4 伯耆富士洋
横綱昇進前後のあわただしかった日々もようやく落ち着いてきたある日の夜。
新横綱、伯耆富士は、師匠である父、一代年寄、照富士としばし談笑する機会を持った。
ふたりの話題は、先ずは、金の玉征士郎のことだった。金の玉に対する、次男近江富士の強い気持ちもふたりは熟知していたし、豊後富士の金の玉に対する発言のこともある。
新横綱、伯耆富士洋。彼は金の玉征士郎をどう捉えているのか。
金の玉と本場所の土俵で三度対戦したのは、ただひとり、近江富士明のみ。二度対戦した力士も二人のみ。彼と対戦し敗れた力士は三十一人。伯耆富士もその中のひとりである。
夏場所の優勝力士、伯耆富士。が、十四勝一敗だった彼の星取のその一敗は言うまでもなく、金の玉征士郎に喫したもの。世間が彼の優勝を、金の玉の突然の退場による、棚ぼたと評しているのは、重々承知だ。
これから伯耆富士は、角界の最高峰、横綱としての輝かしい日々が始まる。
だが、それに先立って、金の玉について、彼は、おのれの心の中でどう折り合いをつけるのか。
照富士は、それをおのれの長男に問うた。
「人としては、あんなことになって痛ましい、気の毒だと思いますが、相撲のことに限れば、一度対戦しただけで、リベンジする機会も永久に失われたわけですから、勝ち逃げ。ずるいなあ、と思いますよ」
「そうなのか」
「ええ。でもたしかにすごい力士だったな、と思います。対戦していて粛然とした気持ちになりました。相撲も、彼と取り組んだあとは、自分が技能派力士などと呼ばれているのがばかばかしくなります」
「そうか」
「彼については、相撲の歴史の中でも特別な力士だったと思うしかないですね。敗戦を悔やむより、一度でも対戦したことを幸運だったと。そう考えることにします」
「なるほど」
「それに、私は決して親方を超えられないわけですし、自分を超えたところに、たくさんの力士がいる。金の玉関ひとりにこだわることもないでしょう」
「うん、何だそれは」
「いやだなあ、親方自身が言われたことではないですか」
「儂はお前にもそんなことを言ったのか」
「ええ、だいたい親方がお酒を呑んでおられた時ですが、何度も聴いていますよ。照也も同じだそうですね。あいつも親方がそう思っておられるということは知っていますよ」
照富士は、しばし黙った。酔うと口が軽くなる自分の性癖に舌打ちした。さてどう取り繕うか。難しいな
「洋、何はともあれ、兄弟三人による横綱土俵入という、儂の夢をかなえてくれたのはお前だ。明治神宮での奉納土俵入りの時は、涙が止まらなかったぞ。見事な雲竜型だった」
「親方のご指導のお蔭です」
「儂とお前は、相撲の歴史が始まってから、初めての親子横綱なんだからな」
伯耆富士洋がにやりと笑った
「親方。それだって、親方の予想では、真ん中にいるのは明だったのではないのですか」
「儂はそんなこともお前に言ったのか」
「はい、何度も」
さて、どうフォローしよう。そう言えば、明が一度だけ、儂に訊ねてきたことがあったな。
あれは、自分を相撲の世界に誘うための嘘だったのでしょうと。
そういう訳ではないのだが、よし、この場で使わせてもらうか。
「親方、気にされなくてもいいですよ」
黙ってしまった照富士を見て、伯耆富士洋が、再び言葉をかけた。
「親方の言われていることは、よく理解できます」
「そうなのか」
「ええ、明本人は不満なようですが、今のあいつの出世スピード。相撲の経験があったわけではないものにできるようなもんじゃないです。空恐ろしいです。まあ、小さいころからあいつは何をやってもすごかった」
洋は、弟、明とともにバットとグローブを持って、身体を動かしていた小学生時代のことを思い出していた。あいつは二歳年上の俺より上手かったのだ。運動では、何をやっても明にはコンプレックスを感じていた。相撲を始めてから、そのコンプレックスからやっと逃れられたのに、その世界にも明がやってきた。
そして、その男はどんどん強くなってきている。
千代の富士の相撲を目指し始めたのは分かった。
あの相撲が完成されたら・・・たしかに、私も照也も、そして、父、照富士も超えるだろう。
「親方、あいつなら本当にやってしまうでしょう。公約通り、入門後三年以内の横綱昇進を」
伯耆富士の顔がふっと崩れた。
「実は照也に約束させていることがあるんですよ」
洋の表情は変わらない
「お前は、これから可能な最年少記録をすべて更新する、そう決心しているようだけど
横綱については、一歳近く更新しろと。三年後の初場所に横綱になっていれば、最年少記録更新ですが、それだと、明が公約通り横綱になっても、バファローズに約束した、横綱になってから数場所務めたら、相撲をやめてバファローズに入団するというのを守るのは難しい。一年を数場所と言い張るのはちょっと苦しい」
照富士は、伯耆富士の顔を凝視した。こいつは一体何を言っているのだ。まさか、まさか。
「私と照也にも意地があります。三兄弟による横綱土俵入りどころじゃない。もっともっと親方を喜ばせてさしあげます。時期は、そうですね。二年後の夏場所くらいでしょうか。たったひと場所だけかもしれませんけどね」
照富士は、わが長男が何を言おうとしているのか、正確に理解した
「親方に見せて差し上げます」
照富士は、洋の次の言葉を全身全霊で受け止めようと、心と体を整えた。
「三兄弟同時横綱を」
照富士と伯耆富士の話は、それで終わった訳ではない。
「そう言えば、お前たち、歌手になるんじゃなかったのか。あの話は、どうなった。」
「本当だったら、夏場所後の休みの間にレコーディングするはずだったんですけどね。延期です。」
「何で」
「親方、金の玉関が、ああなってしまったのに、今、われわれ兄弟が、あんな歌を世の中に出せる訳がありません。もし、やってしまったら、一体どう言うことになってしまうか。想像したくもありません。」
「どんな歌なんだ。」
「ずいぶんと昔に人気のあった歌をアレンジしたものだそうです。どんな試練がこようとも、土俵に咲かすぞ、兄弟花を。これが僕らの青春さ」
「ううむ」
「さびの部分は、兄から弟へ。と叫びながら、私がふたりに手を差し伸べる。明と照也が手を差し出してこれを受ける。
でその途中で、明がくるっと、向きを変える。
次は弟から兄へ、と続きますが、さっきと逆ですね。明は、また途中で向きを変えます」
「ううむ」
「照也のシングルデビューも延期です。
僕は土俵の王子様。ルックス抜群。相撲も抜群。どんな相手もいちころさ」
「そんな歌詞なのか。それじゃ、他の力士連中から、反感をかうぞ」
「このあと、ちゃんとフォローの歌詞が入ります。だったら、いいんだけどね、って。
僕は土俵の王子様。王様の、横綱目指して修行中。ドスコイ、ドスコイ。このドスコイのところで、四股、鉄砲、すり足のフリが入ります。」
「ひどいな」
「ええ、ひどいです」
「あの照也が、よくそんなのをOK したな」
「あいつ、世の若い男性に妬まれていますからね。ネットでも、色々書かれています。自分は三枚目の部分もあるんだよ、とアピールしたいようですね」
「ううん、何となくだが、もっと叩かれるような気がするぞ」
「私もそう思います。いたい。すべっている。とか色々言われてしまうんじゃないかと思いますね。むしろ、ああいう顔を持って生まれてしまったのだから、もうあきらめて、高飛車な美少年キャラに徹したほうがいいんじゃないですかね。女の子に対してはどうも、そっちでやっているようですが。これ逆にしたほうがいいんじゃないかと思います」
「それ、照也に言ってやったのか」
「えっ、言いませんよ、そんなこと。本業でもないことで、なんで私が、弟にそこまで教えてやらなきゃいけないんです」
「お前、冷たいな」
「ま、私も若い男性のひとりですから。どこかで痛い目にあったらいいんだ。と思っているのかもしれません。」
「ううむ」
「そのほうがあいつのためにもなるでしょう。おっ、無意識のうちに兄として最善の対処をしているではありませんか」
「ふうむ。」
いたい。すべっている、か。こいつ。自分も一緒になって歌うほうのことはどう思っていたんだろう。訊いてみようか。まあ、どうでもいいか。
「まあ、好きなようにやってくれ。でも歌を出すというときは、普通、師匠に事前に許可を得るもんじゃないのか。事後報告だったよなあ」
「ちゃんと事前に許可いただいていますよ。師匠がお酒を呑まれているときに。そうか、そうか、それは楽しみだって、師匠ご機嫌でした」
照富士はしばし黙った。
「ま、いずれにしても、そんな歌、中止になって良かった」
「親方、中止じゃありません。延期です。ひと場所。名古屋場所のあとの休みにレコーディングです」