はつかぜ
昼過ぎ頃、三条の屋敷にやって来た一台の牛車には二人乗っていた。一人は昨日会った一成。そして、もう一人は弟の良明という。
寝殿に通された二人は今、雪子の目の前にいるが、話し合いの邪魔になると思って几帳を移動させておいたが、やはり几帳を立てた方が良かったのかもしれない。
現に、目の前に座っている二人は少し驚いた表情で、目が泳いでいるのが分かる。
「あの……やはり、几帳を立てましょうか?」
「あっ、いえ……ただ……」
「普通、年頃の女人が殿方と話す際は几帳を隔てますが……。今後、やはり人前へと出るとなると、慣れておかなければなりませんから」
これから女房になろうが、出家しようが、人前に出る事が増えるのは確かだ。
ちらりと一成の弟の方へ目配せする。少し緊張しているのだろうか。弟の方は口を固く閉ざしている。 そこへ、夕凪と小竹が高坏に切った梨をのせてやって来た。
「ご覧の通り、荒れ放題のあばら家ですので、あまりお持て成しは出来ませんが、宜しければどうぞ」
小竹は少し二人を訝しげに見ているが、夕凪の方は年の近い男児と言えば志木しかいないので、知らない顔の良明に戸惑っているのだろう。
少し、顔を赤らめながら彼の目の前に高坏を置く。
小竹と夕凪が雪子の傍らに座るのを見届けてから、雪子は口を開いた。
「では、昨日の話についてなんですが……」
「実はその事ですが、昨日一日考えてみたのです」
昨日と変わらない、穏やかな口調だが、少し声が震えているようにも思えた。
「はい……」
「出来れば、こちらのお屋敷をお借りしたいと思いまして」
「そう、ですか……」
その言葉を聞いて、雪子は思わず息を吐いた。
「では、こちらの地券を……」
懐に収めていた地券を取り出そうとすると、一成はそれを手で制す。
「私たち兄弟はここの屋敷をお借りしたいと思っています。ですが、主はあなた様です」
「え……?」
思わず聞き返してから、雪子は傍らにいる二人を振り返る。
しかし、二人も首を傾げているだけだった。
「あの、それは一体どういう意味でございますか」
「つまり、生活は今のままで、私たち兄弟がこちらへ引っ越したいという事です」
「まぁ、簡単に言うと同居という言葉一番しっくりとくるけどな」
隣に座っている良明が一成の言葉に補足するように小さな声で付け加える。
「えっ?」
さすがの小竹も驚いた声を上げるが、一番驚いている雪子は声さえもあげられなかった。
「そ、その……一緒に、という意味ですか」
夕凪が精一杯の声で尋ねると、一成は深く頷いた。
「家人になる、と考えた方がいいかもしれません。なので、出仕している私達が得た糧を姫君に使っていただくということになりますね」
「ひ、姫様っ! どっ……どうなさるのですか……!?」
小竹が戸惑いの声を上げながら、雪子のすぐ傍まで近づいてくる。
相当、動揺しているようだ。
考えていなかったことの斜め上の返事が返ってきたことに、自分だって勿論、動揺している。一成とその兄弟とここの屋敷に一緒に住むということは理屈では分かるが、まだ頭が追いついてこなかった。
それでも、心の奥底に何かの感情が浮かんでこようとする。
自分は、驚いているだけではない。嬉しいのだ。
「一成様たちが……一緒にここに住むのですか」
ようやく出た声はすでに掠れていた。
「はい。ですが、姫君がお断りする場合は勿論引き下がりますし、女房になりここを出て行く予定であっても、引き止めはいたしません。ただ、地券は頂きませんので、結局ここの屋敷の主はあなた様ということになります」
ここを出て行く理由はただ一つ、家族を守るためだ。
それは、生きていく上で頼る当てのない自分には梨壺の女御からの援助を受けなければ生きていけないからだ。どれほど針仕事をしても埋らないものはある。
そして、梨壺からの援助を断ち切るには、自分がいなければいいのだ。
しかし、日々の糧を一成達がこの屋敷にもたらしてくれるというのであれば、話は変わってくる。
「一つ、お尋ねします」
「何でしょうか」
「わたくしが主となり、あなた様方が家人となると仰るならば……。わたくしはあなた様を頼ってもいいのですか」
我慢していなければ、涙が出てしまいそうだった。
もう、耐えなくていいのか。あの場所へ行かなくてもいいのか。
言いたいことも聞いてほしいこともたくさんある。
だが、一番聞きたいのはその先だった。
「勿論です。……あなた様は家族を守るためにここを出て行くと仰っていました」
その言葉に小竹と夕凪が肩を震わせる。なぜ、自分が女房か出家しようかと考えている理由を知ってしまったのだろう。
「ですが、もしあなた様が出て行かなくても済む方法があるならば、私はそれを選びたいと思います。他の方を頼らずに、私を頼って下さるのであれば、あなた様の家族を守ることが出来ると思います」
守りたいと思っていた。
それでも、自分の力ではどうにも出来なくて、頼るあてなどなくて。
苦労や不安ばかり与えていないだろうか、辛くて泣いたりしていないだろうか。
自分のことはいいから、どうか―――。
いつの間にか、握り締めていた両手には二人分の手が添えられていた。
答えは、本当は一つだった。
一緒に居たい。
たとえ生活が苦しくても、傍でずっと今までのように、一緒に居たかった。
「……一成様。どうしてあなた様はそこまで……」
「自分と同じだと思ったからです」
そう言って一成は良明の頭をぽんっと撫でる。
「私もあなた様と同じものを守りたいと思うのです。大切なものですから……どうか、幸せになってほしいと思うのですよ。出来れば、自分がそれを見届けたいと」
「っ……」
そうだ、自分も同じなのだ。
大切だからこそ出来るならば、自分の手で守りたい。
幸せを見届けてあげたい。そう願っていた。
「一成様」
「はい」
俯いてしまいそうになる顔を必死に上にあげて、感情を押しとどめて、一成を真っ直ぐと見る。
穏やかな表情は変わらない。優しさがそこにあるだけで。
「不束な主ですが、家人共々、どうぞ宜しくお願い致します」
ゆっくりと、はっきりとそう告げて頭を下げる。
ふと、同じ気配がした。隣の二人と頭を下げていた。
「こちらこそ、微弱ですがお力になりたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします」
そう言って、一成たちも揃って頭を下げる。
この時、初めて心の底から安堵しているのを実感した。今までで味わった事がない安心感は、とても心地良いものだった。
「それでは、早速引越しの日取りについてですが……」
「今日でも構いません」
一成の言葉を遮るように雪子ははっきりと述べる。
だが、そこには今までの表情とは変わり、柔らかな笑みがあった。
「どうぞ、ご兄弟様を今日お連れして下さって構いません」
雪子の言葉に兄弟二人は顔を見合わせて笑顔で頷いた。
「では一度、二条の屋敷に戻り、全員をお連れします」
「あ、一兄! 俺、走って先に知らせに行ってくる!」
良明はすっと立ち上がり、御簾の向こうへとあっという間に行ってしまう。
「では、あたしたちも寝殿の掃除でもしますか」
「私は浜木さんたちに伝えてきます!」
止める暇もなく、小竹も夕凪も引越しの準備をしに行き、二人だけその場に残される。妙な沈黙に思わず同時に噴き出してしまった。
「……では、私も行きますので。またすぐに戻ります」
「はい……」
牛車へと向かう一成を見送りながら、雪子は御簾近くまで寄って見送る。本当ならば、一成は自ら家人となるなど言わなくていい立場のはずだ。
それでも、そこまでして守りたいものがあるのならば、自分もその手伝いをしたいと思った。
「さて、わたくしも掃除でもしようかしら……」
久しぶりに御簾を全部上げて、空気が通るようにしよう。そして、今日の夕餉は少しだけ品目を増やしてもらおう。
普通なら、不安しかないはずの生活に、新しい風が吹きはじめた気がした。