密談
最初に異変に気付いたのは、当然のことながら護衛騎士であるラスだった。
深夜、定期の見回りの為にシィンが休む部屋に赴いた彼は、扉の前で眠り込んでいる張り番に眉をひそめる。今まで、こんなことはなかった筈だ。軽くゆすってみたが、目覚めそうになかった。胸騒ぎを覚えつつ、静かに扉を押し開ける。
中に人の気配はない。
儀式を終えた日のシィンはまさに泥のように眠るから、こんなふうに静まり返っていることはおかしなことではない。だが、彼女の姿を確かめずに下がることはできなかった。
ラスは足音を忍ばせて奥の部屋に行き、そして、冷たくなった空の寝台に仰天する。
前日、確かこの手で彼女を寝台に横たえたのだ。それなのに、今、そこはもぬけの殻で、完全に冷え切っている。
「シィン様!?」
名を呼ばわりながら慌てて部屋中を駆けずり回ったが、どこにもその輝かしき姿はない。
入口に戻って眠りこけている張り番を今度こそ叩き起こし、キンクスの下へと走らせた。
いつもは静謐なこの神殿の最奥が、にわかに騒がしくなる。
「いったい、何事だ」
姿を現したキンクスは、ざわめきに不快そうに眉をひそめると、ラスに問うてくる。
「それが……シィン様が……」
何と答えてよいのか判らず、ラスは口ごもる。
埒が明かない護衛騎士にしびれを切らして、キンクスはラスを押しのけるようにして寝台に歩み寄った。
「『神の娘』は?」
ひやりとした、声。
室内の空気がピリッと音を立てたかのようだった。その一瞬で、部屋の中はシンと静まり返る。
「自分が来た時には、もうおられませんでした」
一つ息を呑み込んでラスがそう答えると、キンクスは微かに唇を引き結んだ。もとより無表情なその顔が、より一層、内心を読みづらいものになる。
再び彼が口を開くまでには、しばしの時を要した。やがて発せられた言葉に、一同にざわめきが走る。
「『神の娘』は、神々の元へ帰られたのだ」
どよめく皆を睥睨して、キンクスは続ける。
「そうだろう? こんなふうに何の形跡も残さずに消え去るなど、神の力でしか為し得まい」
「しかし! しかし……何者かが侵入して連れ去ったということは……」
緊張を押し破ってのラスの進言に、神官長は冷ややかな眼差しを向けた。
「この神殿が無頼の者に侵され、その上、まさか、『神の娘』が人ごときに害されるとでも?」
「え、あ、いえ……」
それは、神の力を疑うことだ。ラスは返事をできずに口ごもる。
「シィン様は、己の意志で消えたのだ。彼女がその気になれば、いずれ帰ってこよう。我々にできるのは、その時を待つのみだ。それまで、儀式も私一人で執り行う。皆には、シィン様はしばらくの間アーシェル神の下で祈りを捧げることになったと言っておこう」
キンクスは淡々とそう告げると、まるで何事もなかったかのように部屋から出て行ってしまう。まるで、シィンがいなくなったことなど、取るに足らないことかのように。
残された神官たちは、それぞれに顔を見合わせながらも、キンクスの言葉にさして疑問を抱いていないのは明らかだった。
だが。
(本当に、それでいいのか?)
ラスは反論をこらえて両の拳を握り締める。
確かに、シィンは『神の娘』だ。だが、六年間を共に過ごし、彼女が特異な力を見せたことはなかった――あの素晴らしい歌声を除いては。むしろ、いつも茫洋としていて、侵入者に襲われても、何の抵抗もせず連れて行かれてしまいそうな気がする。
キンクスの後を追おうかどうしようかと迷っているラスの視界の隅に、先んじて部屋を出ていく一人の神官の姿が映った。確か、名はナムといったか、キンクスの腹心の筈だった。
少し迷った後、彼がキンクスに何か言うのならば、とラスも急ぎ足で追い掛ける。自分一人でもいいから、シィンの捜索に行きたい。その許しを請うつもりで。
意外に彼らは距離を稼いでしまったのか、部屋を出てすぐの廊下には、どちらの姿も見受けられなかった。
早く追いつかなければ、とラスも小走りで廊下を行く。
と。
少し先の廊下を曲がった先から、押し殺した低い声が聞こえてくる。感覚が鋭敏なラスでなければ、気付かなかっただろう。まるで人に聞かれることをはばかるようなその囁きに、自ずとラスの足も鈍る。角に身を潜め、耳を澄ませた。
「何度も言わせるな。あれは自らの意志で神の元へ帰ったのだ」
「しかし、蛮族どもが……」
「かどわかしたとでも? 奴らが襲うのは辺境の村が精々だ。ここまでは近付けまい」
「捜索隊だけも、出してみては――」
「くどい。そのようなことをすれば、むしろ神殿の権威が失墜する。民は神の力に疑問を抱くだろう。この件は終わりだ。――いずれにせよ、あの頻度で儀式を行っていれば、そうもたなかっただろう。皆の前で醜態を晒すよりも、人知を超えた力で姿を消したとする方が、遥かにいい」
そして、遠ざかっていく足音が一つ。
チラリと伺うと、ラスに背を向けて佇む人影がある。キンクスだ。
ラスはもう一度壁に身を隠し、今の遣り取りを理解しようとした。
だが、その答えが出る前に、小さな呟きがラスの耳に届く。
「いっそ、死んでいてくれれば話が早いが」
ラスは、声をあげそうになった己の口を、とっさに両手で覆った。
たった今耳にしたあの言葉の数々は、いったいどういうことなのか。
彼は身を強張らせて必死に考えた。だが、その結果辿り着く答えは、どう進めても、変わらない。
――神官長は、彼女が消えたことを、憂えるどころかむしろ歓迎している。
それに、『もたない』とは、どういう意味か。
それすらも、すぐに答えは出た。
儀式の度に、泥のように眠り込んでいたシィン。目覚めた後も、ぼんやりとして。
頻繁に儀式が行われるようになった最近では、目に見えて反応は鈍く、元々華奢だった身体は更に肉が薄くなり、明らかに衰えが見えていた。
ラスはそれに気付いていたが、気に留めなかったのだ。神を降ろすということは、そういうものだろう、と受け止めて。だが、『神の娘』であるシィンにとって、それが害になるとは思っていなかった。
だが、しかし。
今の二人のやり取りを振り返るに、短期間で儀式を繰り返すことがシィンにとって良くないことを、知っていたとしか思えない。
その瞬間、ラスの中には彼らに対する疑念が芽生えた。
真偽を明らかにするには、シィンを見つけ出さねばならない。
この時の彼からは、もう、彼女が神の元に帰ったなどという戯言を信じる気持ちは完全に消え失せていた。
――シィン付きの護衛騎士ラスの姿が大神殿の中から消えたのは、その翌日の事である。




