生まれた想い
そんなことがあってから二日ほどもすると、また、シィンの様子が変わった。
あんなに物を投げ、喚き、近寄る者には誰にも彼にも当たり散らしていたというのに、その日の朝に目覚めた彼女は憑き物が落ちたかのように静かになったのだ。
あれほど欲しがっていた供物のことをピタリと口に出さなくなり、代わりに、自ら食事を摂るようになった。
戸惑いを含んだ眼差しでカイネやローグ見つめ、問いかけにはポツリポツリと答えるようにもなった。カイネに対してはまだ身構えた感じが残っているが、ローグに向けては、笑顔を見せる時もある。喋らない彼とも意思疎通ができているように、クスクスと小さく笑い合うのだ。そんなとき、彼女はローグよりも幼く見えて、改めて、カイネはこの少女を恨んでいたことが馬鹿らしくなる。
そんなふうにシィンが落ち着きを取り戻してから、七日ほどが過ぎて。
(ホント、神殿の奴らは何でこいつを『神の娘』だなんて思えたんだ?)
今も、小鳥が餌をついばむようにチマチマと食事を口に運んでいるシィンを横目で見ながら、カイネはため息をつく。割と好き嫌い――というよりも食わず嫌いがあって、手を出さない料理があると、ローグに注意をされるのだ。そんなふうに世話を焼き、世話を焼かれるうちに、二人はすっかり打ち解けたようで、いつしかまるで兄弟のようになっていた。もっとも、その立場は年齢とは逆転し、兄と妹という風情だったが。
だいぶ元気にはなったから、そろそろ彼女にこれからどうしたいのかを訊かなければならない。
しかし。
(もしも、神殿に戻りたいと言ったら……)
カイネはムッと眉間にしわを寄せた。
シィンをあそこに戻したら、また、薬を使われるに違いない。そうなることが判っていても、本人が望めばそれに応じるべきなのだろうか。
と、カイネの渋面に気付いたらしく、ローグが卓をトントンと指先で叩いた。そちらを見ると、隣のシィンと一緒になって、「何?」というように小首をかしげている。
「あー……」
二人の視線を受け、カイネはバリバリと頭を掻く。
今出す話題ではないだろうが、ごまかすものでもないかもしれない。
「シィンは、これからどうしたいんだ?」
単刀直入にそう訊いたカイネに、シィンが目をしばたたかせた。
「どう?」
「ああ。アシクには、お前が元気になったら神殿に帰るかどうか、決めさせろって言われてるんだ」
「神殿……」
シィンは手にしていた匙を下ろす。うつむかれてしまった表情は読み取れず、カイネは少し苛々した。
「帰りたいのか?」
むっつりとそう問うと、シィンが顔を上げた。
「わたし……」
その濃紺色の瞳に浮かんでいるのは迷いだ。つまり、彼女の中には帰るという選択肢も浮かんでいるということで。
(もしかして、帰りたいのか?)
カイネの脳裏に浮かぶのは、ここに連れてきたばかりの頃のシィンだ。今とは全然違う、痩せ細って、今にも飢え死にしそうな狂犬のようだった、彼女。
(また、あんなふうになってもいいってのか?)
苛立ちにも似た何か駆られ、カイネは立ち上がる。倒れんばかりの勢いで動いた椅子が立てた音に、シィンの肩がビクリとはねた。見開かれた大きな目が、彼を見上げている。そんなふうに彼女を怯えさせた自分を内心で罵りつつも、謝罪の言葉は口に出せない。
代わりに、カイネが吐いたのは、心にもない台詞だ。
「帰りたいなら、送っていくから」
鼻息を荒くしたローグに睨まれたが、カイネはそれを無視して扉に向かう。
「オレ、もう寝る」
言い置いて、振り返りもせずに寝床がある部屋へと引っ込んだ。
ほとんど不貞腐れるようにして布団を被りはしたものの、気分がささくれ立ってなかなか睡魔は訪れない。輾転反側しながらいつしか意識が途絶えていたカイネだったが。
草木も眠りに落ちるような夜更けに、彼はゆさゆさと揺さぶられる。
「ローグ……? 何だよ?」
暗がりで目をこすり、ブツブツと枕元に立つ弟分に文句を言った。まさか、便所に行きたいから付いて来いというわけでもあるまいに。
渋々起き上がり、生あくびを噛み殺す。
と、更にぼやこうとしたカイネの耳に、それは届いた。
小さな、泣き声。
「あいつ、か?」
そう言えば、ラミアは眠りについても何か言っていなかっただろうか。薬が抜け始めると、しばらくの間は悪夢を見たり、眠れなくなったりするかもしれない、と。
一気に眠気が引いたカイネは毛布を跳ね除けると、シィンの部屋に急ぐ。
「シィン?」
扉越しに声をかけても、返事はない。だが、泣き声は依然として続いていた。眠りながら泣いているのか、それとも、ただ返事をしないだけなのか。
少し迷ってから、カイネは扉を開けた。
薄闇の中、寝台の上に小さく縮こまっている、影。
入り口では判らなかったが、近付いてみると小刻みに震えているのが見て取れた。
「シィン?」
寝台の傍に立ってもう一度名前を呼んでみるが、ピクリとも反応せず、すすり泣きも止まらない。どうやら、眠りながら泣いているようだ。
流石に夜は独りにしていたから、気付かなかった。夕食時の遣り取りが何か影響しているのか、あるいは――もしかしたら、ここに来てからずっとこんなふうだったのだろうか。
もしもそうだったのなら、と思うと、カイネの胸は荒縄で縛り上げられたように苦しくなった。
(ちゃんと、確認してやるべきだった)
悔やむ気持ちは強けれど、後悔先に立たずというものだ。役に立たない自責の念より、取り敢えず、今をどうするかだ。
だが――どうしたものか。
逡巡はわずかな間のものだった。
カイネは意を決すると、寝台に腰を下ろし、丸くなった毛布の塊に腕を伸ばす。小さく、固く手足を縮めたその様は、まるで何かから逃げる為に自分自身を抱き締めているようだ。すがるものは他に無い、といった風情で。
毛布ごと、カイネはシィンを膝の上に抱き上げる。ようやく食べるようになってきたと言っても、その身体は、まだまだ重みを感じられない。毛布越しでも骨が触れる華奢な背中を、ゆっくりと、何度も撫でた。
そうしているうちカイネの胸の内に湧き出してきたものは、生まれて間もない仔猫に触れている時に感じるものに似ている。ただ撫でるだけでは足りない気がして、彼はその手の中に包み込んでやりたくなった。
「大丈夫、大丈夫だ」
シィンが何を恐れているのかは判らない。だが、カイネは身を屈め、膝に抱いた彼女に覆い被さるようにして、そう囁き続けた。
どれほどそうしていただろう。次第にすすり泣きは小さくなっていき、強張っていた手足も、心なしか柔らかくなったようだった。
寝息が完全に穏やかなものになるのを待って、カイネはゆっくりと彼女を寝台に戻す。毛布から覗く顔は、まだ頬に涙の跡は残っていたが、柔らかく緩んでいた。
彼はその寝顔をジッと見下ろす。そして、決めた。
(神殿には、返さない)
シィンが帰りたいかどうかは、関係ない。
彼女を神殿に渡すべきではないと、カイネは思った。渡してたまるか、と。
彼は濡れたシィンの頬を、親指でそっと拭う。そうして立ち上がると、戸口に佇んでいたローグに目で合図をし、静かに部屋を後にした。




