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欠けゆくもの、満ちゆくもの  作者: トウリン


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ラスの迷い

「シィン様、覚悟はよろしいですか?」

 アシャルノウンの町を一望できる丘の上、馬上のまま、ラスは腕の中にいるシィンを見下ろした。彼女の目は、整然と建物が並ぶ街並みと、その中心に鎮座する巨大な大神殿に注がれている。

「ええ、お願い。昼までには神官長にお会いしたいわ」

 背筋を伸ばし、白く輝く大神殿を見つめたまま、シィンは言った。その揺るぎない口調に、ラスは手綱をきつく握り締める。その微かな動きが伝わったのか、馬が落ち着かなそうにその場で足踏みをした。


「ラス?」

 肩越しに振り返っていぶかしげな眼差しで見上げてきたシィンに、彼はどうにかこうにか顎の力を緩める。

「自分の方が、覚悟ができていないのかもしれません」

 苦笑混じりのラスの返事に、シィンは目をしばたたかせた。次いで、笑みを浮かべる。

「勝手に出てきてしまったから、叱られないかと心配なの? だいじょうぶ、わたしのことを捜しに来てくれたんだって、ちゃんと説明するから」

 なだめる口調に、ラスはかぶりを振った。

「は? いえ、そんなわけでは……ただ、あなたが――」

 言いかけて、やめる。


 ラスの頭の中にあったのは、彼が出奔する直前に耳にした、神官長とその腹心との遣り取りだ。

(シィン様をお連れになったら、彼らはどんな反応を見せるのだろう)


 諸手を挙げて歓迎するのか、それとも。


 ラスは、彼に真っ直ぐ向けられている、明るい輝きを取り戻したシィンの瞳を複雑な思いで見返した。

 シィンには幸せになってもらいたい。ラスが心底望むのは、千の民の満足よりも、彼女一人の幸福だ。そして、ほんの数日前まで滞在していた村でのシィンは、それまでの十年間のどの時でも見られなかった、満ち足りた笑顔を浮かべていた。

 神殿に戻れば、きっとまた、あの輝きは失われてしまうのだろう。


(いや、それどころか――)


 彼女の身に、危険が及ぶこともあるかもしれない。


(そんなところに、戻っていいのか?)

 ラスの中に湧き起こるのは、不安と迷いばかりだ。この先には、シィンにとって危険しかないように思えてならない。

 そしてラスには、彼女がその危険を冒す理由が見いだせなかった。それがたとえ、その可能性があるというものであったとしても。


 シィンを探してあの里に辿り着き、そこで『儀式』のたびに彼女に与えられていた『供物』に混ぜられていた薬のことを聞かされ、神殿にいた時とは全く別物の輝くような笑顔を見せられて、彼の中にあった神への忠誠心など一瞬でキレイに吹き飛ばされてしまった。いや、元々、ラスの忠誠はシィンに捧げられていたものだったのだから、彼女に害をなしていた連中などむしろ倒すべき存在と言っても過言ではない。


 今、ラスが腕に抱いているシィンの身体は、まだまだ羽のように軽いとはいえ、少し前とは打って変わって柔らかさと少女らしい曲線とを取り戻している。


 だが。


(神殿に戻ったら、また……)

 虚ろな笑顔と焦点の定まらない眼差しと、触れたら壊れてしまいそうな肢体に戻ってしまうのではないだろうか。

 そう思うと、ラスは今すぐ馬首を翻してもと来た道を戻ってしまいたくなる。


 カイネがシィンを連れ去ったことは業腹だし、知れば知るほど彼のことは気に食わなくなってくる一方だが、ごまかしようのない感謝の念も確かにあった。彼は、シィンを拉致することで、彼女を救ってくれたのだ。それは明らかな事実で、彼がそうしてくれていなかったら、今頃彼女は儚くなっていたかもしれない――そんな考えが頭をよぎって、ラスの背筋におぞけが走った。


「ラス、どうしたの?」

 問いかけてきたシィンの眼差しは、いぶかし気を通り越して、ラスのことを案じるものになっている。

「いいえ、なんでもありません」

 顔の筋肉を総動員して作った笑顔でそう返したが、その裏でムクムクと膨らんでくるのは、里を出てから彼の中で膨らむ一方の願望だ。それは、夢と言ってもよいものかもしれない。


 もしもシィンが「やっぱり止める。ここから逃げ出したい」と一言こぼしてくれたなら、即座に踵を返してどこか遠くに連れ去ってさし上げるのに。

 彼女はこれまで、過剰な責務を果たしてきたのだし、更なる重責を負わせるのは間違っていると、心底からラスは思っていた。


 ――自分と、誰も知らないところへ行きませんか。

 どこに行こうが、どんなことになろうが、この身に変えても守りきってみせるから。


 舌の先まで、そんな台詞がこぼれ出しかけた。

 が、それが実際に声になる前に、シィンが彼の思惑を一蹴する。


「おかしなラス。早く行かなくちゃ、みんなが来ちゃう。急ごう?」

 軽く首を傾げた、可憐であどけない顔。その中で強い決意を秘めて煌く眼差しが、真っ直ぐにラスを射抜く。


 その貫くような視線は、彼の中に渦巻く迷いを打ち払おうとしているかのようで。


(逃れられない、か)

 ラスの口から洩れたのは、思っていた言葉ではなく、小さなため息だ。


(この方の意志を、自分が奪うわけにはいかない)


 たとえどれほどそうしたいと思っても、彼の卑小な欲望でシィンの望みを押し潰してしまうわけにはいかないのだ。


「はい、そうですね。……行きましょう」

 そう答え、ラスは手綱を引いて馬首を巡らせた。


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