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1 羽黒蛇六郎兵衛

先日完結しました、プロの世界を舞台にした相撲小説「金の玉」。その続篇です。

相撲ファンには、よく知られていることですが、土俵周囲に垂れている房は、

青房 青龍・春

赤房 朱雀・夏

白房 白虎・秋

黒房 玄武・冬

を意味します。


本小説のタイトル「四神会する場所」は、大相撲の土俵の意味を、込めています。

 夏場所十三日目、金の玉に敗れた羽黒蛇は、自分がひとつの虚ろな器になってしまったような気がした。

 国技館の土俵で、金の玉とともに立った、たかだか六分か七分の時間。その始まりから終わりまでの間のことが羽黒蛇の脳裏から去らない。羽黒蛇の時間はそこで止まってしまった。

 あれは、一体何だったのだろう。羽黒蛇は思う。

あの時、自分はこの世ならぬ別の次元にいた。彼にはそうとしか思えなかった。


 敗戦の翌日、午前中に流れた、金の玉のニュース。

 ああ、やっぱり。羽黒蛇は思った。

 あの戦いで、私を別の世界に連れて行った男は、その場にこの私を残したまま、私にはもう手の届かない場所に去って行ってしまった。

 そして、この私は。その世界にとどまったままだ。

 彼と同じ場所に行くことはできなかった。そして元の世界にも、もう戻れない。


 私は力士として最高の境地まで到達した男だ。羽黒蛇は思う。

だが、その境地に突然やってきた男は、別の領域に私を連れて行った。

 あの闘い。円の相撲の完成者と、直線の相撲の完成者の闘い。円は直線を包みこむことはできなかった。突き破られた。

だが、羽黒蛇は思う。

 円が直線に敗れたわけではない。羽黒蛇六郎兵衛が、金の玉征士郎に敗れたのだ。たった一度の闘いで。


 あの領域の闘いを知った者は。羽黒蛇は思う。

もう元の世界では闘えない。


 私が二十六年間の人生で築き上げてきたものは、たかだか十秒かそこらの闘いで崩れ去ってしまった。


 十四日目の伯耆富士戦。千秋楽の玉武蔵戦。

 羽黒蛇は土俵に立った。

 だが、彼にはその取組の記憶がない。虚ろな一つの器がその場に置かれていただけだ。

五十二の勝ち星を連ねた大横綱は。

三つの黒星を重ねた。


 夏場所が終わって数日後。

羽黒蛇は、金の玉征士郎が眠る武庫川部屋を訪ねた、 

彼は、逢いたかったのだ。金の玉征士郎にもう一度。


 その男はそこに眠っていた。羽黒蛇は、手を合わせ、こうべを垂れて、静かに瞑目した。

傍らに二人。ひとりは父である武庫川親方。もう一人の女性は、金の玉征士郎の母親である、と紹介された。


「横綱、本日はありがとうございます」

武庫川親方が頭を下げた。

羽黒蛇もまた静かに頭を下げた。

しばしの沈黙が続く。

 金の玉征士郎の親に、私は一体、何を語ればよいのだろう。


 羽黒蛇は、語り始めた。あの日。土俵の上で何があったかを。自分が何を感じたかを。

それは、三十五回闘い、一度も敗れることがなかった力士が、最後に土俵の上にその身を置いた時間である。

 羽黒蛇は語り終えた。

ひとりの力士として自分はご子息に及ばなかった、それが、彼が話した結びの言葉だった。

 武庫川は、一度も口をはさむことなく、羽黒蛇の話を聞き続けた。

十秒ほどの沈黙のあと

「征士郎は、相撲に憑かれた奴でした」

武庫川がぽつりと言った。

「何でそうなったんでしょうね。親方の私がそんなことまで望んではいなかったのに」

武庫川は再び、羽黒蛇に向かって頭を下げた

「横綱、ありがとうございます。今の言葉、こいつには何よりの、はなむけです。

横綱にそこまで言っていただいてこいつも本望でしょう」


武庫川が続けた。

「世間からも、随分と褒め称えてもらって」

無敗力士。

十九歳で不朽の伝説となった男。

 ここ数日、メディアでの金の玉征士郎の取り上げられ方にはすさまじいものがあった。


「何で」

武庫川が、また話し始めた

「何でうちの息子だったんでしょう。横綱が、大横綱羽黒蛇関が及ばなかったですって。

何で、そんなところまで行っちゃったんでしょうね。私はそんなこと望んじゃいなかった。横綱にも、たった一度ではなく、十回でも二十回でも対戦していただきたかった。その中で一度でも横綱から勝ち星を得ることができたら、それを親子で喜び合って、一生の自慢話にして。私はそれで充分だったんです。」

羽黒蛇は何も言えなかった


「横綱、申し訳ありません。折角、横綱に来ていただいたのに」

 武庫川は、我が子が眠る方向を見た。

「横綱、さっきのお言葉、ありがとうございます。征士郎の人生は、横綱のさっきのお言葉で報われた。そう思うことができます」

 

 羽黒蛇は、思った。

 この人は、自分が発したたった一言を糧にして、これからの長い日常を、力士であった息子の思い出ととも生きていくのだ、


 羽黒蛇は深々と頭を下げた。

「親方」

羽黒蛇は決心した。

虚ろとなった中にひとつの思いが浮かび、その思いは徐々に大きくなってきていた。

 今、その思いは羽黒蛇の心を占めた。

そうだ、そうであらねばならない。金の玉征士郎が別の世界に去っていき、あの闘いが彼の最後の闘いであったのならば、羽黒蛇六郎兵衛も、あの闘いに殉じよう。

 あれは至高の闘いだった。これからどんなに力士生活を続けたとしても、あれを超える闘いはもう無い。

そしてその決心を最初に伝えるべきはこの人だ。至高の闘い。その相手となった男の、最も身近な人。


「私は、引退します」

武庫川の顔に驚きの表情が走った。何かを言おうとした。が、結局なんの言葉も、その口からは発っせられなかった。


羽黒蛇は、武庫川部屋を辞した。


「又造さん」

弘子が、話し掛けてきた。

そう言えば、横綱が部屋にいた間、こいつ一言も口をきかなかったな。曲がりなりにも征士郎の母親だ。息子がこうなってしまった直接の原因を作った相手だ。話をする気にはなれなかったのだろう。

「羽黒蛇って」

やはりそうか。恨み言を言って来たら、窘めねば。

「渋いわあ」

何だと

「今まであんまりそんな風に思ったことなかったんだけど。身近でみたら、いい男ねえ。大人の男の、深みと色気が滲み出ちゃってる。そこらの小娘にはちょっとわからないでしょうね。私、見惚れちゃった」

今のこの状況で、最初に言う台詞がそれか。

でもたしかにこいつはこういう奴だった。


 十四年間、会っていなかったというのがなんだか嘘みたいだ。ずっと一緒にいたような気がする。こいつ、いつ戻って来たんだっけ。又造は、ちょっと考えた。まだ一週間か。

でもこの一週間、どれだけ多くのことがあっただろう。

又造は、出奔していた弘子が、戻ってきた日の情景を思い出した。

十四年ぶりに逢う我が子。その息子はベッドに横たわっていた。弘子は狂乱した。征士郎の体に取りすがって、何度も何度も「ごめんね。ごめんね」という言葉ばかりを繰り返した。

 それから、弘子は、どれだけ、征士郎に詫び続けたことだろう。自分を責め続けてきただろう。

 落ち着いたのは、一昨日くらいだろうか。どんなに叫んでも、どんなに悔やんでも、喪われた時間を取り戻すことは、できない。

 弘子も、ようやく、そういう心境にたどり着いたのだろう。

そして、今日は。もうさっきの台詞が出てくるのか。

武庫川は、苦笑した。でもそれは、望ましいことなのだろう。

詫びて赦されることではない。でも詫びるべき相手はもういない。

で、あれば、人は、決して赦されることはない罪を抱えて、それでも生き続けるしかないのだ。


「弘子」

「はい」

「お前も曲がりなりにも親方夫人なんだからな。たとえ、私と二人だけのときとはいえ、羽黒蛇なんて呼び捨てにするんじゃない。ちゃんと「横綱」と言うように」

「はい、分かりました」

随分、素直だな。まあどうせ今だけだろう。

だんだんと変わっていくのだろうな、これから。


「ねえねえ」

今度は何だ

「よ・こ・づ・な。引退するって言ってたね」

「ああ」

「征士郎のこと、すまないって思ったのかしら」

そんな簡単な理由ではないだろう、武庫川は思った。

 それはあってはならないことだ、すぐに止めるべきだったのだろう。とも武庫川は思った。

 だが、羽黒蛇のその言葉を、武庫川親方は心の中に温めておきたかった。少しの時間だけでも。


「ねえねえ」

弘子がまた話し掛けてきた。

「武庫川部屋だけど、どうなるの」

「閉じる」

「何だかもったいないね」

「何を言っている。弟子は征士郎しかいなかったんだぞ。閉じるしかないだろう」

「そっか」

二人は期せずして征士郎が眠る方向を見やった。


 弘子は、元々は、相撲ファンだ。知り合ったのもそれが切っ掛けだ。相撲部屋がどういうものか。部屋のおかみさんがどういう立場で弟子に臨むのかは、分かっている。

 武庫川部屋がもし存続するなら、弘子は、せめてそこに救いを見出だしたかったのかもしれない。相撲部屋の弟子は我が子同然。

 その弟子たちを、おかみさんとして世話をする。

 

 だが、武庫川部屋唯一の弟子はもういない。

 武庫川部屋は閉じるしかないのだ。


 武庫川親方は思う。

 征士郎に対する、今の、嵐のような讃仰の言葉も、哀惜の言葉も、ほんの短い日々で、静かになっていくだろう。

一部の相撲ファンは、時々は思い出してくれるかもしれない。でもそれだけのことだ。

征士郎のこれまでの人生。私は常にそばにいた。そしてこれから先もずっと。

少年時代の征士郎の姿が、又造の脳裏を駆け巡った。それは相撲に憑かれる前の、父を求めてやまない、何かにつけて、父に話し掛けてきた頃の征士郎の姿だった。


「征士郎」

又造は心の中で、たったひとりの我が子に呼び掛けた。

「また、父さんのところに戻ってきてくれたんだな」


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