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豪奢な鳥籠の中で

 ナムが出て行くのを見送ったキンクスは、しばし考えにふけった後、執務室を出た。

 美しい装飾が施された壁に囲まれた廊下を歩きながら、現状に思いを馳せる。


 キンクスが神官になったのは十六年前、彼が十九歳の時だ。産まれた時から住んでいた村は、しばしば北からの蛮族の襲撃に脅かされていた。襲われるたびに村から逃げ、ほとぼりが冷めた頃に戻り、散々に荒らされた村を立て直す。その繰り返しだった。


 作っては、壊され。

 また作っては、壊され。

 まるで水際の砂山のように。


 だが、そんな不毛な日々を、あの頃のキンクスは当然のように受け入れていたのだ。先ほどのナムのように、神の加護を信じて。これだけ襲われても皆が無事でいられるのは、全てアーシャルの護りがあるが故だという、大人たちの言葉をそのまま呑み込んでいたから。


 それが覆されたのは、キンクスが十八になったばかりの春先のことだった。


 雪解けを待って北の山の向こうから蛮族が襲ってくることは、天災のように避けられず、そして決まりきったこと。襲撃を報せる鐘の音を聞いた村人たちは、例年通り、南の森へと避難した。

 村を滅ぼすことが蛮族の目的ではないから、そこに残された多少の品々を奪うと彼らは去って行く。森の中までその手が伸びてくることはないのだ。

 それは明文化されていない契約を交わした取引のようなもので、村人にとって『被害』と言えるほどの損害を与えることはない。

 だが、その年、蛮族はキンクスの全てを打ち壊す傷痕を残していった。それはもう、完膚なきまでに彼を叩きのめす傷痕を。


 物心ついてから成人するまで。

 キンクスは、神の存在を、アーシャルの力を、疑ったことはなかった――たとえ何の恩恵も与えられたことがなかったとしても。


 しかし、その年、その春、キンクスは、初めて神を否定した。そんなものは存在しないのだと思い知った。彼は神を否定し、罵り、呪った。

 今さら絶対の守護などないのだと知らされても、もう遅い。

 そんなものがあると信じた己の愚かさを嘲り、そう信じさせたものを罵倒しても、全てがもう手遅れだった。


 その襲撃から十月十日を経て、村には一人の赤子が産み落とされた。

 恐らく、中原で安穏としている連中は見たことがないであろう『色』を持った子が。


 柔らかな、淡い金髪。夜空のような濃紺の瞳。


 身ごもっていた頃から恐れ戦いていた母親は、一目見るなり赤子を拒絶した。その胎で育てた子を愛せないことで苦しみ、そして絶望の淵に沈んだのだ。


 キンクスは赤子と共に村を出て、真っ直ぐに大神殿へと赴いた。

 思ったとおり、その子を見たときの神殿の連中の感動具合と言ったら、まるで神そのものを目の前にしたかのようだった。

 その『色』は、決して神に祝福された者の証などではない――祝福どころか、むしろ呪詛というべきものだというのに。

 彼らの興奮ぶりを、キンクスは嘲笑を押し隠した眼差しで眺めたものだ。


『神の子』をもたらしたキンクスは即座に上級神官の地位を与えられ、持ち前の才覚を存分に発揮した彼は、十年の時をかけて神官長という最高の地位まで昇り詰めた。『神の子』が予想以上に役に立ってくれたということもある。


 そう、あの呪われた赤子がこれほどまでに民の心を掴んでくれたのは、嬉しい誤算だった。


 大神殿の最奥、一際豪奢な扉の前に立ち、キンクスはひっそりと笑む。

 蛮族どもは、どこまでも付きまとってくる。くたびれた僻地の故郷から、遠く離れたこの輝かしい大神殿の中までも、その影はまとわりついてくるのだ。だが、あくまでも、それは『影』止まり。今ここに立つ彼には、手が出せる筈がない――手は出させない。ようやく手に入れたこの場所を、キンクスは何人にも侵させるつもりはなかった。


 キンクスは両手を上げて、重い扉を押し開く。

 と、隙間から、微かな旋律が漏れ聞こえてきた。

 それに言葉はなく、歌っているというよりも少女という楽器を奏でているかのようだ。


 キンクスが室内に足を踏み入れると、振り返ったのはシィン付きの護衛であるラスだった。生真面目な彼は、キンクスに向けて堅苦しく頭を下げる。

 一方で、窓から外を眺めながら思いつくままに曲を口ずさんでいる少女は、彼が入ってきたことに全く気付いていないようだった。


「シィン」

 少女の名を呼ぶ。が、ピクリともしない。


「シィン?」

 もう一度、少し声を大きくして、呼ぶ。

 と、歌声がふつりと止み、霧が流れる風情で彼女が振り返った。


「神官長様」

 焦点の定まらない眼差しが、それでもキンクスに向けられて、彼女はやんわりと微笑んだ。ぼう、としたその眼は、どこか違う世界を見ているかのようだ。


「気分はどうだい?」

 彼は少女に歩み寄り、その頬に手を添える。

「わたし……? ……はい、良いです」

 彼女はゆるりと頷いた。

 たとえ死にかけていようとも、シィンは『悪い』とは言わないだろう。恐らく、今の自分の状態が『良い』のか『悪い』のかの判断もつかないに違いない。幼い頃の、コロコロと良く笑い、このせまい部屋の中に留めておくのが一苦労だった彼女の姿は、跡形もなかった。見事に仕上がった、『人形』だ。


 ――そう、これは、私だけの大事な可愛い人形だ。

 あるいは、籠の中に閉じ込められて飛ぶことを忘れてしまった小鳥だろうか。羽を切られたわけでもないのに、自分に翼があることを忘れた、小鳥。

 かつての闊達な少女はもういない。

 星が瞬く夜空にも似た瞳は、新月の曇天に成り果てた。


 キンクスは、彼を見上げてくるシィンの顔をジッと見つめ返した。

 本当に、『彼女』に似てきたと思う。その面立ちだけは、年経る毎に少女の母親に生き写しになっていく。

 だが、顔のつくりは瓜二つだというのに、その色は違う。その髪、その目の色は、未だに、吐き気を催すほどの憎悪を彼の中に掻き立てる。


 彼女に似ているから、この少女のことがこれほどまでに疎ましいのか。

 彼女に似ているから、この少女のことを、手放し難いのか。


 そんなことを考えるキンクスの唇に浮かんだのは、自嘲の笑みだ。

 けっして良い感情からのものではない彼の薄笑いにつられるように、少女も笑みを深くする。


(なんと、愚かな娘なのか)

 その身に仇為す者を、これほどまでに慕うとは。

 キンクスは冷やかな思いで彼女を見下ろしながら胸の中でそう呟いて、偽りの慈愛に満ちた声を出す。


「明日、儀式をしようと思う」

 視界の隅でラスが微かに身じろぎするのが見て取れたが、キンクスは構わずにシィンの反応を待つ。彼女は少し不思議そうに首をかしげてキンクスを見上げてきた。

「明日……?」

「そうだ。できるだろう?」

「はい……できます」

 彼女は、『否』とは言わない――言える頭を持っていない。

 だからこそ、愛おしいのだ。


「いい子だね。儀式を……お前の歌を、民は待ち望んでいるよ。彼らに祝福をもたらす為に、しっかりと謳いなさい」

「はい、頑張ります」

 キンクスの激励に、シィンは幼い子どものようにコクリと頷いた。そんな彼女を、彼は慈しむように目を細めて見下ろす。

 傍から見れば、その様は、慈愛に満ちた父と彼を敬愛する娘のようだっただろう。

 キンクスはもう一度片手を伸ばしてシィンの頬を撫でてやる。

「じゃあ、今日はよく休んで、明日に備えなさい。あまり喉を使ってはいけないよ」

「……はい」

 遠回しに歌うことを禁じられ、シィンは一瞬口ごもったが、すぐに頷いた。


 そんな彼女に、キンクスは満足そうに笑顔を向ける。

「お前の身体は、お前だけのものではないのだから、決して損ねることがあってはならないよ」

(――そう、彼女の全ては、この私のものなのだ。彼女を慈しむのも……彼女を傷つけるのも、私以外の者であってはならない)


 シィンは月、そして、キンクスは太陽だ。

 月は太陽なくしては輝かない。

 シィンも、キンクスの下でしか、存在してはならないのだ。


 いずれ、そう遠くない未来に、この少女は力尽きるだろう。だが、その最後の吐息が掻き消えるその瞬間まで、彼女の全てはキンクスのものだ。


 ほっそりとした彼女の頬から手を放し、キンクスは直立不動の姿勢を崩さないラスへと顔を向ける。

「では、神の子のことを頼んだぞ。しっかり守るように」

「は」

 六年間変わらぬ態度の護衛騎士は、いつものようにかっちりと腰を曲げて一礼を返してくる。伏せた顔に浮かぶ表情は、見えないが。


 キンクスはそんな彼を一瞥し、この豪奢な鳥籠を後にした。


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