第十一話:神隠し
祇音と男が戸口の方をのぞき見ると、野良着姿の女性と伊作がなにやら言い争いをしているようであった。
というよりも、女性の方が一方的になにやら捲し立てているようである。
仲裁に入るべきか躊躇した祇音を押しとどめたのは、手甲に覆われた男の手。 祇音の方をみてゆっくりと首を振る男に、特に異論を唱えることなく頷いた。
食客たる身分にありはするものの、所詮は部外者である祇音達は積極的に村の揉め事に首を突っ込むべきではない。
第三者はあくまでも第三者であり、部外者はあくまで部外者である。
己の立場と領分を弁えて行動しないことには、不必要な面倒事を避けて通ることはできないのだから。
「いいかい? 伊作こんなことあの女が来るまで一度だってあったことはなかっただろう! あの女が来てからさ、何もかも全部!」
「妙さん、だから其れは何度も言っているように……、」
「勘違いなわけないだろう! 全て、全部事実さ。 だから私は厭だったんだ。 あんな女をこの村に置くなんてさ。」
静観を決めた祇音達を尻目に、 妙と呼ばれた女は激しい身振りと共に吐き出す怒気をますます強くしていった。
その口ぶりからは詳しい内容は計りかねるものの、察するにどうやら松に関してのことのようであろうことは容易に察することができた。
庇うようなそぶりを見せる伊作も、妙の剣幕に圧倒されたようにたじたじで弁解の言葉は、意味をなす前に曖昧な音として消えてしまっている。
それがより一層、妙の勢いを助長させているようでもあった。
妙が何を言っているのか具体的なことは分からないまでも、不都合の原因を部外者に押しつけようとしているらしい。
それは非常に理不尽なことのようにも思えるが、何処の村にでもあるありふれた、当たり前の光景だ――人の出入りの少ないこの手の村では尚のこと。
『悪いのは、ここに松をしばった私であり、外からのものを受け入れられないこの村の性質なのです。』
乙名の哀しげな顔が、祇音の脳裏をよぎる。
どちらかといえば排除される側に属する祇音のような人間にとって、それは居心地の悪い話ではあるが、考えてみればそれもまた当然の防衛本能なのかもしれ ない。
そう諦観する一方、やはり遣りきれない思いで祇音は軽く己の下唇を噛み締めた。
「おい。」
突然、男が祇音の手首を掴み、己の方に引き寄せるように引っ張った。
体の重心が傾き、二三歩後ろによろめいた祇音の頭が、男の硬い胸板にこつんとぶつかる。
突然の男の行動は理解しがたく、体の前に回された左腕と背中に感じる男の体温に祇音は慌てふためいた。
拘束から逃れようと身をよじれば、男は逃がすまいと言わんばかりに、さらに祇音の腕を強く引いた。
祇音は生粋の巫女である。
養父が亡くなってからというものずっと独り、旅を続けてきた身である。
同じ年頃の娘が多少なりとも経験しているであろう異性との甘やかなやり取りに一切縁がない身であって、 つまり――男にどのような意図があったとしても、このような状況に冷静さを維持出来るはずがない。
(何してくれてんの!)
と心の叫びが、潜んでいる状況をすっかり忘れて口つきそうになった瞬間、
「前に出すぎだ馬鹿猿。」
男の咎めるような声が祇音の上のほうで響いた。
ぴたり、と動きを止めて、男に寄りかかるように奥へと引っ込んでいる上半身とは異なり、元居た場所に投げ出されたままの己の足先を見る。
そこで祇音は初めて、自分の体が今にも物陰から飛び出さんばかりの位置に移動していたことに気がついた。
静観を決めたはいいものの、元来気の強い祇音には言われっぱなしの伊作の様子が頼りなく、些か歯痒くも思えたのが行動に顕れてしまったらしかった。
まずい、とさらに足を引っ込めたはいいものの、既に時遅し。
一通り喚き立てた妙にもそんな祇音達の姿が見えてしまったようだ。
予想していなかった第三者の存在に彼女は罰悪そうに顔を顰め、それからふんっと顔を背けて伊作に指を突きつけて言った。
「いいかい?兎に角、私達は――私"達"だよ。 あの女が一刻も早くこの村から出て行って欲しいって思ってる!」
しっかり乙名に伝えておきな、と強い口調で念を押して妙は怒り収まらぬ様子で戸をぴしゃりと閉めて出て行ってしまった。
あまりの音の大きさに伊作と祇音はびくりと肩をふるわせるが、男の方は黙って妙が去っていった方を射すくめるような鋭い視線で見ているだけだった。
***
囲炉裏は、奥の間に続く方を一番の上座として"横座"と評し、その中央に家の主人が座る。
主人のすぐ右横に座るのが長男たる伊作であり、彼は今は不在の乙名の位置をきちんと空けながら、彼から見て左側の辺に座る祇音達に罰の悪そう微 笑みを投げかけた。
「――時々、物がなくなるんです。」
秋風は冷たく、室内には冷ややかな空気が満ちてはいるも火をおこすほどの寒気でもない。
祇音達から視線を逸らすように朝方に燃やし残った白い炭に視線を落とした伊作は、そう言って膝の上でぎゅっと拳を握った。
「物がなくなる?」
訝しげに眉を寄せた祇音の横で、笠を被った男は身じろぎ一つせずただ顔だけを伊作の方に向けていた。
二人の視線を受けて、小さく頷いた伊作は更に言葉を繋ぐ。
「最初は手拭いや鋤、鎌といった類にものでした。確かに其処に置いておいたはずなのに、いつの間にかなくなってしまう。けれど最初は皆、唯の記憶違いだろうとあまり気 に留めていなかったんです。なくなっても大体、二三日もすれば返ってきますから。
でもひと月に一度程度だったものが、二度、三度と徐々に頻度を増していき、なくなるものも段々と高価なものになっていくようになって――その辺りで皆、 何かが可笑しいと思い始めました。」
伊作は更に言葉を続けた。
「決定的だったのは、妙さんの旦那さんが始終大事に首から下げていた守り袋をなくしてしまったことです。その中には以前、戦場にかりだされた時に僅かなが ら頂戴した金銭が入っていたものですから大騒ぎになってしまって。」
「其れは……盗まれた、というわけではなく?」
「いいえ。"なくなった"んです。紐を通して、首から下げていたはずのものがそれごと、まるで最初から存在していなかったかのようになくなってしまった。 けれどもそれも結局は、三日後にはしっかり返ってきた。勿論中身の金銭も。」
おかしな話でしょう?と力無く笑う伊作に、何の言葉も返せずに、祇音は黙って彼を見返したまま、話の先を促した。
「まるで神隠しのようだ。 最初はそう言っておりました。 この地に住まう神のささやかな悪戯だ、と。」
「……しかしそうではなくなった。」
男が打った相づちが、静かな室内に何処か冷ややかに響く。
理解しがたい出来事が起きたとき、それを人外的な存在――神や妖といった類にもの――に起因させることは珍しくない。
そうして人智を越えた世界の中で、人は折り合いをつけて生き続けてきた。
致し方のないことだ。 運が悪かった。
畏怖をもって、そう思ってしまえば、多少の理不尽に憎しみを持つ必要もなくなる。
実際がどうであれ、そうすることで生きやすくなるのなら、それもまた正しいことなのではないかと思うのだけれど……、
「この地の神は、金銭の類を好みません。 どうしてかは定かではありませんが、昔からそう言われてきていました。其れが、金、銀、銅、どのような類のものであっても、銭という形をとるものを毛嫌いしていると。
だからこそ、神がそんなものを"隠す"わけがない。 欲するわけがない。 そこでもう一つの可能性が、ある事実と共に浮かび上がってきました。」
先程の妙の訴えも含め、大方の予想がついた祇音は一瞬視線を逸らした。
男もまた同様だったのだろうか、小さく漏れた息の音が祇音の鼓膜を震わせた。
「……つまり、全てはよそ者である松さんの仕業、――ということですね?」
苦しげに顔を歪ませて中々言葉の紡げない伊作の代わりに祇音がそのもう一つの可能性を指摘すれば、彼は沈鬱な面持ちのまま首肯した。
隠すつもりもなさそうな大仰な溜息が、隣から聞こえてくるのを特に咎めるつもりもなく、祇音もまたつい不愉快そうな表情を浮かべてしまう。
理解しがたい出来事が起きたとき、人はその出来事への不服を人外ではない別のものに起因させることもまた、珍しくないことである。
別のもの――即ち、よそ者。
或いは一つの集落を完成させた人間にとって、外から訪れた人間は人ならざる者とさしたる違いがないのかもしれないけれど。
乙名の妻として、この村に迎い入れられたとしても、所詮松はよそ者であった。
その事実を認識してしまえば、乙名の言葉もまた明確な意味を持ち始めてくる。
『松は何も悪くなどない!』
彼の悲痛な叫びは、そんな現実への小さな反抗だったのだ。
「ちょうど、物がなくなり始めたのが、松がこの村にやってきて暫くした後だったということもあってか。なんの根拠もない憶測は、村の人間にとっての真実になった。
元々、あまり歓迎されていなかった松を皆、邪険に扱うようになり、剥き出しの敵意を向けることになんの躊躇いもなくなっていきました。
それででしょうか、時々体調を崩すようになってしまって……今日だって目が覚めたとはいえ外を出歩けるような状態でもなく、ずっと床に伏せっていたの に、さっき父が社に供えた稲がなくなったのは松の仕業って……。」
「え、あの、稲が?」
松が目を覚ましたことへのお礼にと、乙名が嬉しそうに供えていた姿を思い出せば、祇音が驚いて腰を浮かした。
松のための供物。
この村で、松へ向けられ続けている下向きな愛情の証。
松がこの村に留まり続ける唯一かもしれない理由。
(厭な、予感がする……。)
それが消えてしまったという事実に、祇音の胸はどうしようもなくざわついた。