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友に捧げる祈り


 エルネスト・エリック王子は片恋の相手を優しく、しっかりと抱きしめていた。

 セリーヌは部屋着である。

 従って、通常なら身につけているはずのコルセット等が、ない。

 つまり、抱きしめた感触が、柔らかい。


「もう、大丈夫です、セリーヌ嬢」

 片恋の相手と体を密着させ、その温度を身近に感じているエリックは、侍従であるギーを見上げた。

 ギーは難解な幾何学の問題を紙に書いて、立っていた。

 必死に頭を回転しながら幾何学の問題を解き続け、そうすることでふんわりと漂う花のような香気から意識を逸らす。

 ――ここで押し倒しちゃダメだ!

 それがこの主従に共通する危機感だった。


『上着を』

 と、ギーが掲げる紙に記してあるのを読んで、エリックはこの場ににっくき恋敵のディーター王妃子もいることに気づいた。

 いそいそと上着を脱ぎ、恋する相手の無防備な体を覆う。

「――エルネスト、さま……」

 嗚咽混じりに名前を呼ばれ、しかも自分の服を着せられたセリーヌがあまりにか弱く愛らしく、エリックの理性は本能の前に敗北を告げかけたが……耐えた。

 もうちょっとで解けそうな、幾何学の問題のおかげだった。


「もう大丈夫です。

 何人たりとも、貴女を害せる者はいません」

 宥めるように、その華奢な背中を撫でる。

 彼の脳裏に複数の数式が並んでいることなど、セリーヌは思いもしないだろう。



 一人の王子の幸せで苦痛に満ちた時間は思いの外すぐに終わった。

 フェリクスの片付け指示が敏速だったからだ。

「姉上、ご無事で何よりです」

「――っ!?」

 弟の声に、セリーヌはハッと羞恥にまみれた顔でエリックから身を離し、弟の元へと去ってしまった。


「……拷問がもう懐かしい……」

「大丈夫です。

 これから何度でも機会はあります」

 まだほのかに温もりの残る腕を未練がましく見つめるエリックを、浅黒い侍従は冷静に慰めた。


「場所を移しましょう。

 ここは女性にとってはあまり気持ちのいい場所ではありませんから」

 いつの間にか屋敷内を把握していたコレットに命じて部屋を整えさせていたフェリクスは、改めて姉とアルベルタをまともな客間に誘った。

 当主の寝室を出る前に簡単な身支度が出来るよう、コレットにドレスも用意させている。


「――ありがとう、フェリクス」

 エリック王子の件が判明してから距離を置かれていたフェリクスは、愛する姉からの感謝の言葉に顔を緩めた。

「私からも、礼を言おう。

 助かった、マコーミックの若君」

 そしてアルベルタからの謝辞には、きちんとしたお辞儀で応えた。


 丁寧に、視線はアルベルタから外している。

 弟のディーター王妃子の上着を着ているとはいえ、明らかに寝衣姿だったし、それも乱れている様子だったから。

「では、私達は先に参ります」

 無力化した屋敷を、まるで貴賓を迎えた当主のように、フェリクスは頭を下げたのだった。




 身支度を調えたアルベルタは、客間でフェリクスとエリック王子に頭を下げた。

「貴方方の大切な女性を巻き込んでしまって申し訳ないと思っている。

 ウィニートは中立都市だからと、護衛を減らした私が甘かった」

「アルベルタ様、そんな……わたくしの方こそ、守っていただくばかりでしたのに……っ!」

 声を上げたセリーヌを制し、アルベルタは続けた。


「だが、貴方方の姫君の純潔は私が保証する。

 あの男には指一本触れられてはいない。

 ……ギリギリだったけれどね」

 アルベルタのほのかな微笑に、フェリクスよりもエリックの浮かべた笑顔が凄まじかった。

 その笑顔も、続くアルベルタの言葉に、気遣わしげに伏せられた。


「私は残念ながら傷物になってしまったわけだが、女王位を継ぐにあたって純潔性は求められない。

 ……幸いなことに」

 セリーヌは、愁いを含んだ目でアルベルタを見つめたが、諦めたようにそっと視線を落とした。

「姉上、そんなことをこの場で言うべきでは……!」

 窘めるディーターに、アルベルタは僅かに狼狽を浮かべた。


 それはごく自然な表情で、なんの作為も感じられないように見えた。

「――っ。

 すまない、今の言葉は忘れて欲しい」

 だがフェリクスは、アルベルタを見やる姉の態度から、その不自然さを察知した。

 それでも、その違和感を表情に、ましてや口に出すほど愚かでもなかった。


「私達は何も聞いていません。

 ……もし、良ければベルトマーに私の名前で書簡を出しても……貴女の、純潔を保証するものを」

 エリックの根底は善人である。

 そのため、名誉を疑われる女性に対して擁護を申し出た。


「いえ。

 貴方は今、非公式でウィニートにいらっしゃる。

 そんな貴方の書簡では、説得力に欠けるでしょう。

 ……女王位に関係する事案ではありませんので、お気遣いだけ受け取っておきましょう」

 フェリクスも、アルベルタの言葉を支持した。


「殿下、余計な書簡をさし上げては、却って王太女殿下の名誉を疑う者も出てくるでしょう。

 何もなさらないことが最善手かと」

 アルベルタが何らかの意図をもって、純潔ではないと見せかけたがっていることを敏感に察したフェリクスは、アルベルタではなく姉が安堵の吐息をついたことによってその確信を深めていた。




 翌朝、厳重な警護の元、それぞれの国へと帰途につく二人の友は、最後に僅かな時間を共有した。

「約束してください、アルベルタ様。

 貴女に恋する方ができたなら、わたくしに貴女の名誉を保証させていただくことを」

 客間に並び立ち、手と手を取り合った二人は、廊下の外どころか室内にいても聞き取れないだろうほどの小声で囁き合った。


「私は、恋はしないと思うけれどね。

 ……だが約束しよう、セリーヌ。

 そして、祈って欲しい。

 私に、賢い恋ができるように、と」


 アルベルタの目は、未だに苦悶に歪んでいた。

 母との関係に悩む、娘の目だった。

 セリーヌは、その痛みを祓うため、懸命に微笑んだ。


「祈っております。

 貴女に、優しい恋が訪れますように、と」

 アルベルタは、戸惑ったようにセリーヌを見て、そしていつものように力強く笑った。

「ありがとう、セリーヌ」

 アルベルタ自身、少しもそんな可能性は信じていないのだと知れた。

 だからこそセリーヌは、友のために心から祈った。


 これから、長い時を別々に歩むだろう友のために。





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