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ぐして


「……私も、本来ならば左大臣家の嫡子として役目を果たしているはずでした」

「……え?」

「前左大臣はご存知ですか?」

「えっと……確か八年ほど前に……」

 当時の自分はまだ八歳くらいだったが、亡くなった左大臣と仲が良かった父が静かに涙を流していたことを覚えている。

「そうです。その時の私はまだ出仕を始めて一年程の若造でした。本当に……あっという間でした。それまで住んでいた屋敷は父の弟である藤原貴広にとられ、母は私たち兄弟を連れて橘の実家へと戻りました」

「藤原貴広……今の左大臣ですね」

 雪子の言葉に一成は頷く。

「しかし、左大臣家という大きな後ろ盾を失い、九人の兄弟を育てる事で無理がたたったのでしょう。母は自分たちがせめて独り立ち出来るまで援助してほしいと左大臣に取り成す文を送った後、そのまま息を引き取りました」

 どこか遠くを見ながら、昔話でも語るように一成の言葉はゆっくりだった。

「…………」

「左大臣は兄である私の父が嫌いでした。勿論、私たちも。ですが、幸いにも左大臣の息子である従兄弟と仲が良かったため、今は彼が住んでいる西の対屋を借りていますし、私自身も左近衛府に勤めていますので、何とか暮らしていけています。ただ、寝殿や北の対屋の女房達にも嫌われているので、ずっと家に居なければならない兄弟達が狭い思いをしていると思うと……」

「それは……」

 その言葉を聞いて、雪子は胸の奥が裂けそうなくらいに痛く感じられた。このような優しい人でも、苦労しているのだ。

 家族を守るために、いつも必死なのだ。

「ですから将来、屋敷を構えたいと思い、勤めに励んでいます。下の兄弟二人も同じく勤め始めたので、前に比べれば気が楽なものです」

 先ほどよりも空気が柔らかくなった気がした。人の話をここまで聞くことは初めてだ。

 いつも耳に入るのは自分の事ばかりで、誰かの話など、聞く機会さえなかった。

 そこで、雪子はふと、胸の中にぽつんと浮かんだものを口にする。

「……地券をお譲りしましょうか」

「え?」

「わたくしが今、住んでいる屋敷……前三条大納言の屋敷は九人程なら、簡単に収まる広さを持っています。ただ、手入れする人がいないため、荒れ放題ですが」

 自分でも、ごく自然にそう話すことが出来た。

 屋敷を手放すとは、自分の帰ってくる場所を失うことを意味する。あの家がなければ、自分は女房になるか、出家するかの選択を選びやすくなるだろう。

 だが、目の前の一成は目を瞠り、固まっているだけだった。

「あの……いかがでしょうか?」

「それは……私にあなたが住んでいる屋敷を下さる、という意味ですか?」

「そうですが……」

「しかし、あなたはどうするのですか。家がなくなってしまったら……」

「女房になるか、出家します」

 はっきりと、迷いなくそう告げる。

「もう、決めていたのです。まだ、家人には内緒にしていましたが、前々からずっと思っていました。一成様がわたくしの屋敷を貰って下さるというのならば、今まで鈍っていた選択もやっと決意することが出来ます」

 挑むように雪子は一成の瞳を真っ直ぐ見る。

 先ほどよりも大きく揺れる瞳は戸惑いの色が見えた。

「あなたは……それでいいのですか」

 搾り出したような声は、少しだけ震えていた。

「構いません。覚悟なら出来ています」

 

 生きていく方法は一つだけではない。

 大切な家族を守るために、自分の持つ全てを捨てるだけだ。


 屋敷の扉が鈍く開く音が聞こえた。

 恐らく、自分の屋敷に着いたのだろう。

「返事は急がなくても大丈夫です。ただ、この話は冗談などではなく真剣なものですので、ご家族と話し合ってから、お決め下さいませ」

 雪子は膝で寝ていた夕凪を優しく叩き起こす。少し慌てたように起きた夕凪は寝ぼけているのか、ここはどこだと言わんばかりに首を傾げている。

「もう、三条の屋敷に着いたわよ」

「ふぇっ……? あっ、すみません、姫様……寝てしまいました……」

「大丈夫よ。あなたも疲れていたのでしょう」

 今、木材がぶつかるような音がしたが、寝殿の階に牛車を付けてくれたのだろう。あとはもう、降りるだけだ。

 雪子が動くよりも早く、一成が簾を上へとあげていく。

 外はもう、日が沈んでいた。

「ありがとうございます……」

「いえ、足元にお気をつけ下さい」

 夕凪を先に降ろして、雪子はもう一度だけ、一成の方へと振り返る。

「わざわざ送って下さり、ありがとうございました。先程、申した件について後日、お返事頂ければ幸いです。……それでは」

 頭を下げて、振り返らないまま階を上り、寝殿の御簾をくぐる。後ろを向けば、一成の顔が見る事が出来る。

 だが、そうしないのは、屋敷を押し付けるように譲る事をどこか後ろめたく思っているからかもしれない。

 暫くしてから、牛車が動きだす音が聞こえ、その音は少しずつ遠くなっていった。

 返事を貰えれば自分はもう、梨壺に行かなくて済むし、家人達にも迷惑をかけることはない。

 御簾の内側で、外を見ながら雪子はその場に座り込んだ。


「あーっ!!姫様!!」

 小走りでやってくるのはもう一人の女房、小竹だ。

 暗くてもよくわかるほど、怒っているらしい。

「ごめんなさい……思っていたよりも遅くなってしまって……」

「聞きましたよ。なんでも、梨壺に嫌がらせされたんでしょう!全く、あそこは性質が悪いったらありゃしない!」

 腕を組んで、深く溜息を吐く小竹に雪子は小さく苦笑した。

「でも、食料と着るものを下さるらしいわ」

「そんな事はいいんです! もう、今度は夕凪じゃなくて、あたしを連れて行って下さいよ! あそこの女房は自分たちの方が偉いと思っているのか、姫様をぞんざいに扱うんです! 今度行ったら、一発ずつお見舞いしてやります!!」

 夕凪から全て話は聞いたのだろう。

 こうやって、自分のために怒ってくれるのは嬉しいが、小竹や夕凪の立場が悪くなるのは嫌だ。後ろからやっと追いついたのか夕凪もやってくる。

「あの、浜木さんが夕餉の準備出来てますって……」

「ありがとう。……ねぇ、二人とも」

「何ですか?」

 この屋敷では油は勿体無いという理由で滅多なことでは使わないため、皆、自然に暗闇に目が慣れてしまうようになった。

「わたくし、この屋敷を他の方に譲って、女房か出家しようかと思っているの」

 二人はお互いに顔を見合わせ、そして、小竹は盛大に溜息を吐いた。

「全く、最近何を考えていらっしゃると思えば、そんなことだったんですね」

「そんな事って……とても、大切なことよ? だから、あなたたちの新しい勤め先も見つけようと思っているの」

「何言っているんですか。あたしたちの主人は姫様だけですよ」

「そうですっ。他の人なんて、絶対嫌です!」

「わたくしが誰かの女房になっても?」

「勿論、付いていきますし、出家するならば、寺にでもどこでも付いて行きますよ」

 呆れたように小竹は肩を落とす。

「……そう」

 どうやら、この様子だと自分がたとえ他の勤め先へ二人を見送っても勝手に帰ってきそうな気がする。

「でも、屋敷を他の方に譲ろうと思っているのは本当よ」

「当てがあるんですか?」

「えぇ。今日、牛車で送ってくれた方の話は夕凪から聞いているわよね? その方が九人兄弟で、今住んでいる場所から他へ移りたいと思っていらっしゃるの。だから、その方にお譲りしようと思って」

「えー……。姫様が屋敷をどうするかについては口出しなどしませんけど、その方って本当に信用出来る方なんですか?」

「……わたくしは信用したいと思っているわ。やはり、梨壺の人間ばかり見ているとどうしても人を信用出来なくなってしまうけれど……。どうかしら?」

「姫様がそういうなら、構いませんよ。まぁ、その男に騙されたなら、あたしが一発殴ってきますけどね」

「もう、小竹ったら……」

 拳をぎゅっと握り締める小竹を見て、雪子は小さく笑うとそれにつられたのか、二人も笑い声を上げ始める。

 

 どこまでも付いて来てくれるというのならば、どこへだって行こう。

 生きることが許される限り、どこへでも。


    

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