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笑え


 母は、いつも幸せそうだった。

『みぃんな、私を愛してくださるの。

 とっても幸せよ、アルベルタ。

 あなたにも、この幸せを感じてほしいの』


 貧しい男爵令嬢が、他国の王女を押しのけて王妃にのし上がった。

 それどころか、史上初となる、一妻多夫制を敷いた。

 王家の血筋を欠片も持たない女に、国王は夫の一人となって愛情を注いだのだ。

 彼らは、良いだろう。

 愛情に満ちた関係で、それぞれの夫達が協力し合って国を導いていく姿は、美しく見えなくもない。


 ――だが。

 それに倣った臣下は。

 あいまいな血統を持つ次期女王は、どうすればいい?




「よう参られた、アルベルタ王妃子殿」

 不摂生がたたって白髪になったのではないかと見えるようなノルドストレーム大公・イデオンに、アルベルタは強ばった笑みを浮かべた。


『あなたは微笑っているだけでいいの。

 周りの殿方がなんでもあなたの望みを叶えてくださるのだから。

 だから、難しいお勉強よりも綺麗なドレスを着ましょう?』


 王妃の考えは、ベルトマー王宮の中では絶対だった。

 女王となって、これからの難しい国内の舵取りをこなさなければならないアルベルタは、ろくな教育を与えられなかった。

 だから、ウィニート大学で得られる知識に、アルベルタは夢中になった。

 それでも、付け焼き刃の知識でどうにかできると思うほど、子供ではなかった。


 そして、ただ子供に甘んじていられるほど容易い王宮生活でも、なかったのだ。


「ベルトマーの男女と呼ばれている私を呼ばれるとは、酔狂なことですね、大公」

 怯えれば、図に乗ってくる。

 悲しめば、傷口を広げられる。

 怒れば、非難される。


 だから、笑うのだ。

 誰にも、何者もアルベルタを傷つけ、汚せはしないのだと。

 

 さぁ、笑え。


 


 


 客室は、王族と公爵令嬢を幽閉するだけあって豪奢な造りだった。

 寝室と続きの居間までが、セリーヌが行動の自由を認められている範囲の全てだった。

 その寝室の、タペストリーをセリーヌはじっと眺めていた。

 友の危難に無力な己を無為に嘆き、嘆き疲れた時に気づいたのだ。

 客室には過剰に思える艶めかしさがもたらす、違和感に。


「星のドレス……導く、紅薔薇……」

 客室に飾られた、昔話の一場面を模したタペストリーは、だが王妃の不貞を表現していた。

 上品な家具に彩られたその部屋で、タペストリーだけが品を失いかねないほどに浮いていた。


「王妃は夫の弟に恋をし、隠し通路を通って恋の逢瀬を愉しんだ……」

 その一連のきっかけである紅薔薇が、タペストリーの隅に小さく描かれていた。

 セリーヌは、床に膝をつき、低く身を屈めてタペストリーの端をそっとめくった。

 そこには、壁に同化しそうなほど小さな窪みがあった。


「やはり……隠し通路……!」

 友の危難に苦悩しながら、考えていたことがある。

 父は、弟は必ず助けに来てくれる。

 それでも、致命的なまでに時間が足りない。


「時間を、稼ぐのよ……!」

 騒ぎを起こし、アルベルタを穢そうとする欲望から、たったの一晩でもいいから猶予を得るのだ。

 もし……万が一、それでも時間が足りないというならば……。

「……ごめんなさい、お父様、フェリクス……」


 あんなに誇り高い人を、おぞましい欲望などで穢させてはならないのだ。

 いざとなれば、身代わりに。

 あれほど厭うていた王太子妃にも、ならずにすむ。

 エルネストの妻に……ならずに、すむ……。

 

「……ごめんなさい」

 セリーヌはきつく瞼を閉じて滲む温かいものを振り払い、そうして隠し扉を開いた。

 恐らくは忘れられた通路だったのだろう。

 石造りの暗い通路には、湿って埃っぽい空気が僅かに流れていた。

 客室を振り返り、手燭を手に取った。

 震える手で、寝室のシーツに火を移す。


 火は、震える手のせいで何度か消えた。

 それでも、何度も繰り返す努力によって、ついにベッドには大きな炎が宿った。

 セリーヌは己がもたらした凶行に怯えたように震えた。

 それでも、セリーヌは安全な居間への道から目を逸らし、どこへ向かうともしれない、暗い隠し通路へと、足を踏み入れた。




 通路には、安全のためか凹凸のない滑らかな床が敷かれていた。

 それでも、その上には手燭の灯りを通してさえはっきりと分かるほどに白い埃が積もっていた。

 足跡がどこにもないということはやはり、セリーヌの直感通り、この通路は忘れ去られた通路なのかもしれなかった。

 通路は、柔らかな室内履きを貫くほどの冷たさが底からにじみ出していた。

 簡易な室内着を纏ったセリーヌは、小さく震えた。


 吐息の音さえ聞き取れるほど、通路は静かだった。

 セリーヌが放った火が、未だ見つかっていないのか、それとも……。

 きゅっと口を噤んで、ただ片方にのみ伸びる通路の先へと足を進めた。


「……きっと、可能性は二つ……」

 静寂と暗闇に耐えきれなくて、セリーヌは口を開いた。

「脱出口か……あるいは、当主の寝室……」

 館を離れた森小屋に抜ける可能性もあった。

 だが、セリーヌが背にしたのは客室だ。

 客室から敷地外へ抜け出る脱出路とは考えにくい。


 当主の部屋、もしくはそこに準じる部屋ではないだろうか。

 当主が、いかがわしい遊びに興じるための。

 セリーヌが専攻する古典文学でも、よく見られる描写なのだから。


「どうか……どうか……!」

 手燭が照らす範囲は、それほど広くない。

 初めての、暗く埃にまみれた場所に叫び出したくなる衝動も募る。

 だが、それ以上にセリーヌを襲ったものは。


 どうか、友の危機に間に合いますように、という切望だった。





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