4.『101号室に住む大家の老人』
秀明は適当にシャワーを浴びて、余所行きの服に着替えると、外の様子をじっと探った。玄関の前には不穏な気配は感じない。どうやら厄介なトラブルたちはどこかに行ってしまったようだ。
ほっと胸を撫でおろし、それでも警戒心は残しつつ、彼は玄関のドアを開いた。やはり自分の部屋の玄関周りに人間の気配はない。秀明はそのままスルスルと外へ滑り出る。
この賃貸アパートすご荘は、築年数が若く、都心から離れていることに目を瞑れば、設備が整った優良な物件だった。二階建てのアパートで部屋数は十二部屋。101号室から207号室まであり、4番台の部屋は欠番である。エントランスはオートロックでセキュリティ管理されており、マンションの余剰スペースにコインランドリー施設まである。その割には賃貸料は安価で、経営管理側としては割に合わないのだが、それにはそれなりの理由があった。
秀明が階下まで降りると、このアパートの管理人に偶然出会った。いや、様子から見るに偶然ではないようだと彼は胸中で否定した。
彼女は普段101号室を占有して住んでいるのだが、通り掛かるのをじっと待っていたのか、それとも外出の気配を察知して待っていたのかは分からないが、老人は管理人室の小窓から秀明の姿を見つけると、そのこじんまりとした事務室からアパートの廊下へとゆっくりと出て来た。
「あら、お出掛けかしら?」
ゴミ出しやちょっとコンビニに行くのとも違う装いを見て、その老女は漏らした。
このご婦人こそ、このアパートすご荘のオーナー兼管理人の須吾老人である。数年前に夫を亡くし、以来このアパートを一人で切り盛りしている。
この場所には以前、須吾老人夫婦の自宅と大きな畑があったらしい。だが、自宅の老朽化と夫婦の高齢化により、それまでの生活の維持が難しくなり、夫婦には身寄りがないこともあって、自宅と大きな畑のほとんどを潰してアパートを建てる決心をしたらしい。須吾老人夫妻が暮らした名残は、今はアパートの裏にある僅かばかりの畑にしかなかった。
「ああ、おばあちゃん、おはよう」
おはようと言う時間には随分遅いが、秀明はそう挨拶を交わした。
須吾老人は身寄りがないせいか、おばあちゃんと呼ばれることを好んだ。自然と、秀明は彼女のことをそう呼ぶことにしていた。自分にも生まれてから祖母と言うものの記憶がないので、おばあちゃんと言うのはこういうモノなのだろうか何となく思っていた。
「さっきは騒がせちゃってごめんね」
彼は軽く詫びを入れた。造りはしっかりしたアパートとは言え、怒鳴り声は広く響いたかも知れない。
しかし彼女は、おや何かあったのかねえと言った調子でとぼけて見せた。どうやらそのことに関しては咎める気はないらしい。
それよりも、と彼女は話を切り替えた。
「ちょっと頼みたいことがあるんだけどねえ」
拝むような仕草を見せる彼女に、いつもの奴だろうと秀明は笑みを見せた。
「また畑仕事?」
「ええ、お願いできるかしら?」
彼女にとっては旦那との思い出のある畑である。損得の問題ではない。どんなに生産性がなかろうと、どんなに年老いて体が辛かろうと、彼女にとってそれを続けることが生きがいの一つなのだろう。
そもそもこのアパート全体がそうだった。利益度外視の経営は、すべて亡くなった夫の計らいによるものだった。夫婦には身寄りがないため、もし片割れが先立てば残された方は孤独になる。現実的な話をすれば孤独死の懸念があった。そう考えた旦那は、思い出の旧家を潰してアパートを建てた。自分の死後、妻が寂しい想いをしないように。アパートであれば常に人が集まる。老後に暇を持て余さないようにと畑を小規模残すことを提案したのも彼であった。アパート建設には相当の予算が必要だったらしいが、子に財産を残す必要もないため、貯蓄をすべてつぎ込むつもりでこのアパートを建てたらしい。規模を大きくすれば利益率も良くなるが、高齢となった夫婦には管理は難しいと判断してこの規模のアパートに収まった。
と言うような話を、秀明は須吾婦人から茶飲み話に以前聞いていた。
秀明はちょっと考えた様子で時計を見た。まだ予定の時間には間がある。手伝うには問題ないだろう。
「ええ、構いませんよ。ちょっとだけならね」
「まあ、ありがとう」
そう言って須吾老人はニッコリとほほ笑んだ。こうやって住人との触れ合いも、彼女にとっては大事な時間の一つなのだろう。年老いて旦那を亡くした者の慰みなのかも知れない。
それに、と秀明は胸中で付け加えた。手伝えば見返りもある。お礼に手作りの菓子や煮物が後で貰える。やる意味は十分にあろうと言うものだ。