7、初めての勝利
『確かに人間みたいね。それも候補者じゃない。でも――』
倒れているのが人間だと認識した瞬間、ヒデカツは走り出していた。砂丘を滑り降りて、一気に距離を詰める。
なにせ今の今まで、この世界に候補者以外の人間がいるという女神の言葉を疑っていたのだ。たとえ死体だったとしても見つかると見つからないのでは大違いだ。
『――前方に脅威を感知』
「っなんだ!!」
五十メートルほどの距離まで近付いたところで、脳内に警告が響いた。
踏む込んだ足をばねにヒデカツは後ろに飛び退く。
その直後、黒い影が目の前を高速で通り過ぎる。退避が遅れていれば、直撃していた。
「……大口じゃないな。なんだこいつ」
『答えてあげたいけど答えてあげられないのよねぇ……まあ、この程度なら問題ないし、いい機会かもね』
「……他人事かよ」
恨めしそうにつぶやきながら、いつでも動けるようにヒデカツは姿勢を低くする。
すぐに姿を消したところからみて地中に潜んでいるのは間違いないが、これまでこの砂漠でみてきたものにはこれほど素早いものはいなかった。
「砂の中の鮫か……こんな映画あったような気がするな……」
『右方向より脅威の接近を感知』
「っ、またか!」
再びの攻撃をヒデカツは前に出ることでかわす。
身体を掠めたのは先ほど見たのと同じ、刃のように鋭い三角形のヒレだ。
鮫のそれに似ているが、動きははるかに早い。大きさはヒデカツの身長ほどもある。
「こいつ、ほかのやつよりしつこいぞ!」
『見るからに肉食系だしね。今の貴方じゃ撒くのは無理だと思うわ』
「ああ、分かってる!」
紙一重で攻撃を回避しながら、ヒデカツは倒れている人影へと走り寄る。
『左方向より――』
「うるさい!!」
眼前に迫るヒレを飛び越えて、ようやく人影のもとへ。砂漠を走っているとは思えないほどの見事な走りだった。
「女の子か!」
倒れていたのは、少女だった。
フードで顔は隠されてはいたが、体つきは間違いなく女性のものだ。
「……冷たい?」
走りながら少女を抱えあげたヒデカツは、困惑の声を上げる。
布越しでも感じられるほどに、少女の身体は冷たく冷え切ってしまっていた。
「くそっ、せっかくここまで来たんだから生きてろよな!」
死体のようだ、とはあえて口にはしない。
ここは砂漠だ。死後何時間たっているにせよ、氷のように冷たいなど普通に考えればありえない。
ならば、この状態で生きているということもありえるかもしれない。
屁理屈と変らないという自覚はあったが、だからといってすぐに諦めるようなヒデカツでもなかった。
『後方より脅威の接近を感知』
「このっ!!」
気合を入れて、ヒデカツは思い切り地面を蹴った。強化された身体能力を持ってすれば人一人を抱えていても、跳躍は可能だ。
飛び込んだ先は馬車の残骸の荷台にあたる部分。直進していた地中の怪物は勢いのまま激突して残骸を横転させた。
「ッ……滅茶苦茶しやがって……」
荷台ごと地面に叩きつけられて、ヒデカツはそう悪態をつく。何度か身体を打ちつけはしたものの、大きなダメージはない。
抱えていた少女にも傷はなかった。
「武器がいる……素手じゃどうにもならん……」
『そうね、貴方に与えた加護には攻撃手段はないわけだし……私、ミスったかも』
「今更かよ……」
少女を一旦降ろして、荷台の中に視線を走らせる。薄暗いが、物の形は問題なく掴めた。
薄い毛布や食料と思しき乾いたパンのようなもの、水の入った瓶。めぼしいものといえば傍に転がっている白い杖ぐらいだ。
しかし、注意深く観察してみると毛布の下から何かが覗いていた。
「……こいつは剣、か?」
指に触れたのは金属の感触、握ってみるとそれは確かに剣の柄だった。
『前方より脅威を感知』
「こうなりゃ自棄だな……」
毛布の下から剣を引きずり出して、荷台の外へと飛び出す。
眼前に迫るのは、巨大なヒレ。立ち向かう時間はあっても、逃げ出す余裕はない。
少女を抱えたままではこの鮫からは逃げ切れないが、今更少女を見捨てるのは後味が悪い。
ヒデカツにとって、戦う理由はそれで十分だった。
「――っ!」
剣を盾にして、ヒデカツは鮫の突撃を正面から受け止める。
骨が軋んで、全身の筋肉が悲鳴を上げる。噛み締めた奥歯が砕けたが、アドレナリンのおかげで痛みを感じることはなかった。
しかし、その甲斐あって、ヒレの持ち主も無傷ではすまなかった。その場から離れると、砂埃を上げながら地上へと姿を現す。
「ギシャア!!」
「サメじゃなくてワニかよ……紛らわしい格好しやがって」
牙を向いてうなるのは、五メートルはあろうかという巨体に鋭利なヒレを生やした爬虫類だった。
常識はずれなのは大きさだけではない。
鱗のように全身を覆っているのは重厚な岩石。おそらくかなり長い年月を経て形成されたのだろう。剣どころか銃火器を使っても貫通は難しい。
「……まったくこっちはただの学生だってのに」
『いいわね、ちょっと迫力不足ではあるけど龍の因子を感じるわ。がんばりなさい、龍殺しは英雄の第一歩よ』
「無茶いいやがって……」
『英雄の人生っていうのそういうものよ。それに心配しなくてもいいわ、その武器があればこんな相手は簡単に片付くから』
「……ならいいんだがな」
手にしている武器を一瞥してから、ヒデカツは爬虫類へと向き直る。荷台から引き抜いたのは、やはり剣だった。
だが、モリガンがいうほどの特別さは一切感じられない。
「グガアアアアアアアアアアアア!!」
「……やりゃいいんだろうがやれば」
柄に手を掛けて、ヒデカツは深呼吸する。震える指には力ずくで言う事を聞かせた。
目の前では怪物が突進の準備をしている。
だが、この際気にしてはいられない。覚悟さえ決まれば、戦える。
「…………いくぞ」
『状態変化、呪いを感知。耐性を獲得、適応完了』
決意と共に剣を鞘から抜き放つ。
同時にヒデカツの頭の中に声が響く。柄を握った手に黒い斑紋が広がるが、次の瞬間には消え失せていた。
”呪い”と呼ばれるこの世界特有の現象。一度発現すれば死をもってしか逃れることのできないはずのそれを、ヒデカツはほんの一瞬で克服していた。
「このっ――!」
「グオオオオオオオオ!」
迫ってくる死に、考えるより先に刃を振るう。
素人丸出しの腰の入っていない一撃。全身の筋肉は痛みにそなえて硬直し、切っ先に速度はない。
しかしながら、情けない使い手を置き去りに剣は成すべき事を成し遂げてみせた。
正面から迫ってくる上あごに剣がぶつかる。返ってきた感触は予想していたような硬いものではなかった。
「――な、なんだ!?」
掌に伝わるのは豆腐を切るように軽く、あまりにも容易い感覚。
その柔らかさは現実のものとなったらしく、岩の肌をしたワニは上あごを中ほどまで切裂かれていた。
「ギャアア!」
傷を負いながらも、ワニは飛び退き、ヒデカツを威嚇する。その巨体からは想像できないほどに敏捷な動きだった。
ヒデカツにとってそうだったようにこの怪物にとっても今の反撃は想定外。これほど深い傷を負わされたのは、初めてのことだった。
けれども、逃げることはしない。彼はこの砂漠の生態系の頂点だ。獲物は逃がしては沽券に関わる。
「一体どうなって……っ!」
『前方に脅威を感知』
全体重を乗せた飛び掛りをヒデカツはすんでのところでかわす。
いくら肉体の強度が上がっているとはいえ、数トンもあるバケモノワニを正面から受け止める気にはならない。
「……そっちがその気なら!」
体勢を立て直してすぐにヒデカツは、剣を構える。
ここまできたらどちらかが死ぬまで戦いは終わらない。目の前の怪物もそう考えているのは、肌に刺さるような殺気からしてあきらかだ。
怪物の傷は深いが、失血死までは時間が掛かる。悠長にしていれば、爪で引き裂かれるか、嚙み殺ろされるかのどちらかだ。
「ギシャアアアア!」
『前方に脅威を――』
ワニの後ろ足に力が篭り、ヒデカツの頭の中で警告が発せられる。
彼我の距離は五メートルほど。
接触まではわずか一秒。
まだ動くには早い。
『――感知」
「おおおおおおおお!!」
土ぼこりが舞い、ワニが動いたその瞬間、ヒデカツは死地へ踏み込む。
目の前に迫るのは、牙の並んだ巨大なアギト。噛み付かれれば、ミンチにされてしまうだろう。
『細菌を感知。耐性を獲得、適応完了』
交差の一瞬、ヒデカツの頭上を巨大な牙が掠める。頭の皮膚が切れて、流れた血で視界の右側が赤く染まった。
脳内の声にも、傷にも構っていられない。勝負をつけるなら、今しかない。
「このっ!!」
ワニの胴体に刃を突き刺し、ヒデカツはそのまま走り抜ける。古ぼけた刃は先ほどと同じように、何の抵抗もなく岩盤のような身体をするりと通り抜けた。
ヒデカツが振り返ると結果は一目瞭然だった。
体長五メートルの怪物は胴体の中ほどから上下に両断され、地面に転がっている。いかにこの砂漠の生物とはいえ、こうなっては生きてはいられない。
「……ざまあみやがれってんだ」
地面に膝をついて、ヒデカツは大きく息を吸う。生きているという実感が、全身を駆け巡っていた。
勝ち負けで言うなら、間違いなくヒデカツの勝ちだ。彼は最初の戦いを無事生き延びた。
それが幸運なことだったのか、不幸なことだったのかは今はまだ分からない。