第一話:始まりには蝶が舞う
夏の暑さはすっかりなりを潜め、日増しに秋色が濃くなっていく。
道の両脇に所々植わっている銀杏の木には、その実が重く垂れ下がって、細い枝は僅かにしなっているようだった。
涼風が吹く中を、朝から延々とその道を歩くこと数時間。
祇音の目の前には何処にでもありそうな、至って平凡な農村の風景が広がっていた。
作物が一斉にその恵みをもたらさんとするこの時期、重く頭を下げた黄金色の稲が一面に広がり、それを刈り取る人々の歌う歌が、田の横切るようにあぜ道を歩く祇音の耳に届いた。
「アンタ、見ない顔だねぇ。」
一人の中年女が手を休め、横を通り過ぎた祇音に声をかけてくる。
小さな村はたった一人よそ者が入っただけでひどく目立つ。
祇音は足を止め、被っていた笠を少し上げて、ついでに人畜無害な人間であることを示すように軽く微笑んでみせた。
「ちょっと、この先にあるっていうお寺に用があるの。」
「あの寺に、かい?」
訝しげな顔をした後に、女は「やめときな。」と顔をしかめてひらひらと手を振った。
祇音が首を傾げて理由を問うと、女は態とらしく声をひそめて深刻そうな顔で祇音に耳打ちした。
「あそこはね、化け物がでるんだよ。」
そう告げる女の深刻な表情はこの陽気にえらく不似合いで、祇音は思わず小さく笑ってしまった。
そんな様子の祇音を見て、冗談にとったと思ったのだろう女は、これまたひどく真剣な顔で「本当だよ。」と続けた。
「あそこには人食い鬼が住んでるのさ。」
「へぇ、誰か食われたの?」
そこで祇音は丸々と目を見開いてみせる。
とんでもない、と中年女は強く左右に首を横に振った。
「んにゃ、誰も食われちゃいないよ。
誰も近づかないし、食われないように日が暮れた後はこの村じゃあ、誰も外を出歩きゃしない。」
「ああ、それなら良かった。」
祇音は表情を和らげて、 安心したように息を吐くと、そのままアッサリと「じゃあ、頑張って。」と笑って手を振り、彼女に別れを告げる。
あぜ道を迷い無い足取りで進み始める祇音を後ろの方で尚も引き留める女の声がしたが、軽く手をあげるだけに留め、その後は歩みを止めることはしなかった。
***
恐らくこれから行く寺に化け物、鬼などいるはずもなく、仮にいたとして、それは祇音の足を止める理由には成り得ない。
――というよりも、化け物がいると聞いて、いちいち逃げ帰るわけにはいかないが祇音の商売だ。
『拝み屋 祇音』
そんな肩書きで、諸国を旅し始めて、およそ三年の月日が経った。
女の一人旅は何かと心細くはあるものの、養父に仕込まれた処世術のおかげなのか、何度か「ひやり」とした経験はあったが、幸い命の危機に瀕したことはない。
商売繁盛、病気平癒――そう言えば、雨乞いなんかもやったことがあるな、と祇音は種々様々にわたる依頼を思い出す。
そうした一般的な「拝み」の中にちらほらと混じるのが万魔調伏――一般的に妖怪退治と呼ばれる仕事だ。
最近は寧ろそちらの方が有名になってきたようで、拝み屋から退治屋にでも名前を変えた方がいいのではないか、などとも考え始めていた。
そんな風に取り留めもないことを思い耽りながら目の前に連なる一本道をひたすら進んでいくと、何時の間にか周囲は木々の鬱蒼とした場所へと景色を変えていく。
重なり合った枝としげる葉によって日の光が遮られて、辺りは少し薄暗くなったように感じたが、それでも足下には雑草が丈高く生え、その強い生命力を存分に発していた。 祇音は文字通り草の根をかき分けるようにして、前に進む。
そうして行き着いた道の果てには、崩れかけた石段が一つ。
近づいてみると、罅の入った石の間からは雑草が生えていて、表面は緑や茶の苔に覆われている。 まだ朝露の残るそれを慎重に上りながら、雨の日にはきっと殊更足が滑って難儀に違いないと祇音は思った。
(あそこか。)
二十段ほどの階段を上がりきったところに、ひどく貧相な寺がポツリと寂しそうに建っているのが目に入ってくると、祇音は足を止めて、一度大きく息を吐いた。
そして袂にしまい込んだ手紙の存在を確かめるように、そっと服の上から抑える――祇音がその文を受け取ったのは、昨晩のことだった。
暗い山の中で野宿をすることだけは避けたかった祇音は、ひたすら山道を歩き続け、なんとか日が暮れる前には山の向こうの村へ到着した。
すっかり疲れ切った身体を出来ることなら暖かい布団の中で休めたいと思い、どこか泊めてくれそうな家を探して暫くの間、村を彷徨っているうちに、百姓のような身なりをした年若い男が現れて、祇音を呼び止め、なぜかそのまま祇音を村の乙名の家に招待したのだ。
乙名はその村の指導者を意味し、長老・宿老などとも呼ばれ、元来名主層や多くの土地を有する有力者達がなるものだ。
連れて行かれた家は、確かに中々立派で小綺麗な一軒家であって、祇音を連れてきた男はその家の息子だという。
乙名たるこの家の主は好々爺然とした老人で、温かく祇音を迎え入れては、寝る場所だけでなく夕餉をも振る舞い、歓迎してくれた。
――最もそれが、ただ純然たる好意だけでなされたものでないと知ったのは、食後の茶を振る舞われた直ぐ後。 『拝み屋の祇音』の名を知っていた乙名が、祇音に仕事の依頼をしてきたときのことだった。
(そういう狙いがあったわけね。)
彼等の親切に多少の感動すら感じていた祇音には幾らか興ざめではあったが、一宿一飯の恩義を受けた事実には変わりなく、祇音は仕方無しにその依頼を引き受けることにした。
そしてその晩、与えられた部屋で柔らかい布団を敷き、すっかり熟睡していた祇音の元に突然、どこからともなく1羽の鴉が飛び込んできて、祇音の顔を鋭い嘴で突いてきた。
何事かと思って飛び起きれば、鴉はすぐに一枚の紙に代わり、ひらひらと祇音の手の中に収まった。
『明日、隣村の廃寺にて待つ。』
簡潔すぎて素っ気なさすら感じる文章が、走り書きのようにその紙には書かれていた。
左端にそっと書かれた「胡蝶」という名前は祇音がよく慣れ親しんでいる者の名であり、それと同時に祇音は先ほどの鴉が「式神」であることを知った。
式神を使ってまで自分に連絡をつけようとしたのだから、それなりに重要な用件に違いない。
祇音はそう考えて、乙名には夜までには必ず戻ってくることを告げ、それでもこのまま居なくなるのではないかと不安げな乙名に大方の荷物を預けた上で、朝日が昇るなり家を出発してここまで歩いてきたというわけなのだが……。
(またまあ随分と荒れてること。)
門前雀羅といったところか、人の手がはいらなくなった家の退廃具合というものは、見る者に一種の憐憫の情を抱かせる。
祇音は本堂の――とはいえ主だった建物はそこしか見あたらなかったのだが――入り口にはった蜘蛛の巣を払いながら、ゆっくりと中に足を踏み入れた。
戸から差し込む日の光が薄暗い室内を照らしている。 祇音は笠をとって、室内の様子に素早く目を走らせた。
中は外観と勝るとも劣らぬ荒涼とした様子で、床の一部はすでに腐りかけ、一歩踏み出す事にギシギシと音を立てる。
奥に行くほど薄暗さは深まり、その最奥に鎮座する本像は右手がとれ、顔に大きな罅が入っている。 本来は慈愛に満ちた笑みを浮かべているはずのその表情はそれ故にひどく歪み、どことなく祇音に不気味な恐怖心を抱かせた。
成る程、確かに化け物が出るなどという噂が広まるのも頷ける。
こういった廃屋の多くにその手の怪談は往々にしてつきものだ。
それら全てが真実かどうかは怪しむべきところではあるが、良くないものが溜まりやすいというのもまた事実ではある。
祇音が改めてぐるり、と辺りを見渡すと――
「やあ、久しぶりだね。」
光の届かぬ右隅奥より、ぬっと一人の女が祇音の前に現れた。
紅の切り袴に、白い小袖の上には無地の白絹で出来た千早。 紅の胸紐に首からは、鉦― 金属で出来た太鼓のようなモノ―がかけられている。腰から金銅の瓔珞と呼ばれる飾りが垂れ、千早の裾から覗くそれは細い光を受けて僅かに輝いた。 一見すれば巫女のようにも見えるが、顎の辺りで切り揃えられた鳶色の短い髪や自信に満ち溢れ、強烈な光を秘めた琥珀色の瞳が巫女の元来持つべき神秘性とかけ離れた昂然たる印象を相手に与える。
彼女の姿はすっかり辺りに溶け込み、けれど決して闇に飲まれず確固たる存在感をもってそこにあった。
――この女性こそが手紙の送り主、胡蝶である。
胡蝶がおもむろに白い手を伸ばして、祇音の頭を撫でる。
昔から会う度に胡蝶は、さながらこれが再会の儀式であるが如く欠かさない。まるで幼子にするかのような所作ではあったが、祇音はくすぐったそうに首をすくめるだけで、それを拒むことはしなかった。
「少し見ない間に随分と大きくなった。」
胡蝶がそう言って、嬉しげに目を細める。
祇音は彼女の温かい体温に触れて緩んだ表情を照れ隠すように、大げさなまでに呆れた溜息を吐いてみせた。
「全く、一体何年ぶりだと思ってるの? 最後に会ったのなんて、まだ私が十三の時――もう、三年前よ。 大きくもなるわよ。」
「そうだったっけ? ふふ、三年かぁ。 成る程ね、道理で年を取るわけだ。」
愉快そうに胡蝶はそう言って笑ったが、年を取ったと言う割に、彼女の外見からは三年前となんら一つ変わった点を見い出すことは出来ない。
常に浮かべられ続けている微笑やたおやかな身のこなしは生来のものとして、白く滑らかな肌や顔の輪郭を縁取る髪の毛一本すらも三年前のまま、彼女は祇音が記憶している通りの姿をしている。
否、正確に言えば出会った時から彼女はずっとこのままだった。この人の前では年月すらも無意味なのかと思わせるほど、当然訪れるべき時の変化を無視した恒常性ではあったが、改めてその由縁を尋ねる気にもならない。
祇音は目的を果たすべく、「それで?」と首を傾げた。
「一体どうしたの?」
「ちょっと、祇音に用事があってね。」
「まあそうでしょうけど。 いきなり式神まで使って、こんなところに呼び出すなんて何事かと思うじゃない。」
そんな言葉に、胡蝶はごもっとも、と軽く肩をすくめた。
室内は人の手が全く入っていないのだろう。 床には薄く埃の積もり、これ以上踏み込んで裾を汚してしまう気にもなれず、祇音は入り口に立ったままそこを動こうとはしなかった。
胡蝶がそんな祇音に向かい合うように立って、まじまじと真っ直ぐ此方を見つめてくる――ふとその視線に、祇音の胸がざわめいた。
喜悦以外の感情が浮かび上がったことなど見たことがない琥珀の双眸は、普段通り甚だ澄み切っているにも関わらず、常とは違う薄暗い何かが底に沈んでいるようにも見える。
初めて目にする胡蝶の表情に言い表しようのない不安を感じつつも、さりとて目を逸らすことなど出来ないまま、見上げる胡蝶の顔に浮かぶ微笑みが一瞬掻き消された。
――と思った瞬間、彼女はにっこりと満面の笑みを浮かべた。
「ちょっと頼み事があるんだ。」
そう言う胡蝶の表情は普段通りの明朗で溢れて、先程感じた違和感や一瞬消えたと思った微笑みすら、ひょっとしたら光の加減がもたらした幻だったのかもしれない。
「頼み事? 私に?」
祇音はその表情の差異もさることながら、予想だにしなかった胡蝶の言葉に驚き、大きく目を見開いた。
胡蝶の――命の恩人たる彼女の力になる、ということは祇音にとって一種の目標のようなものであった。
しかし今でこそ、『探し屋』などという怪しげな職を営んではいるが、元々はその筋で知らぬ者はいないと言われたほど凄腕の術者である胡蝶。
実力も経験も祇音など足下にも及ばぬ彼女に、祇音が助力できることは実際のところ皆無と言っても過言ではない。
彼女の力になれるかも知れない可能性があるということは、喜ばしいことではあったが、同時に何を頼まれるのか考えると不安がよぎる。
祇音は緊張した面持ちで尋ねた。
「私で出来ることならば協力するわ。でも……こんな廃寺に呼び出さないと頼めないようなことなの?」
固い声で静寂を揺らし、窺い見るように胡蝶に視線を送ると、彼女は祇音を安心させるかのようにその微笑を深めた。
「頼み事自体は難しいことじゃないんだが、ちょっと事情があってね。」
胡蝶はそう言って、おもむろに懐から掌ほどの大きさの木箱を取り出し、祇音に差し出した。
渡されるが儘に持ってみると思いの外、ずしりと重い。
一体何が入っているのかと尋ねれば、胡蝶は無言で祇音に箱を開けるよう視線で促した。
訝しく思いながら、上の木板を奥に滑らせるようにして、祇音は慎重な手つきで箱を開ける。
「うわぁ……。」
思わず感嘆の声が零れた。
中に鎮座しているのは艶やかな光彩を放つ大粒の黒真珠、と思われるものだ。
よく観察すると、真っ黒というよりは僅かに赤みがかっているようにも見える。 ただ赤いというだけではなく、微妙な光の当たり方で色の深みが変化していて、それはまるで孔雀の羽のように鮮やかで美しい。
何より今まで一度だってみたことがない、そしてこれからも見ることはないだろうと断言できるような見事な球形。
滑らかで傷一つ無い表面をそっと触れようと、祇音は指先を伸ばしかけて――止めた。
この清らかな美しさに、たった一つの汚れもつけてはいけないような気がしたのだ。
祇音は真珠に視線を注いだまま、「これは?」と胡蝶に尋ねた。
「十数年前に、紛失したある名家の家宝だ。」
「紛失って、家宝が?」
胡蝶の説明を、祇音は言葉短く、鋭い口調で問い返す。
「そう。 まあ、それは表向き――だけれど。 実際はその名家の娘が親の取り決めた結婚に反発して、家を飛び出した際に持ち出したものなんだ。私は一ヶ月前にそれを探し出して欲しいという依頼を受けた。」
「は?」
祇音はその言葉に、ようやっと真珠から目を上げた。
ついでに木箱の蓋を閉めたのは、再び視線があの見事な色彩に向いてしまうことのないようにするためである。
「十数年前に無くなった家宝を今更、探し出して欲しいって?」
「そう。」
「そんな、なんで今更。」
「知らない。興味がなかったから聞かなかった。」
胡蝶はまるでどうでもいいと思っている素振りを隠す様子もなく、あっけらかんとそう言って肩をすくめる。
端から聞けば正気を疑われかねない言動。
けれど胡蝶の性格をすっかり熟知していた祇音は、悪癖ともいえる何時も通りの振る舞いに、ただ大きな溜息を漏らした。
――この人は、外見も中身も何年経っても変わらない。
以前から胡蝶には、何かとこういった節があった。
自分の興味が惹かれるものへの好奇心や探求心は呆れかえるほど旺盛であるにも関わらず、それ以外のことについてはひどく無頓着に、追求の労を惜しむ。
だが今更、興味が有無で片づけて良い問題と悪い問題があることを諭したところで、馬の耳に念仏、言うだけ無駄だということは十二分に理解していたので、結局祇音は何も言わずにもう一度黙って溜息を吐くに留めた。
尤も胡蝶はそんな祇音の様子を気に留めた様子もなく、ぼやくように言葉を繋いだ。
「そもそもその依頼を引き受けたのだって、単に暇だったからだし。」
何かを探し出す依頼のみを受ける探し屋は、その特殊性故に依頼数が限られているのだという。
とはいえ胡蝶は優秀であるし、そんな珍妙な職をかかげているのは彼女ぐらいなのだから、それなりに需要と供給は一致しているはず――にも、胡蝶が暇を持て余しているのは、彼女が依頼をえり好みするからである。
身も蓋もない言い方をするならば、自業自得。 気鬱そうに首を横に振る胡蝶を見て、祇音はそんな風に思う。
一方胡蝶は、そんな祇音の内心を知ってか知らずかそのままの調子で、更に言葉を続けた。
「まあそれで、見つけ出したまではいいんだが、ちょっと新しくて興味深い依頼が舞い込んできてね?これを依頼主に届けに行く暇が無くなってしまったんで――代わりに君に届けて欲しいと思って。」
駄目かな?と胡蝶が首を傾げたのを受けて、祇音は考え込むように目を伏せた。
――正直なところ、断る理由は何一つとしてなかった。
何処に届けるにしても、祇音自身が目的地もなく放浪する身の上であるから問題にならず、それだけのことで胡蝶の手助けになれるのならば、願ってもないことだ。
だが同時に、一人旅で培われたきた祇音の勘が、この事態に警告を発しているかのように、根拠のない漠然とした懸念が胸の内を掻き乱す。 この話の直前に胡蝶が浮かべたあの幻のような表情も気にかかった。
祇音は躊躇するように、胡蝶を見上げた。
出会った当初から一向に衰える素振りを見せないその姿と実力。 彼女に祓えない妖などいないと評され、如何なる難題も涼しい顔でこなしてしまう。 祇音の知る誰よりも強い女性。
祇音の恩人であり、決して届くことはない生涯の目標――そう。 どちらにしてもこの機を逃せば、祇音が胡蝶の手助けなんぞを出来る可能性は、この先ほぼ皆無になってしまうに違いない。
祇音はそう思うと、脳内で鳴り響く警告音を無視し、決意を固めたような表情で 「いいわ。」と頷いた。
「何処に届ければいいの?」
尋ねると胡蝶は安心したように、更に表情を緩めた。
「有り難う、助かるよ。 届ける場所は――いや、その前に、君に同行者を紹介しよう。」
「は? 同行者?」
早速予想だにしていなかった言葉に、祇音は目を剥く。
胡蝶は何も言わずに、にこりと笑うと、室内の左隅の方へと視線をやった。
そこには戸から差し込む細い光も入らず、より一層濃い闇が蠢いていた。 祇音にはその闇の一部が胡蝶の視線を受けて、微かに動いたように見えた。
しかしそれでも尚、気配が全く感じられない――人が居る気配も、そうでない『何か』がいる気配も全く。
一体何が出てくるのかと、祇音は息をつめていると――、
(……虚無僧?)
ゆっくりと闇の中から姿を現したのは、驚くほど大柄な僧だった。 6尺はゆうにあるだろうか。黒い小袖に白い男帯。替笛を入れた袋の括緒の房が腰から垂れている。顔はすっぽり深編み笠で覆われていて、ただでさえ暗い室内で前が見えているのか疑問に思う。 肩幅も広く、白い手甲に覆われた引き締まった腕が覗く。
祇音は驚きの余り、無遠慮にその男を凝視した。
そして、虚無僧も深編み笠の向こうから、そんな祇音をちらりと見たような気がした。
「彼は飛端皇。 君の同行者で――君の用心棒をして貰おうと思っている男だ。」
「用心棒?」
祇音は怪訝そうに、虚無僧から胡蝶の方へと視線を移した。
確かに外見からいって、腕っ節の強そうな男ではある。 それに動きの一切に隙が無く、 たてる衣擦れの音一つにしても怖ろしく小さい。
恐らく相当の訓練を積んだ手練れであることは、武術については素人に軽く毛が生えた程度の祇音にも察することが出来るものの、だがどうしても理解出来ないことが一つ――。
「なんでそんなものが私に必要になるってのよ?私、別に誰かに命を狙われるようなことしてないわよ。」
「あれ、言ってなかっけ?」
胡蝶が首を傾げた。
「その黒真珠、曰く付きなんだ。」