音に、皇はただ「そうか。」と頷いたきりだった。
「でも、怖いと思いたくない。 あんたは、私と松さんを助けてくれた。」
「あの女を助けたのはお前だろう。」
「違うわ。 あんたと私で助けたの。」
祇音が間髪入れずにそう言うと、皇は暫く身じろぎもせず黙って祇音を見つめていた。
深編み笠に開けられた二つ穴の向こう側から覗く瞳を、祇音もまた正面から見返す。
外から聞こえてくる烏の鳴き声が遠くに聞こえ、お互いが呼吸する音すら定かではない。
緊迫した静寂に、思わずぎゅっと握った布団の衣擦れの音がやけに室内に響いて、耳障りだった。
「吸血鬼を知っているか。」
おもむろに口を開いた皇から聞き慣れない言葉が飛び出す。
祇音は少し考える素振りを見せた後、眉を寄せて知らないと首を横に振った。
「血を吸う鬼、と書いていて吸血鬼。 その名の通り人の血を吸う化け物のことだ。」
皇の指先が、宙で字を描く。
ああ、それならと祇音は頷いた。
「血を好む妖なら聞いたことがあるわ、磯女とか。 吸血鬼、という名前は初めて聞いたけど。」
「南蛮では古くからいる化け物だ。 人に近い姿をしていて、稀に人との間に子をなすことがある。 そしてその子供のことを、ダムピール、又はダンピールと呼ぶ。」
「だん……ようは、人と妖との相の子ってことね?」
そうだ、と皇は頷いて、それからゆっくりと深編み笠に手をかけた。
太い首、鋭い顎、高い鼻梁に続いて黒い眼帯に覆われた右目と瞼を閉じた左目が現れ、僅かに乱れた赤銅色の髪を最後に皇は完全に脱いだ笠を横に置く。
「俺の目を見ろ。」
黙って様子を見守っていた祇音に皇は短くそう言うと、閉じていた左目をゆっくりと開ける。
言われるが儘、畳についた左腕に体重をかけながら祇音は顔を皇の方に僅かに近づけて、その瞳を覗き込んだ。
「……っ……」
そうして見た彼の瞳は記憶していた萌葱色ではなく――まるで、血を思わせる見事な紅色に染め上げられていた。
「あんた、その目……。」
「俺の父は吸血鬼、母は人間の巫女だった。
先程の問いに答えよう――俺には、母から譲り受けた魔を排する力と、父から譲り受けた全てを喰らう力がある。」
皇はそういうと、襖の前からゆっくりと立ち上がって、祇音の直ぐ近くに膝をついた。
「俺は普段、人の身のまま過ごしているが、血を吸えばこんな風に吸血鬼にと成り変わる。」
――俺が怖いか?
尋ねる口調は常と変わらぬ平坦であるはずなのに、祇音には何故か彼の言葉の奥底に、深い沈鬱が横たわっているように響いた。
その事実に祇音が二の句を継げることが出来ずにいると、皇はまるで自嘲するかのような笑みをみせて立ち上がった。
「胡蝶に連絡して直ぐに別の用心棒を……」
「あんた、普段どれくらい人の血が必要なの。」
部屋を出て行こうと踵を返した皇の着物を掴み、彼の言葉を遮るように祇音は尋ねた。
「……普段は人の身だから必要ない。」
皇は足を止め、体を捻って怪訝そうに祇音を見下ろした。
そんなことを聞いてどうする?と言外に告げる表情に怯むつもりはない。
「でも今は吸血鬼よね? なんで。」
「血を吸ったから。」
「誰の?」
「…………お前の。」
「何時?」
「……お前が倒れた直後。」
そこで皇は少し気まずそうに目をそらした。
珍しくしおらしい態度をとってはいるも、祇音はまだ追求をやめるつもりはなかった。
「なんで私の血を吸ったの?」
「――あの女の邪気は血に乗ってお前の全身を回っていた。
俺は血に混じった邪気を、血と共に吸うことが出来る。お前がどんなに優れた浄化能力を持っていたとしても、あの分量の邪気を処理するにはかなりの時間を要したはずだ。」
「つまり、私を助けるため?」
「…………俺の仕事のためだ。」
やけにぶっきらぼうに言った皇の答えに、祇音は思わず張り詰めていたものを解いて、小さく笑いを零してしまった。
彼の仕事は、祇音の用心棒だ。
つまりは祇音を守るためじゃないかと、捻くれた答えばかりを返す彼が可笑しかった。
「これで納得したわ。」
祇音はそう言って、引き留めるために掴んでいた皇の着物を離した。
ゆっくりと背伸びをして、緊張で凝り固まった体をほぐす。
上に伸ばした両腕を勢いよく布団に下ろすと、そこで祇音は皇を見上げて笑った。
「全部聞いた上での結論! 私はあんたを怖いとは思わない。」
皇が面食らったように目を見開く。
「……さっきは怖いと言っていただろう。」
「それは何も知らなかったから。 言ったでしょ? 無知は恐怖を生むって。 私、あんたがだんなんたら?だなんて聞いてなかったし。」
「――俺は、化け物だぞ。」
「今はね。 普段は人間でしょ。 というかそもそも、妖だからって無闇矢鱈と怖いなんて思わないわよ。」
「人は化け物を恐れるものだ。」
違うわよ、と祇音はその言葉を否定した。
「人はね、知らないから恐れるの。 自分や大事な人を傷つけるかもしれないから恐れるの。 私はあんたを知っているし、あんたが私を傷つけないことを知っている。 だから、怖くない。 わかった?」
言いながら祇音は直ぐ近くにある皇の額を軽く左手で叩いた。
皇は避けることもしないまま、その後も暫く黙って祇音を見つめた後、溜息と共に首を横に振った。
「…………お前が底知れないほど脳天気なことは理解した。」
「っあんたね!? 今、私、すっごく良いこと言ったのに、何その感想! 腹立つ! 喧嘩売ってんの!?」
「――だが悪くない。」
え?と祇音が聞き返す間もなく、皇の手が不意に伸びてきて大きな掌が祇音の両目を塞いだ。
彼の意図が掴めず、逆えないまま体を寝かされると、皇は肩の上まで布団を被せて、静かな声で言った。
「もう少し寝ろ。 あの女が目覚めたら、お前も起こしてやる。」
「……乙名さん達に、説明しないと。」
唐突な皇の行動に戸惑いながら反論する祇音ではあったが、顔を覆う手の温かさには抗えず、消えたはずの眠気がむくむくと顔を出してくれば、紡ぐ言葉は途切れ途切れになってしまう。
「今は寝てろ。」
瞼を覆うのとは別の手が、宥めるように祇音の髪をそっと撫でる。
普段の皇の振る舞いからすれば考えられないほどに、その手つきは優しくて、けれど不思議とそれを自然に受け入れられた祇音は、徐々に睡魔に犯されていく中で譫言のように言い募った。
「――こういう仕事の、あとに……寝ると、厭なゆめを――見る、の。」
「大丈夫だ、祇音。 俺が居てやる。」
こんな風に誰かに寝かしつけられたのはどれくらい振りだろう。
そうね、と呟いたのを最後に祇音の意識は再び其処で途切れた。
まだ第一部完結ではありませんが、一区切りついたかなぁと思います。