5 佐藤昌健
横綱羽黒蛇は、師匠である庄内親方に引退することを告げ、同時に、相撲協会に引退届を提出した。
協会は、驚愕した。師匠が、理事長が、何度も翻意するよう、説得したが、羽黒蛇の決心は変わらなかった。
ただひとり、届けを提出した数日後、羽黒蛇の元に訪れた武庫川親方の言葉には心が動いた。
息子のために、武庫川は、そう言った。横綱は、相撲を続ける義務があると。
羽黒蛇は、その言葉を心に刻み、あらためて熟考した。が、やはり、相撲をやめる、という決意は変わらなかった。
羽黒蛇には、人生の師とも呼ぶべき人物がいる。名は、佐藤昌健。六十歳代半ば。とある思想団体の主宰者と言うべき立場にいる人物であるが、その団体自体は、あまり知られていない。
世間的に高名な人物ではなかった。
が、政財界、学界、芸術界に至るまで、彼を師と仰ぐ者は多く、この国において、隠然たる影響力を持っていた。
二年前、後援者に紹介を受け、この人を知った羽黒蛇もまた、魅せられた。以降、年に数回その元を訪れていたのである。普段は寡黙な羽黒蛇も、この人に対しては、しばしば自らを語った。
かつて、長田記者に話した、羽黒蛇が考える、相撲の三つの理想についても、この人には語っていた。加えて、自らが目指すもの。また己に課している土俵の上での信念なども披歴していた。
いつも、ニコニコと羽黒蛇の話を聴く師であったが、この信念についての話の際は、瞬時、怪訝な顔をして、何かを言おうとしたが、結局何も言われなかった。
この師に対しては、引退することを報告しなければならない。
羽黒蛇は、佐藤邸を訪れた。
居室で、羽黒蛇は、報告した。師は、何も言われなかった。
羽黒蛇は、問わず語りに自分の心境を話した。師の前では、どうしても饒舌になってしまう己を自覚していた。
武庫川親方以来、二人目のことであったが、金の玉との対戦の際、土俵の上で何を感じたかも語った。
佐藤は、常と変わらぬ温顔で、羽黒蛇の話を静かに聴いていた。語り終わった。
師は、しばしの沈黙のあと、静かに言葉を紡ぎだした。
「いつか、横綱がどういう信念を持って土俵にあがっておられるか、話されたことがありましたな。どんな信念でしたかのう」
「はい、土俵の上で無駄な動作はしない。待ったはしない。立ち合いで変わらない。叩かない。そして後の先の立ち合いです」
それらは、羽黒蛇が敬愛し、目標とする双葉山の信念でもあるはずだ
「たしかに、そういう信念を持つことによってたどりつける境地というのもあるのかもしれませんなあ」
師は、ふっと、笑みを浮かべた
「横綱は、ずいぶんとたくさんのものを背負って土俵に入られているのですね」
何だって
「それから、金の玉関のこと、神の領域、至高の闘いですか」
師が、瞬時厳しい顔になった。
「横綱らしくもない。大袈裟な物言いです」
この人は、私がたどりついたあの境地を、一笑に伏すのか。いかに師と言えども、あの闘いを愚弄することは許せない。いや、所詮、真に闘った者でなければ理解出来ない境地なのだろう
「顔色が変わられましたか。では、言い方を変えましょう」
羽黒蛇は、師を見つめた。
「横綱は、たかだかそんなところにとどまっておられるおつもりか。どんな背景があったにせよ、ただひとつの闘いを特別なものとして、自ら高みにおく、無駄な心の使い方です。」
佐藤の顔が元の温顔に戻った
「では、横綱にひとつお話しをさせていただきましょう。この話、元の出典は、私もよく知らんのです。私は下村湖人という作家が書かれた次郎物語という小説で知りました。横綱、次郎物語はご存知か」
「いえ、知りません」
「そうですか。私の少年時代には、NHKのドラマにもなったし、必読の書だったのですがなあ」
佐藤は、話始めた
「昔、ある寺にいた若い僧が諸国を修行の旅に出て、数年たって寺に戻ってきたのですな。で、師匠にあたる僧が、どうだった、と訊いたら、若い僧は、地面に円を描いたのです。さらに、それだけか、と訊ねたら、その地面に描いた円をさっさと消したのです。
話は、それで終わりです。」
師は、黙った。
一体、どういう意味なのか。羽黒蛇には分からなかった。師は、この私に何を伝えようとしているのだろう。
羽黒蛇は、師の先程からの話も合わせて考えた。
分かった。羽黒蛇には分かった。自分がなぜ、金の玉征士郎に及ばなかったのか、それも今は理解した。
こんな簡単なことだったのだ。
今、金の玉と対戦したら、もう後れをとることはない。いや、勝つのは私だ。
だが、そんなことはもうどうでもいい。
力士として最高の境地か。私は、何と未熟だったのだ。神の領域。至高の闘い。馬鹿馬鹿しい。何もかも馬鹿馬鹿しい。
「先生、私は」
今のこの私の気持ちを、どう伝えればいいのだろう。いやこの人に説明など不要だ。ただひとこと伝えればよい
「相撲を取ります」
師は、静かに頷いた。
「今、横綱が、どういうお気持ちになられたか、私にも分かると思います。そのお気持ちを言葉で表現することなど不要なのですが、まあやってみましょう」
佐藤は、手を叩いて秘書を呼び、書の準備をするように、と命じた。準備が整った。
「では、横綱に一筆進ぜよう。」
師は、伸びやかに筆を運んだ。
「ま、こんなところですかな」
師が書き上げたのは、
「融通無碍」の四文字だった。
見事な字だった。
佐藤は、その書を羽黒蛇に渡した。
横綱はその書を押しいただいた。
しばらくののち、羽黒蛇は、師のもとを辞した。
居室を出ようとした羽黒蛇を、師が呼び止めた。
「横綱、その書をどうなさる。」
そう問われた羽黒蛇は、師の方を振り返り、手に抱えていた書を、自らの、目の前に掲げた。
しばし、書を眺めた。
そして、破り捨てた。
はっはっは。師は可々大笑した。
帰り道。
大悟してから書を破り捨てたときまでの高揚した気持ちも徐々に静まっていった。
その静まった羽黒蛇の心にひとつの映像が浮かぶ。
金の玉征士郎。
神の押し。
だが、それは羽黒蛇自身が名付けたもの。
私は、あの男を打ち破ることができる、ただひとりの力士だったのだ。
だが、私が未熟だったばかりに。
すまん、許してくれ。征士郎。
羽黒蛇の目から一筋の涙がこぼれた。
横綱羽黒蛇六郎兵衛は、引退届を撤回した。