6 武庫川又造
その電話は、六月になって受けた。
武庫川親方、本名、里井又造は、岡山県、昔の国名で言えば、美作国の領域が彼の出身地だ。彼は三人兄弟の二番目。兄の名は、初造。弟の名は、更造。
力士になったのは、又造のみ。兄は高校教師。弟は役所勤めと、至って固い職業だ。ふたりとも地元に残っている。
兄の初造からの電話だった。
聴けば、兄の、高校一年生の長男が、相撲取りになりたい、と言い出し、武庫川部屋への入門を希望しているという。従兄の残した事績に大変な感銘を受けたとのことであった。
兄は、長男を連れて、今度の休みに上京すると言った。
「いえ、それには及びません、兄さん」
又造は答えた。
「私がそちらに迎えに行きましょう」
入門を希望する甥を迎えに、武庫川は、故郷に向かった。
兄に伝えていた時間より、かなり早い時間に、武庫川は、最寄り駅に到着した。
今夜は、相当に遠い親戚まで、兄の家に集まってくるという。
そして、明日は。入門を希望する少年に対する激励パーティー。
武庫川は、久しぶりの故郷を、ひとりで歩いてみたかったのだ。
タクシーを降りてから、町をしばらく歩き、吉井川のたもとに着いた。
又造の少年時代と変わらぬ流れがそこにあった。
この町は、昔は、相当に栄えた鉱山町だったそうだ。だが、その繁栄は、祖父の世代まで。
父が大人になった頃には、その最盛期はもう過ぎていた。
平成になって間もなく、閉山。
町のシンボルだった中央立坑も、今はもうない。
この静かな町で又造は育ち、十五歳の春に、夢を抱いて上京した。
もう二十四年も前のことだ。
二十四年、その前半は力士で、その後半は親方だったわけだ。
彼は、ふと自分の今の年齢に二十四を足してみた。
まだ、親方を停年になる年齢にも達しないことに気付いた。
征士郎があんなことになって、私の人生ももう終わったような気になっていたが、私はまだ、若いのだな。これからの人生でまだ何か夢を持つことがゆるされるのだろうか。
私の部屋に入門を希望する少年がいる。武庫川部屋は、これからも続くことになった。
師匠の夢と言えば、最高の力士を育てることだな。
武庫川は、笑いだしたくなった。
最高の力士だと。
私がこれまでに持った、たったひとりの弟子は、今をときめく大横綱に、自分は及ばなかったと言わせた力士だ。
そんな夢を今さら見れるか。
羽黒蛇は、引退届を撤回したと、数日前に又造は聞いた。が、それが、自分が横綱に告げた言葉が効を奏したのだ、とは、武庫川には思えなかった。
息子のために、横綱には相撲を続ける義務がある、か。
何て薄っぺらな言葉だろう、そんな言葉で人の心が動くものか。
武庫川の心に、わが子の姿がわきあがった。
それは、あれからずっと心の奥深くにしまいこんだ、相撲に憑かれたあとの征士郎の姿だった。
征士郎、横綱が、言っていたぞ。お前と対戦した時、ご子息と私は、二人だけで別の境地に立っていましたと。
征士郎、お前は一体どこに行っていたのだ。
お前は何を目指したのだ。
お前が目指したものの先には一体何があったのだ。
それは、本当に目指さなければいけないものだったのか。
お前は、あの日、あの土俵で最後の瞬間に一体何を見た。
征士郎、父さんに分かるように教えてくれ、征士郎。
答えはない。
だが、又造には分かっていた
答えはすぐそばにある。
その答えを認めるのは、この私がその答えを認めてしまうのは、征士郎があまりにも可哀想だ。
里井征士郎は、私の息子だ。たったひとりの大切な大切な我が子だ。
だが、力士金の玉征士郎は、存在させてはならなかった。
私は、お前が五歳の時から、たったひとりの親として、お前のことを精一杯可愛がった。母に去られたお前が不憫だったしな。
父さんは、今頃になって思うことがある。
ひとがやらなければならない俗事のすべてを振り捨てて、ただひたすらに、己が定めた高みを目指す。それは許されることではないのではないのか。
お前はひとが踏み込んではならない場所に、足を踏み入れてしまったのではないのか。
でも俺は、結局、何もできなかった。何もしなかった。許してくれ、許してくれ、征士郎。
その道を進んではいけないと、父さんは、この私の全てをかけて止めなければならなかったのだ。
力士、金の玉征士郎。
その名は、相撲の歴史における、一瞬の光。一陣の風。
風は吹き荒れ、風は吹き去った。
あとに残るのは、たったひとつの伝説。
だが、伝説は真実ではない。
ひとつの伝説のもとに数多の、深く、重い真実がある。
ひとは、その真実の中から、己の心が求めるものだけを選んで、伝説を創る。
何年か振りに見る甥は、征士郎にあまり似てはいなかった。
ちょっとはにかんだような仕草をした。
相撲取りになりたいの。又造は訊ねた。
少年は、黙って頷いた。
普通の、ごく普通の、平凡な弟子の、普通の、ごく普通の、平凡な師匠になる。
それが、又造のこれからの人生の夢だ。
その夢の正しさを、又造は疑わなかった。
武庫川部屋への入門希望者は、他にもいた。今年、社会人になったもの。大学在学中のもの。高校二年生。前二者は、いずれも相撲の経験者である。プロの世界に進むのはあきらめて、それぞれ別の進路を選んだものの、金の玉征士郎の相撲を観て、あらためて大相撲の世界に飛び込むことを決心したとのことだった。
日は進み、入門希望者が武庫川部屋に参集した。まもなく名古屋場所。名古屋に向かう前日、四人の新弟子が、部屋の居間に並ぶ。みんな目を輝かせて、武庫川のほうを見ている。
私と征士郎は親子だった。だが、征士郎は私の弟子だったのだろうか。私は征士郎の師匠だったのだろうか。いや、世間でいうところの弟子ではなく、師匠でもなかった。征士郎に師匠らしい言葉は、何もかけることはできなかった。
でも、ここにいる四人は紛れもなく私の弟子だ。
武庫川は、この新弟子四人が、愛おしくてたまらない。
これが師匠になったものの気持ちなのか。武庫川にとっては初めて知る感情だった。
横には弘子が座っている。いささか緊張気味だ。又造は少し不安だ。一風変わったセンスの持ち主だし、遊び好きでもある。部屋のおかみさんとしてやっていけるのだろうか。この四人の母親代わりが務まるのだろうか。でも一緒にいたころも家事はてきぱきやっていた。大丈夫なのではないだろうか。
武庫川は、簡単に師匠としての挨拶をすませると、弘子に対して
「お前も、この子たちに何か言ってやりなさい」と促した。
「皆さん」
弘子が話し始めた。
「皆さんの四股名は私が付けますからね」
別れていた十四年の間で、弘子のセンスは、少しは洗練されたのだろうか。
そうであってほしい。
武庫川は可愛い弟子たちのために、切に願った。