第十五話:百々目鬼
今回はやや短めです。
百々目鬼――
祇音がみたことがあるのは一度きり。 それも随分と昔の話だ。
当時、まだ幼子であった祇音が養父と生活していた頃、神主だった養父のもとに運び込まれてきた男が居た。
体中に無数の目がギョロギョロと蠢き、その不気味さといったら未だ忘れられない。
祓いの祝詞をあげ、苦しむ男の呼吸が僅かながらも落ち着きはじめたとき、男が語ったのは己が生まれながらの盗人であるということだった。
気がつけば利き腕に何か出来物のようなものができ、それでも盗みを続けている内にその出来物は次第に目のような形となり、徐々に全身に広がっていったという。
そして、ある家から大量の金銭を盗んだ後、体中の出来物が全て目と成り果てては、激痛に苦しみ、ついには腕一本、指先一つも動かせぬようになってしまって、この神社に運び込まれたというのだ。
苦しむ松の姿に、はっとして、兎にも角にもその傷みを取り除いてやらなければと、祇音は駆け寄って身を屈める。
やめろ、と鋭い男の声に続いて、松の細い悲鳴が上がったのはその直後のことであった。
痛みに地に伏せる松。
松と祇音の間に立ちふさがる男。
首から下げて、懐にしまっていた黒真珠の袋は、だらりと祇音の前に垂れていた。
布に織り込まれていた金糸がまるで他者を拒絶するかのように鮮烈な光を発し、それが徐々に収まり始めてはやがて微細な光すら感じることが出来なくなるまでに落ち着く。
「もしかして、これを……盗もうと……?」
祇音は胸元の袋と松とを交互に見やって、半信半疑にそう問いかける。
松は傷みに呻いて言葉を発せないまま、けれど焼けただれた指先が祇音の憶測を裏付けていた。
胡蝶から預かった土御門家の家宝。
この家宝を狙っているのは、彼女がこれを盗み出していた盗賊のはず。
にもかかわらず、
「どうして……松さんが、これを?」
しかしその問いに明確な答えは返ってこないまま、人間のものとは思えない獣のような低いうなり声が松の口から発せられる。
パチンッ
と何か弾けるような音が何処かから聞こえてきたのは気のせいだったのかも知れない。
松は首をかきむしるようにして、「あ"ァァァ」と醜い咆吼をあげた。
肩の辺りが膨れあがり、体中にひしめいていた目が、かっと見開かれた。 皮膚は黒色に変化し、肩から腕、首、胸へと徐々に体の質量が増していく。
まずいと思ったのは同時だった。
男と祇音が後ろに飛び下がった後すぐに、松の姿は急速に変化し、最早人の体を成さなくなっていた。
黒い体は十尺はあるだろうか、男の丈を優に超え、祇音の二倍ほどはありそうだ。 辛うじて人の形は保ってはいるも、全体的に崩れては、四肢と胴体、頭部の区別がつく程度である。
皮膚はだらりと垂れ下がり、ぐずぐずとして沼のような異臭を放つ。 全身に光る金色だけは抜け目なく周囲を見渡し、暫く彼方此方にむけられていた視線がやがて祇音達を一斉に射貫いた。
妖怪 百々目鬼
それはまさしく鬼と呼ぶに相応しい邪悪さで、祇音達の前に立ちふさがった。
「……っ、逃げて!」
祇音は目の前の男を追い越しながらそう叫ぶと、手に持った札を一枚宙に放つ。
「極て 滞無ければ 穢とはあらじ 内外の玉垣 清浄と申す!」
札はまるで意志を持ったかのように真っ直ぐに百々目鬼に向かい、大きな図体にぴたりと貼り付いた。
形容し難い哮りが辺りに響いて、大地を揺らす。 祇音は耳を塞ぎながら、更なる祝詞を重ねた。
「高天原に神留座す 皇親神漏岐神漏美の命を以て 大山祇大神を奉請て……っ」
札で動きを封じたはずが、十分ではなかったらしい。
百々目鬼の太い腕が辺りに体液をまき散らしながら、祇音の目前へと振りかざされる。
咄嗟に腕を上げて顔を庇った祇音であったが、それがなんの意味のない行為だということは十二分に分かっていた。
「……偉そうなことは、まず自分の身を守れるようになってから言うんだな。」
祇音の目の前に、僧衣が躍り出る。
嫌みったらしい口調を聞けば、赤銅色の髪を見るまでもなく、それが祇音の用心棒である男であることなどすぐに分かった。
(逃げろって言ったのに!)
男が幾ら肉弾戦に長けていようと、いくら虚無僧を装っていようと。
神仏の守護もなく、なんの力もない人間が太刀打ちできる相手ではないのに。
まるで喉が張り付いたように声も出せないまま、男へと振りかざされた腕を茫然と見つめる。
男が殺される――そう思った。
出会って数日。 その数日間に交わした会話も、大抵祇音を馬鹿にするものばかりで、良い思い出とは言い難い。
好きか嫌いかで尋ねられれば、すぐさま嫌いを選択できる程、悪印象しかない。
けれど、死んでほしいか、生きてほしいかと言われれば、生きてほしいとそう思う。
「皇!」
忘れていたはずの男の名前が、祇音の喉を震わせた。
――次の瞬間、
男の手が鞭のようにうなり、銀色の軌道がまるで円を描くように描かれれば、百々目鬼の巨体が横に吹き飛ばされる光景が祇音の視界に広がった。
「……言い忘れていたが、俺は誰が相手でも強い。」
銀色の杖が、地面に刺さる。
驚愕で見開かれた祇音の目に、後ろを振り返った男が鼻で笑った。
「銀は如何なる魔物も屠る――どうやらこの国でもそれは変わらないらしいな。」
醜い悲鳴を上げながら、振り飛ばされた百々目鬼が体を起こす。
それを見る男は相変わらずの無表情であるにも関わらず、やけに鋭い眼光だけが好戦的な色を含んで輝いた。