本当の彼女
大きな扉が音もなく閉まり、部屋の中にみなぎっていた威圧感が消え失せる。神官長が放つ他を圧する空気は、呼吸をすることもはばかられるような気分にさせるのだ。
ラスは密かに息をつくと、キンクスを見送っていた視線をシィンへと戻した。
彼女もまた、神官長が消えていった扉を見つめて佇んでいる。
そのたおやかな立ち姿に、彼は見入った。
(なんて、お美しいのだろう)
毎日、毎分、毎秒、常に視界に収めているというのに、目を向けるたびに心を奪われずにはいられない。
背を流れ、膝裏までも届きそうな月光色の髪。
陽の光を浴びたことのない肌は透き通るように白い。
夜空を映した瞳の色は、未だかつて見たことがない美しさだ。
ラスの肩にようやく届く程度の小柄な身体はとても華奢で、片腕一本だけでも簡単に持ち上げられる。優美で典雅なその姿は、そよ風にでも煽られてしまいそうだ。
(こんなにも美しいものがこの世に存在し得るなんて)
シィン付きの護衛となってからの六年間、ラスは、何度そう思ったことか。
幼いころは愛らしいという表現がぴったりだった彼女は、年を重ねるごとにその美しさを増していき、長じた今は、まさに月の女神の化身そのものになった。
だが、美しいと同時に、彼女はあまりに繊細すぎた。透き通るような風情に不安を禁じ得なくなったのは、いつ頃からだろうか。
ラスが護衛を命じられた頃のシィンは、たとえるならば満月だった。彼女自身が、もっと、強い光を放っていたような気がする。朗らかに笑い、本当は走り出したくてたまらないのに、その思いを巫女としての威厳で懸命に抑えているのがひしひしと伝わってきた。
単にそういう年頃を迎えただけなのか、あるいは、巫女として、『神の娘』として皆の前に立つようになって、彼女の中で自覚が強まったのかもしれない。ラスはそう思って、いや、そう自分をごまかしてきた。
しかし、今の彼女は同じ月でも新月を迎えつつある三日月のようで、知らないうちに消え失せてしまっているのではないかと思わせるのだ。
変化が顕著になったのは、多分、一、二年前――儀式を頻繁に行うようになった頃からではないかとラスは思う。皆の前で謳うたび、シィンはひどく衰弱するから、儀式が彼女の何かを吸い取ってしまっているのだろうかと、勘繰ってしまう。
そんな不吉な物思いを振り切るように小さく頭を振ると、彼はシィンの前にひざまずいた。
「シィン様、よろしいのですか?」
「何が?」
茫洋とした眼差しで、彼女が問い返す。
「儀式です。一昨日、したばかりでしょう? シィン様は、いつも儀式の後はお辛そうです。それなのに、こんなにすぐにまたやるなんて」
シィンを案じる想いと、彼女にこんなふうに無体を強いることへの憤りと。その二つでラスの身が震える。
最近の彼女は儀式の後に二、三日眠り込んでしまうこともあり、彼は心配でならなかった。
眉間にしわを寄せた彼に、シィンはやんわりと微笑む。
「それが、わたしの為すべきこと、よ? わたしがここに在るのは、民の為に神への祈りを捧げる為。それを奪われたら、わたしは存在できないわ」
「そんなこと……!」
思わず、声を荒げそうになり、自制する。ラスにとっては、そんなことはなかった。シィンは、ただ、在ればいい。ただ、シィンが健やかに微笑んでいること、それだけで充分なのだ。きっと、他の民もそう思うに違いない。
きつく拳を握り締めたラスへ、聞き分けのない子どもに向ける笑みを浮かべながら、シィンが説く。
「わたしは神の子。神をこの身に降ろす為に生を受けたの」
淡々と、抑揚のない物言いで、彼女は彼にそう告げた。
ラスは反駁しかけ、グッとと留まり唇を引き結ぶ。
確かにそれは、シィンの口から、シィンの声で発せられた言葉。
だが、本当に、彼女自身のものなのだろうか。
シィンが神の子であることは、真実だ。ラスもそれは疑わない。けれども、彼女の口からこぼれる言葉は、本当に彼女自身の思いから生まれたものなのだろうかと、疑念に駆られる時がある。
ふと彼の脳裏に浮かんだのは、長身を屈め、覆い被さるようにしてシィンに囁きかけるキンクスの姿だ。
その威厳故か、慈愛溢れる神官長に、時折ラスは、背筋に寒気にも似た何かを覚える。だが、もしかしたら、それだけではないのかもしれない。他に何か、胸を騒がせるような何かを、彼から感じ取っているのかも。
(だが、それは何だ?)
その正体に思いを巡らせ眉間にしわを刻んだラスの耳に、不意に届いた、小さな歌声。
彼は突かれるように顔を上げ、シィンを見た。
窓の外へと視線を流した彼女が口ずさむそれは、儀式のときの総毛立つようなものではなく、もっと柔らかな、穏やかな響きを持っている。
神官長に禁じられても禁じられても、抑えきれないその歌声。
シィンは夢見るような眼差しで青空を見つめ、途切れ途切れにかすれた声でさえずっている。そんなふうに歌う彼女の方が、ラスは好きだった。
彼には、それだけが本当の彼女のような、気がしたから。