まどふ
四人乗りの牛車の中では無言が続いた。時折、揺れる簾の向こうの夕焼けが見えた時だけ、青年の顔がはっきり見える。
先ほどまで、頑張って気を張っていたのだろう。夕凪は牛車が宮中を出発してからすぐに眠りこけてしまった。
その頭を雪子は優しく撫でていく。
「良い子ですね」
牛車が軋む音を遮るほど声ははっきり聞こえた。
「えぇ。乳母子でして。でも、妹のような……わたくしには大事な家族です」
今、扇を使って顔を隠してはいない。本当ならばそうしなければならないが、どこか安心する青年の雰囲気に思わず忘れていたのだ。
「大事な家族、ですか」
「はい。えっと……」
「あぁ、名乗るのを忘れていました。私は橘一成と申します」
「橘一成、様……。あ、わたくしは……」
名乗ることは出来ない。
家族でもなければ、結婚をしているわけでもない。
「そうでした。名乗る事は出来ませんね。確か……お住まいは三条にあるとのことですが」
牛車に乗る際に自分は三条の屋敷に住んでいると言ったが、三条の何所辺りなのかまだ話していなかったはずだ。
「はい、前三条大納言の家でございます。……人からは三条と呼ばれていました」
梨壺だけが自分の事をそう呼んでいるだけで、家では姫様としか呼ばれていないし、先ほどの女房が言っていた底落ちの姫という呼び方では呼んでもらいたくはない。
「それならば、姫君とお呼びしますね。あなたと二人だけなので、今はそう呼んでも他に差し支えることはないでしょう」
何と答えようかと思案していると、一成は何食わぬ顔で「姫君」と自分を呼ぶ。
「は、はい……。それで構いません」
見られているような気がして、雪子は思わず視線を交わらないように逸らす。
「では、そうお呼びしますね」
「はい……。……それで、えっと、一成様にはご兄弟がおいでなのですか?」
「えぇ、下に男が六人と女が二人居ます。全員同じ母親から生まれた九人兄弟です。」
「まぁ……」
ということは、一成は長男ということだ。それにしても九人とは中々多い。
主上の皇子や皇女で十人を越えることはあるが、同じ母親で九人も兄弟がいるとは初めて聞いた。
「毎日、笑ったり、泣いたり、怒ったりの連続で騒がしいばかりです」
そう言うものの、一成の表情はどこか嬉しそうだった。
兄弟ともに仲が良いのだろう。
「でも、とても賑やかで楽しそうです。……わたくしにも弟がおりましたが、今は一人なので……兄弟で楽しく出来るのは少し羨ましいですね」
雪子は口元を隠して小さく笑う。
下の兄弟相手に戸惑ったりしている一成の顔を想像してしまい、思わず笑ってしまったのだ。
そこに、ふと沈黙が流れる。それでも牛車が軋む音が遠くに聞こえるようだった。
「……何かあったのですか?」
「え?」
「先ほどは随分とお疲れのご様子でしたので。あぁ、無理にというわけではありません。相談というほどでもありません。ただ、人に話してみて、心のつかえが取れるならばと思いまして」
ただ興味を持って尋ねているのではなさそうだ。
それは一成の顔を見れば一瞬で分かる事だ。
「……一成様は本当にお優しい方ですね」
視界の隅に見える簾の向こう側はもう夕日と暗闇が交わろうとしていた。
「もう、お気づきでしょう。わたくしが誰なのかを」
「……前の主上の女一の宮様、ですね」
「えぇ。やはり、宮中で知らない者は居ないでしょうね。……『底落ちの姫』と呼ばれているくらいですから」
「確かにその呼び名は聞いた事がありました。ですが、あそこまで……本人を目の前にしてそのようなことを申す者がいたとは……」
「後宮はそういう場所です。ですが、気にしていてはきりがありませんから」
でも、あの時は違った。
一成を目の前にしてそう告げられた時、その名で呼ばないでほしいと心から思ったのだ。
「……お父様が亡くなったのも、お母様も、東宮であった弟も、祖父母も母の弟である叔父も……。皆、亡くなったのはわたくしのせいだそうですよ」
自嘲気味に雪子は呟く。
「それは誰が言っているのですか」
「さぁ、誰でしょう。たくさん居ます。父が母しか入内を許さなかったことも関係しているでしょうね」
主上であった父は母しか愛さなかった。
年頃の娘がいる上達部達がいくら自分の娘を入内させようとしても許さなかったのだ。
そして、自分と弟が生まれた。
その事を恨む者がたくさんいたが、もう誰が恨んでいたのか覚えてはいない。そんな三条大納言家に誰かが呪詛をかけたという噂も立っていたくらいだ。
「わたくししか、生き残っていないのです。今までいた女房や仕えてくれていた家人は次々に辞めてもらい、他の働ける場所へ行ってもらいました。もう、あの家にはたくさんの人間が生きていく糧がないですから」
「では今は……」
「今残っている者も、新しい勤め先を見つけようと思っています」
「何故ですか」
「女房になるか、出家しようかと思っているのです」
雪子は真っ直ぐと一成の目を見る。
一瞬だけ、彼の瞳の奥が揺らぐのが見えた。
「わたくしがあの家に居れば、きっと、ずっと残ってくれているでしょう。ですが……今日のように自分のせいで大事な家族まで傷つくのは見たくありません」
ずっと支えてくれていた大事な家族。
自分の力があまりにも微弱過ぎて、それを守るには自分が「姫君」という立場を捨てなければ守れないのだ。
このまま姫君として生きていても、毎日が変わる事はない。
耐えて、耐えて、耐え切って。
そして、そこに何があるというのか。
虚しさだけが残るのではないだろうか。




