月下に咲く花
夜も更けた頃。
カイネとローグは再び大神殿を訪れていた。本堂の奥、一般の民は立ち入ることができない領域を目指して。
あの後、人混みの中で漏れ聞こえてきたことから察すると、歌を謳った少女がやはり『神の娘』シィンだった。説教をしたのは、神官長のキンクス。今の大神殿は、この二人で成り立っているようなものらしい。
カイネの脳裏に、昼間の光景がよみがえる。
あの狂乱の歌声と、耳当たりの良い説教と。
どちらがより重要なのかは、明白だった。
奪ってやったら、どちらの方が、より大きな衝撃を与えられるかは。
大神殿の外側は昼間のうちに見て回っていて、忍び込めそうなところも見つけてある。僻地の労苦などつゆ知らず、きっと、この地は平和そのものなのだろう。侵入者や襲撃者の存在など考えてみたこともないのか、豪華な建物にこっそりと入り込むのは、意外に簡単そうだった。
カイネとローグは正面からグルリと横に回る。塀の高さは、長身のカイネが手を伸ばしてギリギリ届くかというところだ。しばらく歩き、塀の上から鬱蒼と枝が伸びている場所までやってきた。その内側には木が茂っているだろうから、中に人がいても見つかりにくいだろう。
「よし、行くぞ」
素早く辺りを窺い、人目がないことを確認して、カイネはローグに顎をしゃくった。頷いたローグは、カイネが両手を組んで作った足場を取っ掛かりにして身軽く塀の上に登る。次いで、彼が垂らした縄を伝ってカイネも後に続いた。
予想通り、塀を乗り越えてしばらくは、かなり庭木が密生していた。
幹に隠れながらそこを通り抜けると、本堂に負けず劣らず豪勢な建物が見えてくる。
そろそろ、見つからないように気を付けなければ――そんなふうに気を引き締めたカイネたちだったが。
「ここ、人がいるんだよな?」
思わずローグに訊いてしまったほど、中は警備が薄かった。
カイネたちも警戒しながら歩いているとは言え、全く人の姿を見かけないというのは、どういうことなのか。
まさか神の領域を侵す者がいようとは微塵も考えていないのだろうが、それにしても、見回り一人いないとは、無防備にもほどがある。カイネたちにとっては好都合だとはいえ、平和ボケもいいところではないかと、呆れ返った。
とにもかくにも、カイネたちは誰にも見咎められることなく奥へ奥へと進む。
やがて二人は、一際大きな扉を持つ部屋へと辿り着いた。そこには、他の部屋にはなかったもの――張り番がいる。
「よし、アレを出せ」
太い柱の陰に身を隠しつつ、カイネは張り番から目を離すことなく、声を押し殺してローグに指示を出す。彼は腰に下げた巾着を探ると、小瓶を二つ取り出した。カイネとローグはしっかりと布で口と鼻を覆うと、その瓶の中身を混ぜ合わせる。と、そこから微かに煙が上がり、次第に辺りに立ち込めていく。
隠れ里の薬師特製の眠り薬は、程なくして張り番を前後不覚に陥らせた。
カイネは目でローグに合図を送ると、先に立って歩き出す。
扉に鍵はかかっておらず、そっと押してみるとその大きさからは予想外にすんなりと、軋み一つ立てずに開かれた。カイネとローグはスルリと身を滑り込ませ、すぐに閉める。
部屋は素通しの二間の続きになっていて、奥の方に大きな天蓋付の寝台が見えた。
そこにいるのは、神官長か、それとも――。
外への警戒にローグは入り口付近に残し、足音を忍ばせて、カイネは寝台に近付く。見えてきたのは、夜の闇の中でも仄かに光を放って見える、月の色の髪。
『神の娘』だ。
息を詰めて覗き込んでみると、その寝顔はあどけない少女のもので、とうてい、あの狂おしい歌を謳った存在と同じものとは思えなかった。よほど深い眠りの底にいるのか、彼女はピクリともしない。
年の頃は、カイネよりもいくつか下、ローグよりは上に見える。
その不思議な髪の色もさることながら、面立ちも今まで見たことがないほど整っていた。数年に一度、満月の夜にだけ咲く月下蘭という花がある。母が育てていて、カイネも一度だけ見たことがあったが、この少女はあの花を思い出させた。
(本当に、生身の者なのか?)
ふとそんな疑念が沸いたカイネは、無意識のうちに手を伸ばし、気付いた時にはその頬に触れていた。
ちゃんと、温かい。カイネの口から何故かホッと吐息がこぼれた時、彼女の睫毛が、微かに震え、ゆっくりと目蓋が上がった。
しまった、とカイネは身を強張らせたが、少女は声を発することもなく、ぼんやりとした眼差しを彼に向けるだけだった。そして、物言わぬまま、再びその目を閉じる。
確かに、彼女はカイネの姿を見た筈だった。にも拘らず、この無反応ぶり。
呆気に取られるほどの警戒心の無さに、カイネは眉をひそめてしまう。彼にとっては願ったり叶ったりだが、これほどまでに無防備でいいものなのだろうか。それが『神の娘』故なのか、それとも他の要因がある為なのかは判らないが、取り敢えず、彼はすべきことを済ましてしまうことにした。
背負った鞄から縄と布を取り出し、まずはそっと猿轡を噛ませる。
それでも、目覚めない。
次いで、縄で両手両足を縛り上げた。
が、やはり懇々と眠り続けている。
怪訝に思いながらもその身体を肩に担ぎ上げた。遠目でも小さく華奢に見えたその肢体は痛ましいほど痩せていて、とても、軽かった。




