遡って三十九話(か)
そこはまさに戦場であった
戦さ場と言えばこの私
主人様の拳たるこのワンワンの出番なのだが
今日ばかりは残念な事にこの場で一番役に立たぬのが私
その次に役に立たぬのが不敬な事だが主人様なのだ
女達は皆忙しく駆け回り
おふくろ様も私にお前はおとなしくしていろと言って馳けずり回る
主人様はコレはしょうがないと言われ何かの詩を読み上げカラスに聞かせていた
「今夜、花束の代わりに夜明けの色を誰より先に見せてあげたい」
ああ、確かこれは詩人が母親と産まれる子に捧げた詩だったか
屋敷中の医療用歯車が駆り出され
おふくろ様達までもがリヨの指示で駆け回る
スズの唸り声や悲鳴
息を整えろだの出て来たぞだのと言うキィやセンの声
少し切るぞとリヨがいう
あらかじめ呼び出されていたレーレンにより部屋の菌という菌は全て焼き殺されているのだがそれでも不安になる
子を産み、果てた親の話など珍しくもない
立って座ってを繰り返す私を笑う主人様
「温もりは産まれる前に知っていた、それが無ければこの世は迷路のようなものなのだから」
詩を読み上げる主人様
しかし随分と歯の浮くような詩ですなと言うと主人様は笑われ、本の表紙を私に見せる
【愛の歌 詩人ワンワン】
私はこれは失礼いたしましたと言って畏まり
この口めと己の口を叱る
そんな事をするうちに湯が運ばれ出し
誰が沸騰させたとリヨが叱る声とうろたえるレーレンの声が聞こえ
急いて次の湯が運ばれ、しばらくして産声が《館》に響く
主人様は本を閉じ立ち上がるとおふくろ様が迎えにいらっしゃるまでそのまま待ち
随分と長く待たされた後にやって来たおふくろ様の案内でスズの部屋へと向かう
女達は皆疲れたように笑い
部屋にはお産のあの匂いが立ち込める
私は駆け込みたい己を抑え、主人様の後に続きこの地の初子を眺めた
がっかりしなかったと言えば嘘になる
やはり毛無か
そうは思ったがスズの子は私の子だ
コレを祝えぬようでは兄ではない
兄妹とは喜びも悲しみも分け合うものなのだ
スズは力の入らぬ様子で抱きしめる子を見つめ
主人様にどうかこの子に名を授けて下さいと願い出た
不敬なと言ってやりたいが
私も同じ事を考えていたのだから笑ってしまう
私も膝をつきどうか初子に恩名を下さいますようと頭を下げた
主人様は笑い
初子なのだから親のお前がつけてやるといい
お前のつけた名が私のつけた名だと仰られ、スズの寝台の横に腰掛けられた
ゆっくり考えるといいと仰って
スズは笑って“はい”と答えると
疲れで回らぬ頭を必死に動かし
ジッと私を見て“マイ”と呟いた
それは
死んだスズの産みの親の名だ
私はそれでいいのか?と聞いたがスズはそれがいいと答え
主人様に名が決まりましたと言って己が娘を抱きしめた
“名はマイ、名の意味は『楽しい』。どうかたくさん笑って欲しく付けました”
主人様は頷かれ、おふくろ様より筆と紙を受け取るとそこにマイとしたためる
「大森林へようこそ、マイ。大森林は君のことを歓迎する」
主人様はそう仰りスズとマイに口づけをされ部屋に戻られた
私はスズの横に立つと一応一年の間なら名は変えられるぞと言って新たな命に爪を伸ばす
新たな命は私の爪をしっかりと掴む
母となったスズは汚いわよと言って私の手を払うと疲れたようにこちらを向き
誰が変えるものですかと言って笑った
私はそうかと答えると新たな命を覗き込み挨拶をした
「初めましてマイ、私がワンワンだ、お前のワンワンだ。何かあればなんでも言うといい」
“では休ませて下さい、疲れました”
お前に言ったのではないぞ?
私の返事もまたずスズは目をつぶり横になった
その周りを女達が囲み
おふくろ様は手をグーパーさせながら何か言いたげにウロウロされている
“シジュウ様、どうか娘を抱いてあげて下さい、ワンワンはその次です”
うっすらと目を開けるスズの言葉におふくろ様はわかったと頷き
赤子を抱えると私がお前のババですよとあやされ
横目で私を見て、少し名残惜しそうにさあお前もと言ってマイを私に渡す
私は手の中の赤子をしげしげと見つめる
すると手の中の赤子が笑ったのだ
何をバカなと言うものは言え
億万年生きた私が言うのだから間違いない
このワンワン
子供可愛さに目が曇ったことなど一度もないのだ




