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欠けゆくもの、満ちゆくもの  作者: トウリン


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32/40

略取

 自分の名を呼ぶシィンの声が聞こえたような気がして、ラスは寄り掛かっていた壁から身を起こした。執務室の扉の向こうに耳を澄ましてみたが、何も聞こえない。


 気の所為だったのだろうか。

 そう思おうとしたが、胸騒ぎは強くなる一方だ。


 ラスは意を決して扉に手をかける。神殿の扉には鍵などついておらず、執務室もその例外ではなかった。

 開いた隙間からも、物音は何も聞こえてこない――話し声さえも。


 一気に押し開けたラスに、キンクスが振り向いた。その腕には、力を失ったシィンの身体がある。

「神官長!?」

 咄嗟に駆け寄ろうとしたラスの目の前で、キンクスは、空いている方の手をシィンの首に添えた。

「止まれ」

 声で命じられるよりも先にピタリと立ち止まったラスは、ゴクリと喉を鳴らす。

「何を……」

「この細首。私の力でも簡単に捻れそうだな」

 ラスには、即座には、そのセリフの意味するところを理解することができなかった。


「!」


 その意図を察した瞬間、音を立てて血の気が引く。

「神官長、シィン様は決して神殿に対して仇為すおつもりはありません! ただ、皆のことを思って――ただそれだけをお望みなのです!」

 ラスは抑えた声で必死に言い募ったが、キンクスの手はシィンの首から動かない。その漆黒の瞳は暗く、どこまでも続く底なしの穴のようだ。

 彼の冷ややかな表情の中で、その唇だけが笑みの形を作る。

「『神の娘』は、どうやら父神に背くおつもりらしい。かくなる上は、もう一度、アーシャル様のもとにお戻りいただくしかあるまい」


「それは、どういう……」

 意味か。

 そう問おうとしたラスの前で、キンクスがシィンの首にかけた手に力を籠める。そのすらりとした指先が彼女の白く柔らかな肌に食い込んだ。


「やめ――!」

 ただの神官、一気に距離を詰めてしまえば、シィンを傷つけることなく助けることができるだろう。何の訓練もしていない人間が、そんなに簡単に人を殺せるわけがない。

 そう思っても、ラスは動けなかった。目の前に立つ優しげな男を、「普通なら」という言葉に当てはめてはいけないような気がしてならなかったからだ。

 キンクスから発せられる異様な威圧感に気圧されて、ラスは一歩も動くことができずにいる。


 ギリ、と奥歯を噛み締めたラスの前で、ふとキンクスが腕の中のシィンの顔に目を落とした。

「ご苦労なことだな。こんな人形ごときに構わず、私を斬ってしまえばいいのに」


 ポツリと、他者に聞かせようという意図が感じられない声でつぶやいたキンクスの顔に滲んでいたものの正体を、ラスはつかみ損ねた。


 渇望。

 憧憬。

 憎悪。

 絶望。


 陰と陽の感情が、目まぐるしく浮かんでは消え、また消えていく。その腕の中の存在が、この世で一番愛おしく、そして、この世で一番嫌悪するものであるかのように。


 だが、そんな複雑な色を見せたのは、ほんの一瞬のことだった。いつの間に合図をしたのか、十数人の衛兵が部屋になだれ込んでくる。

(くそ!)

 グルリと周りを取り囲まれ、ラスは腰の件に手を伸ばしたがそれを抜き放つことはできなかった。

 ハッとシィンに目を戻すと、扉が開け放たれる寸前にその身は抱き直されていて、キンクスこそが彼女を害そうとしていたことなど、影ほども残っていなかった。


「その男は護衛騎士でありながら『神の娘』を唆した者だ。捕らえて、そうだな、『神の娘』の部屋にでも閉じ込めておけ」

 言い捨てると、キンクスはシィンの身体を貴重な宝のように抱え上げて、部屋から出て行ってしまう。


「シィン様!」


 とっさに追いすがろうとしたラスを、左右から伸びてきた手が取り押さえる。反射的にそれを振り払い、相手を叩きのめしたが、残った衛兵たちに一気に押し寄せられ、抗う術を奪われる。


 キンクスとシィンの姿は、とうにない。


 ラスは、血がにじむほどにきつく、唇を噛み締めた。

 自分は、あの男をおかしいと思っていた筈なのに、何故、シィンの傍を離れてしまったのか。

 容赦なくのしかかる数名の男たちに硬く冷たい床に押し付けられ、ラスは己の浅はかさに臍を噛む他なかった。


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