始まりの、前 ~シィン~
シィンはふと窓の外に目をやり、きれいに晴れ渡っている空を眺めた。緻密な飾りが施された、美しい窓枠の外に見える、青空を。
彼女の記憶に残る限り、それは、常に、ただ焦がれるだけのものだった。どんなにその下に立ってみたいと願っても、『神の娘』であるシィンは、この大神殿からは出られない――出られないことに疑問を抱いたことは、ない。
シィンがまとうのは、月の色の髪に、夜明け間近の空の色の瞳。
茶色や黒色の髪や目が殆どを占めるこの国では、シィンのような色を持つ者は非常に珍しい。
まさに、夜空とそこに浮かぶ玉輪を体現している組み合わせに、産まれ出でた彼女を見た者たちは「月の女神の現身だ」と騒然となり、まだ乳も離せない頃からこの大神殿に引き取られたのだという。名前もシィンと、最高神アーシャルの愛娘であり月の女神でもある存在のものをいただいて。
それからずっと、シィンはここに居る――閉ざされた、この大神殿の中に。
ここでの生活は、何不自由ないものだ。
食事は柔らかな白パンに肉、スープも付くし、四季折々のよく熟れた果実も供される。月に一度の神喚びの儀式の前には甘い焼き菓子の『供物』も出る――もっとも、その菓子を食べると頭がボウッするので、シィンはあまり好きではなかったが。
まとう衣服だってしなやかで軽い、極上の布が用いられているし、身を飾る宝玉も毎日取り換えてもひと月違うものでいられるほどにあてがわれている。シィンは別に毎日同じものでもいいではないかと思うのだけれど、この大神殿の神官長であるキンクスが言うには、神を宿す身は常に美しくあらねばならないのだそうだ。なので、敢えて抗うこともせず、世話係が選ぶに任せきらびやかに飾り立てられる。
そう、不自由なんて、一つもない。
けれど、時折、シィンはこの豪奢な堂から飛び出してしまいたくなる。高台にある神殿の窓から遥か彼方で遊ぶ子ども達を眺め、彼らのように、大空の下を素足で草の上を走るのはどんな気分なのだろうかと、夢想する。
小さな窓から入るそよ風ではなく、もっと、髪を乱すような強い風を受けて。
神殿の奥深くに設えられた泉での禊ではなく、降りしきる雨に顔を打たれて。
紗を通した陽射しではなく、燦々と降り注ぐ陽光を全身に受けて。
そんなふうにできたなら、どんな気分になるのだろう、と。
シィンは、いつものように埒もないことを考えて、いつものように小さなため息をつく。こぼしてしまってからハタと気付き、慌てて両手で口元を押さえた。
けれど、そのごまかしは功を奏さない。ため息は彼女自身の耳にも届くかどうかというものだったにもかかわらず、部屋の隅に佇んでいたラスがすぐさまその鋭い眼差しを彼女に向けてきた。シィン付きの護衛騎士である彼は、些細なことも見逃さない。
「いかがされました?」
切れ長の目の中で光る黒曜石のような瞳が、ヒタとシィンに据えられる。一つに結わえられているその目と同じ色をした髪は、彼の気性を表しているかのように真っ直ぐだ。
ピンと背筋を伸ばしたラスは窓際にいるシィンと距離を取りながらも、彼女の一言に間髪を容れずに応じようと身構えて全身を耳にしている。
「何でもないわ。ただ、いいお天気だな、と思っただけ」
相変わらず四角四面なラスの硬い言い方に対して、シィンはやんわりと答えた。付け加えるようにして微笑むと、彼の頬はほんのわずかに柔らかくなる。
もう少し、シィンは何か気の利いたことを言いたかったけれど、つい先日『儀式』をこなしたばかりで、疲れの為か何だかぼんやりする。普段から巡りの悪い頭の回転は、いっそう鈍くなっていた。『儀式』の後、シィンは、いつもこんなふうになるのだ。
茫洋とした彼女の物言いは、人によっては、少し魯鈍に感じられるかもしれない。だが、三年前、彼女が十歳の時に儀式に立つようになって以来、ずっとその傍に付き従っているラスは、眉一つ動かさずに小さく頷いた。
「ここしばらくは、晴天が続いております。雨も適度に降り、作物の育ちも順調なようで。これも、シィン様の祈りの賜物に違いありません」
「そうかしら」
首をかしげたシィンに、彼は、今度は深々と頷きを返した。その全身からは、彼女への尊敬と崇拝の念が溢れ出している。言葉にせずとも、何が起きてもラスが身を賭してシィンを護るであろうことは、容易に知れた。
そんなラス――いや、彼だけでなく、神殿に集う民たちから注がれるそのひたむきな想いに、シィンは時に押し潰されそうになる。この身は、果たして、彼らがくれるものに値するほどの存在なのだろうかという疑問が頭をよぎるのだ。
自分は、ただ着飾り、微笑み、謳うだけ。
頭の回転の鈍いシィンには何かを考えることはできない。だから、命じられるままに『儀式』で謳うだけなのだ。
けれど、『儀式』といっても、シィン自身は、何をしているのかあまり覚えていない。おそらく歌を謳っている筈なのだが、『儀式』のための供物を口にしてから翌日目が醒めるまで、いつも、自分が何をしているのかが判らなくなってしまう。菓子を口にして、妙にフワフワとした幸せな感じになったかと思うと、次には寝台の上でぽかりと目を醒ます。
キンクスは、そうなるのはシィンに神が降りているからなのだと言う。シィンの意識がない間、謳っているのは彼女ではなく、神なのだと。
神官長である彼が言うなら、そうなのだろう。
幼い頃、誰に教わるでもなく旋律を口ずさみ始めたシィンに、キンクスは目を細めて喜んだ。その歌は神から授かったものなのだと。
最初はキンクスの前で歌うだけだったが、やがてその前に供物の菓子が与えられるようになり、そして、それは民の幸福を祈る為の『儀式』となった。
民の為に祈ることは、決して嫌ではない。むしろ、この愚鈍な自分にも役割があることを幸せに思う。この声で世に幸福が満ちるというならば、それに勝るものはない。
けれども。
時折、シィンは願う。
この閉ざされた神殿の中ではなく、どこまでも続く空の下で、腹の底から声を出し、ただ歌う為だけに歌えたら、と。
生まれた時から籠の中で育てられた鳥には、広い世界でさえずるのがどんな気持ちなのかはわからない。
それでも、澄んだ青空を垣間見るたび、その憧憬が込み上げてくるのだ。
その行き場のない思いを昇華するかのように、無意識のうちに、シィンの喉から歌がこぼれ始める。それは呼吸さながらの自然なもので、彼女には、自分が歌っているという自覚はない。我知らず、ひたひたと、湧き水のように彼女の奥から溢れ出す。
静寂に代わって室の中に満ちていくその歌声に、ひっそりと佇むラスはそっと頭を垂れた。