ところせし
二条の屋敷へ着いたのはすっかり日が落ちた後だった。西の対屋ではいつも同じ賑やかな声が響いている。
「あっ! 一兄だ!」
「お帰りなさい、一兄っ!」
自分のもとへ集まってくるのは幼い兄弟たちだ。自分の顔を見て、嬉しそうな表情へぱっと変わるのが分かった。
恐らく、今日もこの家の女房たちに小言を言われたのだろう。そう思うと、いつも胸の奥が引き裂けそうになる。
「ただいま。明悟、睦明、成久。……貴明はいるかい?」
次々と抱っこを迫ってくる弟たちを宥めながら、後ろにいた四男の良明に尋ねる。
「貴明兄なら、さっき、寝殿の殿に呼ばれていたぜ。すぐに戻ってくると思うけど。あぁ、上二人は、今日は遅くなるって。菜子と弥子は夕餉を取りに下屋に行ってる」
寝殿の殿とは、この屋敷の持ち主であり、自分の叔父でもある藤原貴広である。よく息子の貴明を呼んでは、小言を言っている。
「そうか。じゃあ……」
するとそこへ、大きな足音が聞こえてきた。
御簾を大きくくぐって入ってきたのはこの西の対屋の本当の主である藤原貴明だ。同い年だが、どこか子どものような無邪気さが抜けていないのは相変わらずである。
「あ、帰って来ていたのか。わざわざすまんな、姉上への文を届けてもらって」
「いや、構わないよ」
「姉上、元気そうだったか? 俺は最近、忙しくて顔見せに行けなくてなぁ……」
「直接、顔は見ていないが声は元気そうだったよ」
「相変わらず、外に出かけたいと言ってなかったか?」
そう言って頭を掻く貴明に、一成は苦笑気味に頷く。
「……そうだ。忘れるところだった。貴明、少し話しがあるんだが、いいか?」
一成の表情を読み取ったのか、貴明は小さく頷き、顎で向こう側を指す。
「良明、もし、夕餉が運ばれてきたら、先に食べていてくれ。ほら、三人も行儀良く食べなさい」
「分かった」
「はーい」
弟たちの返事を聞いてから、一成は貴明の後ろへと付いていく。
誰もいない、先程までの賑やかな声さえ遠くに聞こえる場所で、貴明は立ち止まってそのまま座った。一成もその隣に座る。
「ここはいつも人払いしてあるから、誰もいない。何でも話していいぞ?」
「あぁ、すまないね。……なぁ、貴明。もし、自分たちがここを出て別の場所へ引っ越すといったら、賛成してくれるかい?」
そういうと、貴明はさほど変わらない様子で頷いた。
「前々から言っていたじゃないか。ある程度、見通しがついたなら、出て行くって。ここは窮屈だろ? 俺はずっといても構わないと思っているが、父上と母上がな~」
うんうん、と深く頷きながら貴明は渋い顔をする。
「そういう話を持ち出すってことは、良い土地でも見つかったのか?」
「いや……そうではないが……。地券ごと、屋敷を譲ると仰っている方が居てね」
「はぁ? 誰が? 当てなんてあったか? 俺も出来るだけ、良い土地を探していたが、屋敷を地券ごと譲るなんて、どこの誰だ?」
「それは……」
そこで、一成は今日あった出来事を全て話し始める。
その途中途中で貴明は目を瞠ったりしていたが、全てを聞き終えると目を閉じて、唸るように言った。
「まさか、あの女一の宮様がな……。そこまで思いつめていたとは……」
「知っているのか」
「噂だけはな。梨壺から流れる噂は女一の宮が元叔母であった梨壺の女御に援助してもらっているって」
「元叔母とはどういうことだ?」
「詳しくは知らないが、女一の宮の母の弟に元々、嫁いでいたらしいと噂があるんだよ。まぁ、本当だったら一度結婚したあと、入内しているってことになるから、その話は禁句扱いだけどな」
「え……」
初耳の話である。
だが、問題は一度嫁いだ娘をどうして入内させることができたのだろうか。
「確か、嫁いですぐにその女一の宮の叔父は亡くなって、梨壺の女御も実家へ戻されたらしい。で、当時中納言だった右大臣は娘が一度嫁いでいた事を隠して入内させた……っていう噂を聞いたことがある。でも、実質的に今も女一の宮の叔母に変わりはないな。なんたって前の主上の弟に入内しているからな」
「そうだったのか……」
深く息を吐く一成を貴明は左腕で小突く。
「で、どうするんだ。その姫様が譲るって言ってるんだろ?」
「そうなんだが……」
「何を躊躇している。お前は、あいつらを守らなきゃいけないんだろう? それなら、こんな場所にいちゃいけない。俺だってそりゃあ、お前たちがここを出て行くのは少しばかり寂しいが、でも出来るなら窮屈な思いをして欲しくはないからな」
いつだって、どんな事でも貴明は自分たち兄弟を助けてくれた。
この支えがなければ、今の自分たちの暮らしはなかっただろう。
「もう今までずっと我慢してきたんだ。こんな機会、二度とないかもしれないぞ」
「……そうだな」
兄弟たちがどんな風にこの屋敷の女房に言われているのは知っている。
陰で言われていることもあれば、自分に直接言ってくることだってある。嫌な顔をされたままで、ここで生きていくには幼い兄弟の心を傷つけてしまうことになる。
自分の前では明るく振舞っていても、抱っこを強請ってきた時に自分の衣をぎゅっと握り締めるあの仕草で伝わってくるのだ。
怖い、辛い、寂しいと。
「明日、文を出すよ。そこで話し合う」
「兄弟には言うのか?」
「決まってから伝えるよ。高望みさせては可哀想だろう?」
「それもそうだな」
そう言って貴明は立ち上がる。
「でも、お前たちが居なくなったら、本当にここが寂しくなるな。姉上も宿下がりした時にお前たちが居ないとつまらないと言って怒るかもしれないぞ」
「はは……。引越ししたら、藤壺の姉上にも伝えておかないとな」
苦笑しながら、一成は遠くを見る。
ここに戻ってくることはないのだろうと密かに思いながら。