彼女を追って
ラスがシィンを捜す為に神殿を出奔してから一月近くが過ぎた。
神都アシャルノウンを出てから何の根拠もなく南へ下ってみたものの、手がかりは、未だ皆無だ。
シィンの容姿が人目につかないわけがない。ひとたび誰かが目にすれば、それはたちまち噂になるはずだ。彼女がこの世から消え去ってしまったというわけでさえなかったら、いずれ『神の娘』のことは自然と耳に入ってくるだろう。そんなふうに思っていたが、それはあまりに楽観的過ぎたらしい。
ラスは立ち寄った酒場を兼ねた宿屋で食事を摂りながら、忸怩たる思いを噛み締める。
何故、シィンは姿を消したのか。彼女自身の意思なのか、それとも誰かに連れ去られたのか。
神官長キンクスが信者に向けて告げたのは、シィンが消えたあの晩に集った面々に向けて口にしていたとおりのことだ。彼は、『神の娘』シィンはしばし父の下へ帰ったのだと布告し、民は皆それを信じ、感涙にふけった。
だが、キンクスとナムの密話を耳にしてしまったラスは、とうていそれを鵜呑みにすることなどできやしなかった。第一、儀式の後、彼女は自分の足で立つことすらできていなかったではないか。
(自ら姿を消すなど、無理に決まっている)
穏やかな笑みを浮かべて耳当たりの良いことを口にしていたキンクスの姿が脳裏に浮かび、ラスは奥歯を軋ませる。皆、神官長の言葉を疑いもせず、シィンの身を案じようとしない。そんなことを言い出す方がおこがましいとでも言わんばかりだ。
きっとラスも、キンクスに断ってから神殿を出ようとすれば、止められていたのだろう。こうやって、黙って出発したことは正しいことだったのだ。
とは言え、唯一の手掛かりと言えそうなものは、蛮族の話のみ。しかし、それすら、本当にシィンの失踪と関係があるのかどうかも判らないのだ。だが、それでも、ラスはひたすら奴らの情報だけを追い続けていた。
そうして知ったのは、都鄙の間の落差である。
都に生まれ、都で育ったラスが蛮族の存在を知ったのは、神殿でのあの二人の会話を耳にした時だった。それまでは、最高神アーシャルに護られたこの国を侵そうとするものがいるなど、夢にも思っていなかった。この国は隅々に至るまで、常に平和で、豊かで、幸福に満ちているのだと、そう信じていたのだ。
だが、こうやって辺境の地をさ迷い歩くうちに、それがただの幻想に過ぎなかったことを思い知らされた。
同じようにアーシャルに信仰を捧げ、同じように大神殿に供物を届けているというのに、中枢から遠く離れたこの地では、災害に、そして蛮族に、常に脅かされていた。
(果たして神殿は、忠誠を誓うのに値するものなのだろうか)
信仰は、民に恩恵をもたらしてはいない。少なくとも、貢いだものに値するほどの実益は。
一度忍び込んだ疑念は、日を追うごとにラスの心の中に染み込んでいく。
そんな彼の中で、唯一変わらないものはシィンへの想いだった。
彼女が神の現身などではないことは、半ば以上受け入れ始めている。シィンは、ただの少女だ。何の力も持ってはいないというのに、自分ができる精一杯のことで、皆の幸せを願っていた、ただの少女だ。
そもそもラスは、彼女に奇跡を望んでいたわけではない。神秘の力に心を奪われたわけではなく、あの優しい心根に惹かれたのだ。
だからこそ、シィンに特別な力がないと理解した今、ラスはより一層、彼女を捜さずにはいられない。
「今頃、どのようなお辛い目に遭われているのか」
唸りに近い声で、ラスはそう呟いた。
もしも本当に蛮族に連れ去られたのならば、あの弱りきった身体がいったいどうなっていることだろう。そう考えると、ラスは居ても立ってもいられなくなる。
ぶどう酒が入った器を握る手に、無意識のうちに力が入った。
と、不意に。
トントン、と。卓の隅が叩かれた。
ハッと顔を上げると、彼を見下ろしている、人好きのする笑顔を浮かべた一人の男の視線と行き合った。
「失礼、ここ、いいかい?」
酒場に人は多いが、満席というほどではない。他にも空いている椅子はあるのに、何故、わざわざここを選ぶのか、と、ラスは眉間に皺を寄せる。
「ああ、ゴメンゴメン。ちょっと、話があってさ……『蛮族』のことで。君、知りたいんだろう?」
最後の一言は、グッと潜めた声だった。
「何か、知っているのか?」
身を乗り出したラスに、男はニッと笑う。
「まあまあ、落ち着いて。取り敢えず自己紹介といこうか? 僕はケネス。君は?」
迷いはほんの一瞬のこと。
今の彼は、まさに藁にもすがりたいところなのだ。
「自分は――」
ラスは、口を開いた。




