5.『ボスと呼ばれる男』
多少ハードな畑仕事のお手伝いを終えても、まだ予定の時刻には余裕があった。だからと言って悠長に構えてもいられない。郊外から都心への移動となればそれなりに時間もかかる。須吾老人のお茶のお誘いを断って秀明は表の通りへと出た。
さて、と秀明は辺りを見渡す。目的のレストランまでの道のりは長い。順当に移動手段を考えるならば電車かバスと言ったところなのだろうが、そこまでの移動は徒歩。生憎、先の農作業で少々疲れた。できるならもっと楽がしたい。
彼は道の片隅に停められている一台の車に目を止めると、おもむろにその車に向かっていった。黒塗りでゴツイ高級そうな車だ。スモークフィルムで中の様子は窺えないが、秀明は構わずにその窓をノックした。
しばらく待つが反応がない。続けて、急かすように連続で窓をコツコツと叩くと、止む無しと言った様子でゆっくりと窓ガラスがスライドしていった。
中から姿を現した人間は、如何にもカタギとは違った厳つい顔面をした男だった。無精ひげの顔に濃い色のサングラス。その表情にはいくつもの亀裂が走り、有体に言ってヤクザを連想させた。はち切れんばかりの筋肉を黒スーツで隠し、その男は剣呑さを治めていたいたが、その姿はある種、威圧的な雰囲気を放っていた。
「何の用だ」
常人ならば二秒で逃げ出しそうな怒りの波動を放ちながら、男は端的にそう言ってきた。
「待ち合わせしてるんだ。そこまで乗せてってくれよ」
負けじと秀明もそう言い放つと、男はさらに怒りの色を強めて睨みつけてきた。
「ナメてんのか?」
人でも殺しそうなビリビリとした怒りを秀明に刺しながら、男は吐き捨てる。正直殺されていないのが不思議な様子だったが、男は車体を手のひらでバンバン叩きながら、さらに言い放った。
「この車がタクシーに見えるのか?」
見たままを言えば、ヤクザの親分さんでも乗っていそうな黒光りした車だった。タクシーに使うには色々と失う物が多そうだ。だが実際のところを言えば、見た目はアレだが彼はスジモンではないし、知らない仲と言う訳でもなかった。この男と秀明は良く知った仲だった。
彼と秀明とはもう数年の付き合いになる。彼は周囲の人間からボスと呼ばれる男だった。マフィアのボス、ではない。警察組織の公安部所属の構成員の一人で、伊東秀明警護任務を統括している現場のリーダーである。
実のところ、警護任務と言うのは表向きの理由でしかない。その実態は、伊東秀明の監視だった。ぱっと見た範囲では分からないが、この周辺には何人もの公安の人間が居る。その人間が、様々な最先端機器で彼の行動、交流関係を記録し続けている。
「いいじゃんかよ、俺とおっさんの仲だろ?」
馴れ馴れしいその秀明の言葉に、ボスと呼ばれる男は顔面に怒りのシワをさらに増やした。
「どっか行けクソガキが! ぶっ殺されてぇのか!」
傍から見たらヤンキーとヤクザがモメているようにしか見えない。辺りに一般人が居なかったのは幸いだった。下手をすれば警察に通報されかねない。
秀明はこの男と知り合ってから今まで、ほとんど怒りの感情しか感じたことが無かった。よっぽど嫌われているのかと思いきや、そういう訳ではないないらしい。その怒りの方向性は秀明に向けられるものではなく、無節操にバラまかれていた。秀明の人生経験の中でも、こういう人間は珍しかった。きっと鬼か悪魔の生まれ変わりなのだろうと、秀明は半ば本気で信じている。
「どうせ同じ場所に行くんだから構わないだろ?」
言うが早いか秀明は後部座席のドアを開いて車に乗り込む。男が怒りを露わにしていたが秀明は無視して居座り続けた。
「ボス……どうしますか……?」
運転席から男の部下である若い刑事が不安げに声を上げる。助手席に憮然とした表情で腕を組む上司にやや恐怖を覚えている様子だった。
ボスはややそのままの姿勢で黙りこくっていたが、やがて諦めたように舌打ちすると部下に命令した。
「車を出せ」
そのピリピリした空気のまま、車はゆっくりと進み始めた。
「あの……」
車が少し進み始めてから、部下が声を上げる。
「後ろから女性が、物凄い勢いで走って追いかけてきてますけど……どうします?」
「スピード上げて」
にべもなく秀明は言い放った。
「……本当にいいんですか?」
少々不安げに尋ねる部下の男に、事も無げに秀明は告げた。
「だって、あいつストーカーだろ?」
「……そうですね」
車は容赦なくスピードを上げていった。髪を振り乱して走る女の姿が遠ざかって行った。